第4話 新たな世界へ
思わぬところから大役を担わされたタウルは、出発その日まで準備に追われ続けた。
まずはルートの確認。地図上では百五十キロの道のりなのだが、実際は森や山道をなどを抜けるため二百キロ近い距離になってしまう。しかし、地上のことをまるで知らないシィエルは、
『ここから百五十キロ先――なんだ、楽勝じゃない』
と、地図を見ながら、天空人的な視点を披露する。
皮の厚い夏みかんとは言え、“鮮度”を考慮すると収穫から五日内がリミットである。
タウルの方も、これまで日帰りばかりだ。今回のような長旅は初めてのため、“外界”を知らぬシィエルと併せ、制限時間内に辿り着くことは至難と考えられた。
次に食料の問題だ。シィエルはかなりの大食いだと判り、計算上では通常の一・五倍の量が必要だろう。
しかし荷車の空きスペースを考えると、その半分――通常よりも三割ほど減らさねばならない。しかも立ち寄れる村は一つだけである。
そして最後――これだけは出発日を迎えてもなお、解決策が浮かばなかった。
「道々でルトランを受け入れられるかどうか……」
竜を嫌悪する者が多い、ということが最大の問題なのである。
「ま、行ったら何とかなるわよ!」
それとは対照的に、ルトランに据えられた新たな鞍に跨がるシィエルは楽観的だった。
竜のくちばしをイメージしたような兜以外は、タウルと同じ革鎧と股履き、すね当てを身につけている。
先の困難よりも、目の前の城門。いよいよ現れる“世界”が楽しみでならないようだ。
「簡単に言ってくれるよ……」
タウルはいつもの運搬時の時のように、函型の荷車の上に立つ。
唯一違うのは、昼間の日差しをできるだけ遮られるよう、兜の煙水晶をより黒いものに交換されてあることぐらいだ。目の痛みは感じられなくなったが、やや重量が増している。
「タウル様、そろそろ門が開かれます。どうか、どうかご無事で……!」
まるで今生の別れであるかのようなロザリーの言葉に苦笑しながら、いよいよ重い軋みをあげた門を見つめた。
「これが、地上の世界……」
シィエルは無意識に満面の笑みを浮かべ、感嘆の息を漏らしていた。
正真正銘の、地上の世界――“城”という名の檻がついに開かれた。一人で見知らぬ世界に飛び込むことを恐れず、むしろ喜んで挑もうとする彼女の横顔を、タウルはじっと見つめている。
(新たな世界に飛び込む、か)
タウルは顔を引き締め、正面の眩い世界を見据えた。
「行くぞ、ドゥドゥ!」
「わぉん!」
ドゥドゥは上機嫌に吠え、第一歩を踏み出す。
「さぁ、私たちも行くわよッ、ルトラン!」
「やれやれ……先祖の亡骸でも探してみるか」
シィエルの掛け声が続くと、竜の第一歩が地上に轟いた。
鞍には鎖がついており、後ろにある大きな荷車に繋がっている。積み荷は夏ミカン八十キロ、塩二十キロ――相当な重さにも関わらず、車輪は悠然と回り始める。
城を出るとすぐ、森を拓いた道に出た。
普段は走り抜ける場所であるが、今日だけは遊興ようにのんびりと歩いている。
「ん、んーっ、すごい、これが森なのね! ねぇねぇ、ルトランすごいわっ!」
「森なんざ、嫌というほど天空にあろう……」
いきなりのハイテンションに、ルトランはゲンナリとする。
急がねばならないのに、どうしてこうのんびりとているのか。
その理由は、ここから城下町が近く、少しでも竜の威圧感を与えないようにするため、また同時に竜は怖くないことをアピールする目的があった。
「――しかし、タウルよ。シィエルのためだから協力してやるが、お前たちの考えているプランは浅知恵すぎるのではないか? 世の流れや理は、一人や二人が手で押しても変えられんぞ」
「それは兄さんも分かっているはずだよ。新たな取引先の開拓は、成功すれば御の字――ほかに裏で何か企てているから僕らをそこにやったんだ」
タウルにもそれは感じていた。
兄は裏で何か企んでいる。そのための足がかり・地盤を作りたいのだ、と。
何も言わなかったのは、そうであっても国に利益をもたらし、またこうやってシィエルに外の世界を見せられるからである。
「まぁそれに……」
「それに?」
「失敗しても、あの人は悪の権力でどうにかするつもりだから……」
「業の深い連中よ」
北に向かってしばらく歩くと、城下町の輪郭が見え始めた。
これまでは上機嫌に目尻を下げていたシィエルも、ぐっと顔を強張らせている。
「シィエル。町の人には話してあるから大丈夫だよ」
「う、うん……」
町を訪れるのはこれで二度目――。初めは捕虜の時で、周囲から罵声を浴びせられた記憶が蘇ったのだろう。シィエルの表情は重く、僅かな恐怖が見え隠れしていた。
遠くを見やった時、慌てて町に走ってゆく人の姿が確認できた。しかし驚いて逃げたわけではない、と一行は確信している。
「……みな、引っ込むか」
タウルは沈痛な面持ちで周囲を見渡した。
家屋の窓は桟板で閉め切られ、店の軒先は戸板で塞がれている。大通りとなる土の道の上にはネズミ一匹すら見えず、活気づいているはずの町は今、廃墟のように静まりかえっている。
その“理由”となるルトランは達観した様子で、堂々と道の真ん中を闊歩した。
「予想できていたことだ。上から命じられたと言えど、一日や二日で憎悪の対象は覆らん」
「窓くらいは開いていると思っていたけれど……」タウルはもの寂しげに呟いた。
「それでこそ甘い見通しというもの。どうしようもない恐怖が降りかかるとき、人は目と耳を塞ぎ、暗闇の中でじっと過ぎ去るのを待つものだ」
ここで言うのは何だが、と頭を高くあげながらぐるりと町を見渡した。
「若かりし頃、私は無抵抗な町も多く襲った。その時もこうだった。見なければいい、身を縮こまらせ、暗闇の中で“暴風”が通り過ぎるのを待つ――」
「ちょ、ちょっとルトラン! それ本当なの!」シィエルが目を大きく開き、前屈みになってルトランの顔を覗き込んだ。
「先々代のプリュイの頃だ。今でこそ讃えられているが、本当はこのような町を襲い略奪を繰り返していただけに過ぎん。あいつ自身、伝記から抹消されることもしてきたしな」
ひいおばあ様が……と、シィエルは開いた口が塞がらない様子だった。
竜は長寿で、何世代にも渡って仕えている。全体で生まれる数が決まっており、そこから各家庭で生まれる竜の数が決まる。
またその数が、家の階級を決める――シィエルの家は、親戚を合わせて二体。地上で言えば中流貴族にあたると話した。
「町の者が望むまま、我々は何もなく通りすぎればいい」
ルトランがそう述べた時、突然ドゥドゥがある町の一角に目を向けた。
戸板の前に、手のひら大の夏みかんが一つ転がっていたのである。
「うぉん!」
「おいドゥドゥ、あまり拾い食いはするな」
タウルの言葉が聞こえておらず、ドゥドゥはバクッとそれを口に放り込んだ。
そして、頭を上げて口の中でみかんを潰す――甘酸っぱい果汁が喉に流れ込んだのか、嬉しそうに目を細めながら咀嚼し喉を二、三度、上下に動かした。
『あ! ドゥドゥだー!』
『こ、こら、前に行っちゃだめッ!』
『何でーっ! ドゥドゥ撫でたいー!』
すぐ近くの屋内から聞こえる会話に、ルトランは目を細める。
「そこのブサイクは人に愛されているようだ」
「あなたもしかめっ面じゃなかったら、少しは受け入れられたのかしら?」
「……」ルトランは何か言いたげに、眉間の皺を深めた。
「ねぇ、タウル。その黄色い身ってそんなに美味しいの?」
シィエルの言葉に、タウルは「え?」と顔を向けた。
食事でも出ているのでは、と首を傾げる。
「見たことないわ。今までふわふわのパンとスープ、サラダしか食べてないもの」
「そうか……。なら食べて見るか?」そう言って、タウルは車の中にあるみかんを取り上げた。
「い、いいの?」
「少しぐらいならいいさ。ほら――」
ひょいと投げたそれを、シィエルは両手で受け止める。
ボコボコとした表皮を不思議そうに眺め、タウルの説明を受けながらぶ厚い皮を剥いてゆく。
真っ白な“アルベド”と呼ばれる繊維に包まれた果肉が現れると、半分に割り、一房取っておそるおそる口に放り込む――むぐむぐと小さく尖った顎が動くと、
「んッ!」
噛み潰した途端、厚めの皮から溢れだした甘酸っぱい果汁が舌の上いっぱいに広がる。
少し苦みがあるけれど、あまり気にならない……むしろ、相反するはずの甘みのせいか、癖になりそうな苦さだ。
目を大きく開きながら次の一房を取る。そしてまた次……と、手はひっきりなしに動き続けた。
「美味しいっ! 売れるわよこれ!」
「そのために遠出するんだけど……」
あ、そうか……とシィエルは苦笑を浮かべた。
それからすぐ、止まっていた足が再び動き始める。
建物から二人のやりとりを監視されていたとを知るのは、ルトランだけであった。