第9話 獣の名は。
シスターの左耳に下がっていたイヤリングが、石畳の上に落ちる。
矢に射貫かれたヴェールが奥の壁に突き刺さっており、横目でそれを見たシスターは、シャギー状の長い髪を揺らしながら、へたっと座り込んだ。
(ふぅ……間に合ってよかった……)
タウルは小さく安堵の息を吐いた。
赤ん坊のお包みかと思いきや、何とそこに白光りするメイスを隠し、シィエルに不意打ちをかけようとしていたのだ。咄嗟に弓を構え、メイスを狙い落とす――完全に戦意を喪失させるため、彼女の耳からぶら下がっている目のようなイヤリングを射て、『いつでも仕留められるぞ』とのメッセージを送った。
それが伝わったのか、シィエルの槍に押し伏せられるがままになっている。
遠くの方から『マレー様が……!』と声がすると、これまでの気勢はたちまち意気阻喪し、水をうったかのように村は静まりかえった。
(あれが、敵側のリーダーなのか……?)
マレーと呼ばれたシスターは、後ろ手に縛られたまま、噛みしめる歯を覗かせる。
タウルは警戒を解かず、慎重にそこに向かってゆく――炎の灯りに〈灰色の世界〉は眩く揺れているが、マレーの視線がずっと水面に向かっていることに気付いた。
そう言えば、“ご神体”と呼ばれた黄金の魚を捕らえた、との報告を聞いていない。
ひょっとすると〈タスラム〉はそれを逃がすために、命を賭して戦っていたのかと、タウルは推察した。
「シィエル、大丈夫か」
シィエルの下にゆくと、彼女は槍の切っ先を突きつけていた槍を離し、
「タウル……! ありがとうー……っ!」
「わっ!?」引き締めた表情を解き、飛びつくようにタウルに抱きついていた。
ルトランも今回ばかりは肝を冷やしたのか、「今回ばかりは礼を言おう」と、言葉短く告げた。
「――しかし、シィエル。お前は後でお説教だ」
「え、えぇ~……!」
「当たり前だッ! 兇手のことも考えず、警戒を解きおってッ!」
「あ、あうぅぅ……タウル助けてぇー……」
シィエルはタウルの胸の中で縮み上がった。
しかし、ルトランの言い分が正しい。なので「まぁ、仕方ない……か?」と、くちばしのような兜をポンポンと叩くしかできないでいた。
「ところで、ドゥドゥ見なかったか?」
竜と少女に顔を向けるも、どちらも首を左右に振るだけであった。
「ううん。見てない」
「そこの水の中に飛び込むのは見えたが、それ以降は見てないな」
ルトランの言葉に頷いたその時、シスター・マレーは「……水の中に?」と、顔を持ち上げた。
先ほどまでの強気な表情が一変、不安な面持ちで水面を見つめながら身をよじる。「いや……人になぞ討たれはしまい」
「ドゥドゥは人じゃないよ」
「え……?」マレーは肩越しにタウルを見上げた。「人、じゃない……?」
「僕の相棒の獣だよ」
「けも、の……」口の中で反芻するや、彼女は瞠目し、顔からみるみる血の気が引いゆくのが分かった。「いや、そんな、そんなことは……報告では、ここに来たのは竜だけのはず……!」
「ど、どうしたんだ!?」
ガタガタを震え始めたマレーに、タウルはあたふたする。
その傍らで、シィエルが「何でまた水に?」と首を傾げた。
「妙に魚を食したがっていたな。夜な夜な川に出向いては、流れゆく水を飲み干す勢いで漁っていた」
ルトランが思い出すような口ぶりで言うと、タウルもそうだと頷く。
「急に駆け始めたんだよ。シィエルの援護に行けって言ったのに、聞かずに一目散に水路に飛び込んだ――」
「あ……あ……あぁぁぁぁッ!」
急にマレーは叫び、肩と脚でずり這いを始めた。
水の中に飛び込もうとしていたのを、タウルとシィエルに引き戻される。
「何をするんだ!」
「逃げようたってそうはいかないわよッ!」
「は、離せェッ! 止めねば、お守りせねば……お、お前たちも死ぬぞッ!」
それでもなお振りほどこうと身体を揺らし、なりふり構わぬ取り乱した声を上げる。
「あんたたちの宗教部隊に? そんな脅しに屈すると思って!」
「違うッ! 会わせてはならないッ、奴とリヴァイアサン様を会わせはならないッ!」
その叫びに、ルトランは絶句していた。「リヴァイアサン、だと……!」
「まさかお前らが守っていたのは……!」
「リヴァイアサン様の化身だッ! 奴と会わせぬため、貴様ら天空の者と会わせぬために我々はお守りしていたのだッ!」
「まさか、まさか……奴とは……」
ルトランが声を震わせたその時――視線の向こう・四本目の水路に、白くぼんやりと光る影が映った。
マレーはそれに「リヴァイアサン様……!」と、ほっと肩を落とす。……しかしタウルの〈灰色の世界〉には、魚の様子が変であることに気付いていた。
「何か、必死で逃げてる?」
「え……?」
「嫌がっているような、前に進もうとして進めないような……?」
それに尾っぽが見えない。
そう続けようとしたまさにその時――水面が膨れ上がり、全員が「あ!」と声をあげた。
ザバッと巨大な灰色の輪郭が浮かび上がる。知る者にはそれが何であるか、すぐに分かっていた。
「ドゥドゥッ!」まず一番にシィエルが声を発した。「……と、おっきな魚?」
「リヴァイアサン!」夜空を飛び上がった魚に、ルトランは叫んだ。「タウルッ、奴は今何をしているッ!」
「え、えぇっと……ドゥドゥが魚の尾を握り締め、地面に叩きつけてから、宙に放り投げて……身体を沈み込ませてる」
マレーは震えていた。唇の色がみるみる悪くなり、顔も青ざめてしまっている。
呆然と夜空を見上げる人間たちを尻目に、ドゥドゥは大地を蹴り、大きな口を広げた。
「や……奴はやはり……どうして、どうしてこんなとこに……」
マレーはガタガタと震え、喘ぐ。
「ベヒモスが来ているのだ――ッ!!」
その言葉と同時に、ドゥドゥは巨大魚の腹に、がぶりと噛みついた。