第3話 暗夜の狩人〈フクロウ〉
一ヶ月後――。
予測されていた通り、浮遊大陸に動きありとの報せが届けられる。
ノスキー国の王・ザナムはすぐに軍を率い、忠誠を誓う盟主の国・リマを経由し、そこから五十キロ先にある“ハタンジ平野”へと進軍した。
そして、平野の東側に布陣したものの……そこに、ザラムとタウルの姿はなかった。
「に、兄さん、陣に行かなくていいの?」
革鎧を身に纏ったタウルは、おずおずと兄・ザラムに訊ねた。
場所は陣から遠く離れた丘の上。そこには天幕が張られ、見るからに醜悪そうな男たちが賑やかに騒いでいる。
「あ? いらねぇいらねぇ。真っ向からぶつかっても一方的にやられ、バカみたいに『退却ー』つって下がるのがオチだからよ」
ザラムは酒瓶を仰ぎながら言う。
何とザラムの悪党組織に混じり、“戦見物”に興じさせられていたのである。
その頭であるザラムの傍には、胸元が大胆に露わになった真っ赤なドレスを着た女が、慰みを求めるようにしだれかかっている。
「俺たちはそんな無益なことをせず、相手が来るのをじっと待つ」
「ま、待つ? それって、竜を……?」
「そうだ。奴らはハンティング感覚で追撃してくる。俺たちはそこを狙い、あの弩砲でズドン――だ」
対面に座るザラムは背後に、背後に並ぶ床子弩に目をやった。
戦車に据え付けられた、二・五メートルほどの巨大な弩。これが三台並列している。
「――使ってみてえか?」
「え……?」
ザラムの言葉が理解できず、タウルは思わず聞き返した。
「俺の予想では、お前の弓の腕は今、この大陸イチのモノになってるはずだ」
鋭い目で覗き込まれ、思わず顎を引いてしまう。
言葉が理解できなかったのではない。心の奥底にある“欲望”が見抜かれていたのを、タウルは隠したかったのだ。
「これまでにも、色々な獲物を仕留めているそうじゃねえか」
ザラムは両膝に肘を乗せ、言葉を続けた。
「今度は、竜を仕留めてみたくならねえか」
タウルはその光景を想像し、ぶるりと身を震わせてしまった。
ザラムの言葉通り、狩猟――こと弓の扱いに関して何者にも負けない自信がある。
これまで巨鳥や猛獣なども仕留めてきたが、竜はそれとは比べものにならない、“至高の獲物”と言っても過言ではない。
「――もう、ザラムったら。弟クンが怖がってるじゃないの」
ザラムの横にいる女は、甘い声で咎めた。
「ちげぇよ。これは男の武者震いってやつだ」
タウルには聞こえておらず、じいっと床子弩を見つめるままだった。
竜を仕留めることなぞ、これまで考えもしなかったことだ。
並大抵の弓ではほぼ不可能だが、槍を撃ち出すようなこの巨大な弩ならば――。
「この弓の有効射程はどれくらい?」
傍にいた、技師らしき中年太りの男に訊ねる。
「へっへー。待ってやした! おおよそ、六百ぐらいでさ!」
「なるほど……」
そらきたと言わんばかりに自信満々に台座を叩く。
(この弩なら、八百……いや……)
タウルは顎に手をやって考えた。
自分なら、それ以上先の獲物が狙えるだろう。
(狙撃地点となる場所は森の側、また背の高い草も多い。また相手は知恵を持ち、言葉を持つ生き物。騎手と意思疎通を行っているとなれば、そちらの言葉に従うに違いない……)
視線の先には、曇天の下で羽ばたく竜の群れがある。
高度の低いところにいるのなら、狙えなくもなさそうだ。
「な? 獲物を狙うオスの目になったろ?」ザラムは女に言うが、女は「妙ちくりんな兜のせいで分かんないよ」と唇を尖らせる。
「おいおい、この兜は俺が作ってやったんだぞ。タウルが外に出られるようにってよ」
「えー、ホントぉ! ザラムって、弟クンおもいー!」
「だろぉー?」
女を抱き寄せ、乳繰り合い始めたザラムのそれも、タウルには聞こえていない。
傍らにいる一緒につれてこられた相棒・ドゥドゥに目を向け、静かな声で呼びかけた。
「狩りに行くか、ドゥドゥ」
「うぉん!」
ドゥドゥは貪っていた肉を丸のみにすると、揚々と身体を起こした。
それから床子弩の扱い方を訊くとすぐ、タウルは“狩り”に出る。
これを引くのは革のハーネスをつけた白い獣・ドゥドゥである。本来は馬二頭ないし四頭で引く代物なのだが、これをたった一頭で、馬よりも速く森を駆けてゆく。
(あれが竜……ドゥドゥよりも一回り大きいのか……)
上空に羽ばたく神々しい存在を頭上に捉えた時、タウルは胸が躍るのを覚えた。
兜は足下に置いてある。
だが視界に映る〈灰色の世界〉は変わらない。ただ一つ違うのは見え方――目を凝らせば、数百メートル先の小動物まで見ることができる。
〈フクロウの目〉
昼間は眩くて見えないが、光のない夜は昼間のようにハッキリと獲物を捉える、まさにフクロウのような目をしているのである。
目星をつけていた狙撃地点まで来ると、タウルはすぐに準備に取りかかった。
矢は既にセットしてあり、小さく軋む音を伸ばしながら、ゆっくりと照準を合わせてゆく。
狙うのは群れの中でも高度の低い二つ――騎手はやはり女ばかりであるようだ。会話に興じていおり、片方はこちらに背を向け、背に乗せている竜は地上の軍ばかりに気を取られている。
――お前の闇夜を見渡す目は武器だ
――上手く使えばお前は最高のハンターになれる
兄のザラムはそう言い、暗室の中にいたタウルを世界に連れ出した。
タウルは弓のレバーをぐんと押し下げた。
たん、と槍のような矢は飛翔し、天空にいる竜へと向かってゆく。
――お前は〈暗夜の狩人〉になれ
わずかな間を置き、竜が墜ち始めた――。
◇ ◇ ◇
地面に向かって墜ちてゆく竜を見ながら、ザラムは感嘆の息を漏らした。
「――やりやがった」
墜ちてゆく竜を前に、ザラムや悪党組織〈セカンズ〉の者たちは唖然としていた。
だが女の悲鳴が聞こえた途端、ザラムはハッと我に返った。
「おめえら出撃だ! 女は生きてるぞッ!」
右手をあげた瞬間、〈セカンズ〉の仲間たちも自分を取り戻したようだ。
ウオォォォォォ――と歓喜の雄叫びが上がり、みな競うように馬を駆け始める。
ザラムは竜が大地に激突するを見届けると、口を醜悪に歪め、自身も黒馬に飛び乗った。
「ザラムっ、アタシにも〈竜の牙〉おくれよー!」
「おうよ! 指輪がわりにくれてやらぁっ!」
馬が土を蹴り上げ、ザラムはあっと言う間に〈セカンズ〉の先頭に立つ。
数百もの馬の足音は、草木が音を吸収し切れぬほど猛烈な地響きを鳴らす。その勢いで白い毛皮のコートが風になびき、その下の胴鎧が露わになっていた。
「お頭ァッ、旗はどうするんでッ!」
後方から誰かが叫んだ。
ザラムは『旗?』と小首を傾げたが、すぐにそれを思い出した。
「ああそうか。旗を掲げろ――ッ」
アイアイッと威勢のいい返事が聞こえるや、後ろで「旗をーッ!」と呼び合う声がした。
他国にも自身の存在を示さないとならない。面倒だとザラムは思ったが、今はそれよりも目の前の“ご褒美”である。
ノスキー国の兵を示す赤茶色の旗をはためかせながら、ザラムは墜落した竜に向かってゆく。
(暗殺者に仕立て上げたかったんだがな……)
ザラムは弟・タウルがいる方に目を向けた。
仕留めた竜に興味がないのか、じっと空を見上げたままでいる。
(ああ見ろ見ろ。おめぇの〈フクロウの目〉は、何でも仕留められる)
くっくと含み笑みを浮かべたその時、タウルは弓を手にして平原を走り始めた。
◇ ◇ ◇
ルトランが急降下してゆく中、少女は叫んだ。
「ピステはまだ、生きているわ……ッ!」
墜落した従姉妹は、草地の上で、もぞりと動くのが見えた。
ほっと安堵した少女に対し、ルトランは神の気まぐれを呪った。
(屍に群がるハイエナは二百もない。しかしシィエルは今日が初陣――何としても帰還させねば……)
緑の大地が近づいてゆく。
眼下には竜に気付いた人間の群れが、ただ呆然と見上げている。
この真ん中で人を踏み潰しながら着地、尾を薙いで周囲を吹き飛ばす。更にそこからブレスを吐いて――と、ルトランが救出の手順を組み立てたその時、地上を見ていた目がある一角で止まった。
(あれは、トビュスを射落とした弩か?)
林と草むらの際に、大きな弩が据え付けられた車がある。
しかしそれだけ。乗り捨てたのか乗り手や馬がいない。
「――ッ、しまったッ!?」
それに気付いた瞬間、ルトランは空気を蹴り、ぐんと飛翔した。
背中に乗る少女・シィエルは突然の飛翔に呻き、鞍を強く握り締めた。「どうして翔ぶの……ッ」
「早く降りなきゃ……ッ! ピステが……ピステがッ!」
悲鳴のような訴えに、ルトランは目を真下に向けた。
墜落時の衝撃のせいか、竜から十メートルほど離れてた場所で、蹲ったままになっている。
「諦めろシィエルッ! 我々はハメられたッ!」
竜の影に気付き、ピステは弱々しく頭を上げた。
希望に喜んだのもつかの間、迫りくる地上の軍に気づき、その顔が恐怖に歪む。
「ピステッ! 今……今、助けに行くからッ!」
人間の群れはすぐそこ――もはや、絶望的な状況である。
それでもシィエルは諦めようとしなかった。耳の奥でごうごうと風の音がし、風圧で目を開いていられない。しかし、従姉妹の悲鳴・表情はハッキリと見えていた。
ピステは足を引きながら、よろよろと必死で逃げる。
大好きな二つ年上のお姉ちゃんだ。昔からよく遊んでもらい、竜の乗り方も槍の稽古もしてもらった。
だから何としてでも助けてあげたい。そんな気持ちでいっぱいだった。
「くそッ、奴は……奴はどこにいる……ッ!」
ピステを捕らえようとする兵士たちを威嚇しながら、ルトランは忙しく地上を探していた。
草むらは深く、人ひとり伏せていても気付かないだろう。
もう一度検めようと翼を広げ、大きく旋回したその時、
「――ルトランッ、一時の方向で何か光った!」
「なに?」
ルトランはそこに目を向けた。
シィエルの言葉通り、草の中で何かが見え隠れしていた。
「あれがきっとピステを……高度を下げてッ! 槍で狙うわッ!」
シィエルは長槍を逆手に持ち、肩に担ぐように構えた。
仇を討ちたいのだ。ルトランはそれに応じるように高度を落とし、そこに向かってゆく。
(しかし、あそこはさっき見たはずだ)
今一度、竜の目を凝らした。
そこにいたのは――鏡を尻尾にくくりつけ、挑発するように尻を振る珍獣、であった。
「しま……ッ」
絶望が這い上がった。そこに誘導するための罠だ。
シィエルは半身を起こし、背に膝を立てたまま一点だけを見ている。
「シィエル伏せろッ、身体を伏せろッ!」
「え――」
何のことか分からないシィエルは、その姿勢のまま顔だけを前に向ける。
そこには草の中で片膝をつき、今まさに矢を放ったばかり男が見えた。
矢の切っ先が、心臓めがけて飛んでくる。それがハッキリと理解できた。
しかし次の瞬間――翼が視界を遮り、次に灰色の空が見えた。
「う、く……ッ!」
ルトランが空気を蹴り、垂直に跳ね飛んだのだと遅れて分かった。
シィエルは落ちないよう鞍にしがみつく。ぐんぐんと灰色の空が近づいてゆくが……突然、それはピタりと止まった。
「やはり片翼では持たぬか――」
諦めきったような竜の声を受け、シィエルは顔を横に向けた。
そこには驚愕の光景が広がっていた。
「ルトラン! あ、あなた、翼を……!」
左の翼の付け根に、矢が深く突き刺さっていたのである。
風の竜の弱点と言える場所だ。そこで初めて、身を挺して庇ってくれたのだと気付いた。
「短刀を、用意しろ……!」
飛ぶ力が、故郷である浮遊大陸に戻る揚力が得られないのだ。
「き……」シィエルは背中が引っ張られるのを感じ、反射的に雲に向かって右手を伸ばした。「キャアァァァァァァ――ッ」
空が大地に、大地が空に。天変地異が起こったかのように、天と地が入れ替わり続ける。
その間に空はどんどん遠のいてゆき……ついに、大地の上に叩きつけられてしまう。
強い衝撃に襲われると同時に、シィエルの身体は宙に浮き、森の中に放り出された。
「ぐ、ゥ……」
ルトランは苦悶の声を上げ、僅かに巨躯を揺すった。
翼が完全に折れている。――しかし、心配はそこではなかった。
「シィエル……ッ!」
「う……」
シィエルは全身を打ったのか、草地の上でうずくまったまま肩を震わせている。
何とか上半身を持ち上げたが、ルトランを見るその表情には諦めの色が滲んでいた。
「シィエル、短刀で……自決をッ!」
ガサガサと人が近づいてくる気配に気づき、ルトランは躊躇わず命じた。
シィエルはうつろな表情で懐に手をやった。……が、
「あ、れ……?」
鱗鎧の懐をパンパンと叩く。しかしそこにあるのは、空になった鞘だけである。
「た、短刀はどうしたのだッ!」
それにシィエルは、ハッと思い出した顔をした。「あの、時だ……」
「ピステに接近した時……」
急浮上した時、落としたのだと続けた。
他の武器は、すべてルトランの鞍に据え付けてある。
「く……」
「あはは……。私って、最後までダメだね……」
シィエルは弱々しく微笑み、身体を揺らしながら武器を取りにゆこうと足に力を込めて立ち上がる。……が、数歩進んだところで、ゆっくりと振り返った。
「動かないでください」
そこには、先ほど弓を射った男――タウルが立っていた。