第10話 初陣を終えた後の儀式
空が白み始めた頃、タウルたちはオーミの街に戻った。
街の者たちはワルナスの村の奪還、そして水と魚が戻ったことを喜び、生き残った兵たちを歓迎する。……が、タウルたちや〈タスラム〉の者たちは、“戻らぬ魚”に表情を重くし、地面を見て歩き続けていた。
――世界が終末を迎える時。ベヒモスとリヴァイアサンは戦い、敗れたものは食らわれ、勝者は終末の日に生き残った者の糧となる
宿っていたのは金色に輝くチョウザメだった。〈タスラム〉の者たちから〈龍魚〉と呼ばれる魚は、腹に最高級の魚卵を抱えている。ドゥドゥはそれを贅沢に貪ったのである。
「ま、まだ、〈空のジズ〉がいるし、食べられたのはリヴァイアサン本体ではなく依代・化身の方だから……! 大丈夫よ、きっと!」
宿屋に戻ると、シィエルは何の根拠もない言葉を述べ、胸の前で握りこぶしを作った。
「まぁ神獣は三位一体。全部揃わなきゃ、ね……」
「そうそう! ……でも、ドゥドゥが吐き出した〈石〉って、本当にお宝なのかしら?」
残ったのは皮と骨、そして内臓にあった木片にも見紛う〈石〉のみ。
ドゥドゥが吐き出したそれを見るなり、マレーは『もう世界は滅べ』と投げやりにうな垂れた。
何のことかと訊ねると、『天空の者が血眼になって探しているもの』と、彼女は言葉短く答える。それに気付いたのはルトランであった。
〈賢者の石〉
「まさかこれが――浮遊大陸の中枢にあるものって、信じられないわ」
「命を与える石……ルトランですら推測に留めているけれど、それなら空に浮かぶ大陸の上で、作物や植物が育つ理由も頷けるよ」
海底にあったのを龍魚が飲み込んでおり、ドランドルは〈タスラム〉を結成し、空と陸の二つの脅威から守っていた、とマレーは話した。
「定期的に移動し、地上を襲って財宝を探してきたこともね。きっと定期的に交換するなどしないと、あの隔絶された世界が維持できないのだわ」
タウルは「事の真相が見えてきたかもしれない」と頷く。
話はつかの間の沈黙を挟んだことで終わり、シィエルはベッドから足を伸ばし、すっくと立ち上がった。
「汗かいたし、お風呂に行こうよ!」
「い、今からか?」窓は桟板で塞がれているが、隙間から閃光のような眩い光が漏れ込んできている。
「お風呂の中は真っ暗だから平気、平気っ! タウルだって、最後の一日を汗臭いまま寝たくないでしょ!」
「ま、まぁそうだけど」
柔らかな手に引っ張り出されるように、タウルは部屋を出た。
彼女は大食であり、また風呂好きであった。天空では風が吹きさらしなので、身体が冷えやすいのも理由の一つであるらしい。――しかし、今回タウルを連れ回すのは、それ以外の理由があった。
「いつかルトランに怒られなきゃいけないんだし……」
「の、喉元を過ぎ去ればいいの! それに現場でも一度叱咤されたんだから、あれでお終い!」
戦場で気を抜いたことのお説教から逃れるため、何かと理由をつけて逃げ回っているのである。
確かにシィエルのミスではあるものの、善意につけ込んだ行いだ。それを咎められるのは少し可愛そうにも思え、タウルは仕方なく彼女に従うことにしていた。もし説教が始まれば、『ほどほどに』と宥めるつもりでもいる。
(多分、兄さんに言わせれば『甘い奴だ』って怒られそうだけど)
やはり自分には王は向いていない。なんてことを暗い目隠しの下で考えながら、タウルは石畳の上を歩き続けた。
風呂屋はオーミの街の北東側にある。滞在して一週間かそれぐらいであるのに、何とシィエルはもう二桁近くやって来ているらしく、番頭の女将さんとも顔なじみになろうかとしていた。
「へぇ、今日はヨモギなんだ。じゃ――出たら外で待っててね」
連れてくるだけ連れてきておいて、シィエルはスタスタと中に入ってゆく。
この風呂屋は一般的な“蒸し風呂”であるが、他では珍しく男女に分かれた造りとなっているようだ。女性でも安心して入れ、中で炊く薬草や香が毎日違うため、シィエルが足繁く通いたくなるのも分かる店だと感じられた。
タウルは衣類の汗臭さを覚えながら、さっと湯巻きに着替えて浴室へと向かう。
古めかしい木板の扉を押し開くとそこは、ムッとした蒸気と青々としたヨモギの香に満ちていた。
(脱衣所も薄暗くて助かったな。浴室はほぼ暗室に近いし)
手頃な場所に座ると、自然と肺に溜まった空気を吐き出された。
数時間前まで“戦争”をしていたとは思えないほど穏やかな時間を過ごしてゆく。
流れ落ちてゆく汗が心地よく、確かに寝る前に風呂に来てよかったと思えていた。
するとその時……正面に据えていた木扉が、長い軋みをあげた。
タウルは特に気にした様子もなく、分厚い湯煙が渦巻き踊るのを見ながら、『他の客が来たのか』と、ただその程度にしか思っていなかったが――
『はぁい、タウル』
聞き覚えのある声に、タウルは「え」と間の抜けた顔を向けた。
もうもうとした湯煙の中、〈灰色の世界〉に、滑らかな曲線が浮かんでいる。
「し、ししし、シィエル!?」
「何そんなに驚いているのよ」平然とした言葉であるが、そこには“してやったり”な音が含まれているように思えた。「戦闘の疲れを労ってもらおうと思ってね」
「し、しかし……って、“もらおう”?」
「そうよ。竜騎妃は戦闘が終わると、男に接待してもらうの」
「何だと!?」
シィエルは「じゃ、頼むわよー」と言うと、タウルの横に腰掛けた。
「頼むって言われても、い、いったい何をすれば?」
腰を僅かに浮かせてにじり寄る彼女に、思わず身を硬くしてしまう。
「そうね……じゃあまず、肩でも揉んでもらおうかしら」
長い髪をまとめて右肩に回すと、シィエルは背中を向けた。
細く白いうなじにタウルは唾を飲み込み、おそるおそる手を伸ばす。彼女の背中は意外と小さく、肩にかけた手は大きく余った。
「ん――」
女性の肌とはかくも柔軟なのか。タウルは内心驚いていた。
初めて感じる柔肌の感触を前に、まるで壊れ物を扱うかのように揉んでゆく。
力を入れるたびシィエルの口から艶めかしい吐息が漏れ、得も言えぬ感情が掻き立てられてしまう。
湯着は汗と蒸気でしっとりと貼り付き、薄っすらと透けているのだ。
タウルが必死で胸の蟠りを押し留めていると――シィエルはやがて小さく身じろぎをし、顔を横に向けながら「もういいわ」と言った。
「今度は私がしたげる!」
「え、いや……僕は!?」
「ほらほらっ、遠慮しないの!」
ニコニコと笑みを浮かべて振り返った彼女に、タウルは慌てて背を向けた。
湯着から、膨らみの先端が透けていたのだ――。
「そうそう。素直が一番っ!」
丸くなった男の背中に、細くしなやかな手を伸ばす。
そして肩を掴み揚々と力を込めたものの、すぐに戸惑いの声をあげた。「な、なにこれ!?」
「ど、どうしたんだ?」
「どうしたんだ、じゃないわよっ、肩ガッチガチじゃないの!?」
タウルの肩を揺さぶりながら言う。
「ああ、これはもう慢性的なんだ。ここ最近は兜も重くなったから、特に凝ってるかも」
「頭痛くなったりしないの、これ」
「まぁたまに……かな?」
もう、とシィエルは呆れた声を上げた。「お父さんみたいになっちゃうわよ」
「いつも肩いからせてるから、いつもガッチガチ。寝不足や怠さからイライラしてる。眉間の皺がもう凄く深くなって人相も悪いし」
「そうなのか。僕は部屋の中では、弓の手入れか本を読んだりするぐら――あ゛、痛だだだっ!?」
「逃げないの! 岩盤みたいなのを崩さなきゃならないんだから!」
凝りを握りつぶすかのような力で揉まれ、タウルは思わず肩を縮ませてしまう。
「くぉぉ……だ、だけど、天空って女の方が立場が上なの……?」
「んー、これに関してはちょっとややこしいんだけど、竜がトップで、次に竜騎妃がきて竜の力が濃い男とその妻――更に下が、力の薄い男とただの人間ね」
「竜ありきなヒエラルキーなのか」
「妻もまた細かいけどね。子を産めるのは夫より上だし、産まず女は下になるし」
「何でまた?」
「竜を失った時、竜を産める身体かどうかが大事なのよ」
なるほど……とタウルは納得した。
「それと、さ」シィエルは言いにくそうに、口をモゴモゴさせた。「実はこれもその……一応、儀式でもあるのよね」
「ぎ、儀式っていったい……?」
「初陣はもう済んだけれど、あんなことになったじゃない? 本当はあのまま帰ってから、男に接待してもらわないといけないんだけど――」
シィエルはタウルの首の裏を親指で揉み始めた。
それはこれまでの力任せなのとは違い、固まった筋肉を解きほぐすような手つきである。押し黙ったシィエルに不安を覚えながらも、その手の心地よさに身を任せ続けた。
しばらくて、また再び両肩に手をやったが、今回は揉むことはしない。ただ手を添える、身体を支えるそれである。
「タウル――」
シィエルは突然、甘い声を発しながらしだれかかり、そして、うなじに生暖かい吐息を吐きかけた。タウルの身体はこれにぞくりと震え、胸を大きく高鳴らせる。
「し、シィエル……?」
荒い息を吐く彼女のその指先は、肩にがっちりと食い込んでいる。
獲物を捕らえた猛禽類のようでもあり、また竜の爪を連想させた。
「……ごめんね」
シィエルはそう言うなり――タウルの首の裏に、がぶりと噛みついた。