要求
数日の後、朝会に同席していた雪鴛が、するりと王の眼前に進み出て、その手元に書簡を置いた。
「どうか、お読みください」
雪鴛はいつもと同じく、穏やかな微笑を浮かべて告げる。
「私と、それに詠公子からのご提案です」
群臣の間に、控えめなざわめきが広がる。王も驚きを隠さないまま、雪鴛の顔を凝視した。雪鴛は微笑を崩さない。
王は緊張した面持ちの詠翠をちらりと見遣ってから、書状を侍臣に手渡した。朝会にて提出された文書は、侍臣によって読み上げられるのが決まりである。
「公子詠翠、並びに公子雪鴛、伏して奏上奉ります……」
侍臣の朗々とした声が響く。
「現今、我が碧は昏と覇権を争う立場にあり、且つ王におかれましては、公子詠翠の王位継承を望んでおられる様子」
密やかに囁き交わす声が細波のように広がったが、誰もが国の現状を顧みて口をつぐむ。現在の情勢は、上奏文に言及されている通りだったからだ。
「現状に鑑み、一つの策を献上致します。何卒、ご検討を」
続いて読み上げられた献策に、今度こそ群臣は大きくどよめいた。
春覇が蕃旋達と同道を始めてから、既に数日が経過していた。その間春覇は何度となく蕃旋に目的地や方士を集める目的についての問いを投げかけたが、何度問いかけても、蕃旋は行けばわかる、と繰り返すのみで明確な答えを返さない。そのくせ、彼の行動には端々に迷いが見られた。
「……そろそろ、目的地だ」
一際深い霧が立ち込める地帯に踏み込んだとき、蕃旋がぼそりと言った。
「全員揃うまで、何日か待機して貰うことになる。掘っ建て小屋みたいな場所だが、文句は言うなよ」
ぶっきらぼうに告げて、最後に小声で付け加える。
「情報が欲しけりゃ、先に来てる奴から引き出せ。俺よりよほど詳しい筈だ。但し、一筋縄でいく相手でもねえけどな」
蕃旋の言葉の意味を、春覇はすぐに理解した。
「やあ、ご苦労様。覇姫は暫くぶり、そちらの彼は初めまして、かな」
蕃旋の言う待機場所で彼らを出迎えたのは、春覇が長年、宿敵として対峙してきた男だった。
「炎狂、やはり……それに、貴様がいるということは……」
居住区で、蒼凌と交わした会話を思い出す。依爾焔がこうしているということは、恐らく、その背後には朱雀がいる。
「どういうことだ。何が起こっている?」
春覇の問いに、爾焔は微笑を返した。
「まあ、そう焦らずに中へ入って座ろうじゃないか。そちらの彼との自己紹介もまだなのだからね」
立ち話で済むような単純な話でもないし、と続けて、爾焔は春覇の顔を覗き込んだ。
「生真面目な君が、全てを知ったときに何を選択するか、私は少し興味があるね 」
「……なに?」
その言葉の不穏な響きに、春覇は眉をひそめた。しかし爾焔はそれ以上のことは言わず、簡素な小屋の戸を開ける。
「どうぞ、中へ」
導きに従って、春覇と黒零はその建物の中に踏み込んだ。
昏軍の姿を確認した、という報告を受けて、私は城壁の上に上がった。蒼凌が隣に立ち、棟将軍や檄渓、守将の絃鞍も、次々に上がってきて並ぶ。
「この兵力で、どこまで持ちこたえられるか……」
絃鞍が不安げに呟く。私は腕を組んだ。
「幸い、ここの防壁は堅固です。門さえ固く守って敵を通さなければ、兵力の差はさほど意味をなさないと思いますが」
実際、以前にもこの砦で、昏軍の攻撃に耐えたこともある。ただ、耐えることはできても、援軍が期待できないのが痛い。
それに。
「問題は、兵糧が尽きる前に昏が退いてくれるかだな」
蒼凌が難しい顔で呟く。場合によっては、捕虜を返して講和することも考慮に入れなければならないかもしれない。但しそれは、絡嬰と束憐を捕らえたあの決死の戦いの成果が、無に帰するということだ。それは避けたいというのが、この場の全員の心情だ。
この時、私達はまだ知らなかった。
この後の戦いが、戦いの様相すら呈さずに、私達に苦渋の決断を迫ることを。
慣例に従って、昏軍は矢の射程外で停止した。一乗の馬車が、隊列の前に進み出る。
「やあ、ごきげんよう、碧の将軍がた」
叡循貴がにこやかに挨拶する。こちらからは、蒼凌が一歩前に出た。
「昏王とお見受けする。遠路遙々自ら足を運ばれるとは、恐縮の至りだ」
開戦の挨拶としては、当たり障りのない言葉。蒼凌の姿を認めた叡循貴は、嬉しそうに目を細めた。
「そう言う貴方は太子蒼凌か。これはこれは、珍しい方にお会いできた」
一度話をしてみたかったんだ、と言う叡循貴の表情には、親しみすら見える。しかし、表情が内心と一致しているとは限らないことは、誰もが承知していた。
「嘗て英主と呼ばれた碧王は老いた。失礼ながら、今や大局を見ようとしない頑迷な暗君に変じてしまった」
一国の君主へのあからさまな侮蔑に、兵士達がざわめく。城壁の上にいる私達もまた、彼の言わんとするところがわかって、表情には出さないながらも暗澹とした。
「あのような王よりも、蒼太子」
叡循貴は、無邪気にも見える笑みを浮かべる。
「私は、貴方と対等な立場で対峙してみたいね」
今や昏王となった叡循貴は、蒼凌に、自分と同じところへ来いと言っているのだ。父や兄や叔父を殺して王座に着いた、自分と同じところへ。
「なんなら、私が力添えしてもいい」
今度は、城壁の上の私達にも、密やかな動揺が走った。叡循貴は、叛乱を唆すのみでなく、後ろ楯となることまで提案したのだ。
僅かな手勢とともに碧軍に追われる蒼凌は、この甘い誘いにどう答えるか。
「思いがけず温かいお言葉、痛み入る」
穏やかな返答に、視線が集まる。絃鞍などは、気が気でない様子だ。蒼凌は叡循貴に向かって微笑んだ。
「だが生憎、私は王の甘言を信じるほど無邪気ではない。碧の未来は、碧人が決める」
きっぱりと言い切った蒼凌は、ほんの刹那、私と目を合わせて口角を上げた。
うん、そうだ。
私達の歩む道は、私達が決める。
「それは残念」
大して残念でもなさそうに肩を竦める叡循貴は、恐らく蒼凌が乗ってこないことを予期していたのだろう。ここで昏の差し伸べた手を取るような男なら、とっくに昏に投降しているだろうから。
「さて、それでは互いに健闘しよう、と言うべき頃合いだけれど」
開戦前の口上の応酬が終了したことを告げながらも、叡循貴はまだ下がらない。
「我が国の将兵がそちらの捕虜になっているようだ。返してくれる気は無いかな?」
何を、言っている?
私達は思わず目と目を見交わした。戦いもせず、何の見返りも提示されていないのに、こちらが捕虜を返す理由はない。連戦で苦しいのは確かだが、昏軍相手に勝算が無いというわけでもないのだ。
「見返りも無しに捕虜を返すほど、我々も気前よくはないのだが」
他の将達と目配せした後、私が進み出て叡循貴に言い返した。こちらに十分な戦力があるということを誇示するためだ。私が朱宿だという情報を、叡循貴は既に握っている筈なのだから。
「やあ、鴻将軍。また会えるとは思わなかった。つくづく運の強い人だね、貴方は」
叡循貴の語調からは、皮肉の響きが感じられない。本心では面白くない筈なのにそれを見せないのは流石と言うべきか、それとも、その程度は気にならないほど機嫌が良いのか。
そう考えて、私ははっとした。
そう、こうして見ている限り、叡循貴は機嫌が良いのだ。少し前に自軍が敗れ、大将を二人も捕虜にされているにも関わらず、である。
何だか、嫌な予感がした。
「絡将軍と束将軍を今ここで返してくれるなら、私は引き返してもいい。あなた方は大損害を免れることになる」
何だ?
昏軍と戦えば、我々が二将を捕獲した功よりも遥かに大きな損害を蒙ることになる、と叡循貴は言いたいらしい。しかし、彼我の戦力差はそれほどには無い筈だ。とかくこういう物言いをして自軍の力を誇示する武将もいるが、叡循貴はそういう型ではない。挑発だとしても、あまりにお粗末である。
叡循貴は口先の駆け引きはあまり好まない、武将としては寧ろ実直なほうだ。それがここまで言う、その根拠は何だ?
「……昏軍は、何を持っている?」
誰かが、低く呟いた。
疑念を抱きつつも、私達は捕虜を返すわけにはいかない。私は叡循貴の要求を改めて撥ね付けた。
「そうか。なら、仕方がないね」
叡循貴は微笑んで、兵車を自軍の中に戻した。開戦を告げる鼓が響き、射手が矢をつがえる。
その、刹那だった。
私は、大喚声を聞いた。はっと目を上げた私は、それが兵士たちのものではないことに気づいて慄然とする。
「伏せろ!」
咄嗟に蒼凌の腕を掴み、叫ぶ。
次の瞬間には、胸壁の上端が砕け散っていた。互いを庇うように折り重なって伏せた私達の頭上に、氷の欠片が降り注ぐ。伏せ損ねた兵士が、肩に氷柱を受けて悲鳴とともに城壁から落ちた。
ほんの数秒で、静寂が訪れる。私達は顔を上げ、互いの無事を確認した。迅速に伏せたのが良かったらしく、主だった将軍達は皆無傷だ。しかし、その顔はどれも青ざめていた。
私は立ち上がり、胸壁の上に顔を出す。攻撃の心配は無い。今の掃射は、こちらの戦意を喪失させるための脅しだ。
眼下に布陣した昏軍の先頭。その上空に、予想した通りの姿があった。
「玄武……」
「久しぶりだね。君が私に見事な啖呵を切って見せた時以来かな」
それは、私がまだ碧に仕える以前の話。
昏の兵士として従軍していた私は、碧軍を方術で蹂躙しようとした軍師峰晋の正体を暴いた。その時に、守護神が乞われもせずに人の戦に手を出すな、戦の決着は人の力でつける、と啖呵を切ったのだ。
「一応言っておくと、今回私は昏王の求めに応じてここへ来たのだよ。私は昏の守護神だからね」
詭弁だ、と私は内心吐き捨てた。
叡循貴は間違っても神頼みで戦に勝とうとするような人物ではない。況してや、昏軍が都を出る時点では、昏は不利な状況ですらなかった。形式的には守護神に加護を願ったようにしたとしても、話を持ちかけたのは玄武の方に違いないのだ。
「さて、聡明な君にはわかる筈だ」
悠然と空中に佇んで、玄武は微笑む。
「私を相手にして、君達に為す術は無い」
昏軍から歓声が上がる。私は唇を噛んだ。
「……要求を言え」
悔しさに震える声で、そう言うしかなかった。玄武がうっそりと目を細める。
「話が早くて助かるよ」
彼は微笑を浮かべたまま、指を二本立てた。
「要求は二つある。一つ、碧軍に捕らえられている昏の捕虜を釈放すること」
激闘の末に捕らえた絡嬰や束憐を釈放するのは痛いが、やむを得ないことだった。私は棟将軍や蒼凌と視線を交わしてから、黙って頷く。
「二つ、鴻宵、君と……それから、隣の彼にも、私と一緒に来てもらおう」
碧軍側の空気が、戸惑いに揺れた。
北の守護神玄武が、私と、そして蒼凌を連れ去るというのだ。何故この二人なのか、何処へ連れて行ってどうするつもりなのか、読めない分戸惑いは大きい。
「この二つの条件を飲むなら、私はすぐに帰るし、昏軍も碧との国境から撤退することを約束しよう。どうかな?」
私達が断れないことを確信しながら、玄武が問いかける。
私は深く息を吐いた。こういう手に出てくるとは予想外だった。玄武は思ったよりも短気な質らしい。
「一つめは、飲もう」
はっきりした声で告げる。
「しかし二つめの要求は、少々過分だ。苦労して捕らえた昏の将軍を二人も返すうえに、こちらの武将に加え太子まで連れ去るというのは、酷というものだろう」
私は玄武と真っ直ぐに目を合わせた。
「貴方の用件には、私一人で十分な筈だ。彼は『今や何も知りはしない』のだから」
寸時、沈黙が降りる。玄武が思案げに目を細め、それからゆっくりと頷いた。
「いいだろう。二つめの条件については、君一人ということで手を打とう」
講和が成立した。
それからの短いやり取りによって、こちらが絡嬰と束憐を釈放するのと同時に昏軍が撤退し、十分に遠くまで離れたのを確認してから、私が玄武に同行するという手筈が決められる。




