叔父と甥
「朗報、とな」
「はい。必ずやお喜びいただけるものと」
深々と礼をした叙寧は、侍従に目配せして堂の外へと走らせた。
ほどなく、堂の入り口からざわめきと驚きの声、そして控えめな歓声がさざ波のように伝播してくる。それが近くまで届き、その的となっている人物が歩いてくるのを目にしたとき、王は思わず立ち上がった。
「詠翠……!」
「父上、ただいま戻りました」
どこか浮かない様子で、だが足取りも確かに王の前まで来た詠翠は、雪鴛を見て一瞬はっとした顔になった。だが何も言わず、その場で拝礼する。
「詠翠。まことに詠翠か。近う寄れ、近う」
王の言葉に従って進み出た詠翠の顔を、王はじっと見つめた。それから、大きく安堵の息を吐く。
「無事であったか……」
「ご心配をおかけし、お詫びの言葉もございません」
詠翠はそう詫びてから、叙寧に目を向けた。
叙寧はそれに従って進み出ると、王に事の次第を説明する。
「王宮に兇手の潜んでいる可能性をお考えになり、公子は太子のもとに身を寄せておられました。このたび左軍が都へ帰還するに当たって、護衛して王宮にお返しして欲しいとの太子の依頼を受け、我が左軍がお連れいたしました」
以前なら、この辺りで王に諂う近臣達から、太子が公子を攫っただの、公子を人質にしただの、中傷の言葉が矢のように飛んできた筈である。だが、今回はそれがない。
妙に思った叙寧は、互贅ら幾人かの近臣達が堂上にいないことに気づいた。
「……そうか」
王の反応も、拍子抜けするほどあっさりしている。
「鴛の言った通りであったな」
まさしく拍子抜けしかけていた群臣達の耳を、その言葉は危うく素通りしそうになった。だが、その意味が脳に浸みた瞬間、誰もが戸惑いと疑念の眼差しを王の傍らに向ける。
「言った通り、とおっしゃいますと?」
王に問い返したのは、詠翠である。群臣達は固唾をのんでその答えを待った。
「鴛が申したのだ。詠翠が王宮を危険と判断したならば、身を寄せる先は兄のもとであろうとな」
それを聞いた群臣の胸に過った想いは様々である。そのような意見を王に述べるとは大胆な少年だ、太子の御側に仕えていた故に兄弟の仲がわかっていたのか、などなど。
その誰もが、かの少年の聡明さを認めていた。だが、聡明であるからこその不気味さと不安もまた、募る。
「詠翠よ」
「はい」
王は少し躊躇ったようだった。それから、詠翠に尋ねる。
「……蒼凌は、そなたに良くしてくれたか」
「はい。ご自分が難局にあるにも関わらず、私の安全を親身に考えてくださいました」
詠翠の即答を受け、王は目を閉じて嘆息した。群臣達も、ほっと胸を撫で下ろす。
太子蒼凌が、王の思っていたように、王位に固執し、或いは父を憎んでいるならば、詠翠を生かしておく理由は無い。詠翠を無事に返したという一事は即ち、詠翠を敵視していないという何よりの証明なのだった。
だが、と、宰相の荏規は懸念した。だが、公子がもう一人増えた今、そしてその意図が皆目わからない今、この国の行く先は混迷したままである。
荏規は王の傍らに控える公子に目を向けた。彼は微笑んでいる。その表情からは、何を考えているのか、全く窺うことは出来なかった。
「王よ」
雪鴛が口を開く。群臣に緊張が走った。探るような視線を全身に浴びても微笑を崩さず、雪鴛は発言する。
「太子に罪の無いことは明らかになりました。追討の命を撤回されては?」
再び、ざわめきが広がる。王は表情を固くして、雪鴛を見た。
「……その件は、追って検討する」
「かしこまりました」
雪鴛は敢えて食い下がらず、従順に頭を下げた。王の感情は、詠翠の一件によって多少和らいだものの、まだ蒼凌に歩み寄れる程ではない。なかなか根が深そうだ。
朝会が終わった後、詠翠は索興だけを連れ、個人的に雪鴛を訪ねた。隣の宮なので、すぐにたどり着く。
控えていた侍従に来訪を告げると、雪鴛は快く詠翠を迎え入れてくれた。
「突然訪問して申し訳ない」
「いえ、とんでもない。さあ、お掛けください」
雪鴛の態度は、蒼凌の従者であった頃と同じく丁寧なものである。茶も、手ずから淹れてくれた。
「……鴛公子」
詠翠がそう呼ぶと、雪鴛は苦笑した。
「これまで通り、雪鴛とお呼びください。公子と呼ばれるのはまだ慣れませんし、私はあなたの甥で、目下ですから」
「む……」
甥と言われても、二人は同年代で、産まれた時期を比べるなら雪鴛の方が先である。
詠翠は居心地の悪さを感じて、出された茶を手に取った。それを口許に近づけようとした時、後ろに控えていた索興が、そっと袖を引く。
「ん?」
一瞬その意味を掴み損ねた詠翠は、ややあって暗澹とした。
索興は、危険だと警告してくれたのだ。この、考えの読めない公子に出された茶を、無警戒に飲んではならない、と。
「……そういえば、あなたは私が兄上のもとに居ると言い当てたと聞いた」
話題を変えるのに紛れさせ、詠翠はさりげなく手にした茶を卓に戻した。その動作を、雪鴛はどこか面白そうに目を細めて見ている。
「ええ。鴻将軍亡き今、詠公子が信をおいておられる相手は限られておりますので」
にこり、と笑ってみせる雪鴛の考えが、詠翠にはわからない。
詠翠が太子側であることを王に示してみせ、その失脚を狙っているのかとも思う。しかし、雪鴛も元々は太子の従者であったことを考えれば、王の寵愛を受けている詠翠と、新参者の雪鴛のどちらを王が信じるか、あまりに分の悪い賭けである。
「その際、父上は……」
「青ざめておられましたよ。既に朱雀玉を遣わした後だったもので」
詠翠は顔をしかめた。
「……父上は、本気で、兄上を……何故、そこまで」
詠翠にはわからなかった。
少なくとも詠翠が知る限り、蒼凌は父王に反抗的な態度を見せたことはない。落ち度があったわけでもないのに、何故そこまで疎まれなければならないのか。
「詠公子」
雪鴛が、穏やかに詠翠の呟きを遮る。
「人を最も残酷にする感情は、何だと思われますか?」
「え?」
突然の質問に、束の間詠翠は目を瞬かせた。それから、意図はわからないながらも、その答えを考えてみる。
「それは、やはり……憎しみでは?」
「憎しみは勿論恐ろしい行動をもたらしますが、持続しにくい。誰かを憎んだからといって、それが残酷な行動に直結するには、機会と力に恵まれる必要があるでしょう」
むぅ、と、詠翠は唸った。答えを求めて、雪鴛の顔を窺い見る。雪鴛はゆるりと目を細めた。
「それは、怯えだと、私は考えます」
少年は語る。
「例えば、蚊や虻が身辺を飛んで血を吸おうと狙っていても、人は鬱陶しげに追い払うだけ。暇があれば叩き潰すでしょうが、それが成功しようが失敗しようが、少々苛立つ以上の何も感じないでしょう」
そこまで言って、雪鴛は少し声を低めた。
「しかし、それが猛毒を持った虫なら、どうです?頭を抱えて逃げれば済むのならいいですが、そうはいかない時には?なおも身の回りを飛び回り、こちらの肌に止まろうとしていたら?」
答えは決まっている。
「誰もが、それを確実に排除しようとするでしょう。大の男でも、明確な殺意を持って虫を追い回す。気の弱い女子どもなら、半狂乱になって虫を叩くでしょう。殺し損ねて向かって来られたら怖いから、何度も、何度も、執拗に」
ぞくりとした。執拗に兄を叩き潰そうとする父の姿を想像しそうになって、詠翠は慌てて首を振る。
そんな様子を見て、雪鴛は声音を元に戻す。
「弱い者ほど、いざとなれば残酷になるのですよ」
詠翠は暫し絶句していた。それから、この得体の知れない公子に問いかける。
「つ、つまり父上は兄上を怖れておられると?」
「ええ。恐らく、誰よりも」
あっさりと言い切った雪鴛を前に、詠翠は思わず索興の方へ振り向いた。
従者は詠翠を安心させるように頷いてみせる。人払いはできているということだ。聞きようによっては不敬な雪鴛の言葉を、この場の三人以外に聞いた者はいない。
「不幸にして、王の恐れを現実の可能性として見せつける事件が、昏で起こってしまいましたし」
叡循貴の反乱のことだ。蒼凌よりもなお若い青年が、父王達を殺し、王宮を制圧して王位に就いた。
「兄上はそんなことはなさらない!」
「どうでしょう」
雪鴛の答えは冷淡だった。
「確かにあのお方は野心家ではありません。ですが、白の太子皓武ほど諦めの良い性格でもない。朱雀玉まで向けられたとあっては、そろそろ本気でお考えになる頃ではないでしょうか」
「そっ……」
そんなことはない、と言いたかった。だが、詠翠ももはや頑是ない子どもではない。蒼凌がその選択をする可能性も充分にあることを理解していた。
ただ、信じたかった。兄を、というよりは、彼の隣にいる鴻宵を。
「……私は、そんな事態にはなって欲しくないと思う」
詠翠は激情を抑え、己の希望を口にした。
そう、そんな事態になるくらいなら、自分が引き下がろうと、覚悟を決めたのだ。そこで、ふと詠翠は雪鴛の顔を見詰めた。
詠翠は、もしも兄と衝突する日が来たならば、道を譲るつもりでいる。では、この新参の公子は?彼はどういう心づもりでいるのだろう?
「雪鴛どの」
詠翠は、真っ直ぐな質である。この時も、直球で尋ねた。
「万一そうなった時、あなたはどうする?」
王につくか、太子につくか。それは、群臣達が迫られる選択でもある筈だ。詠翠の真剣な問いに、雪鴛はしかし微笑を浮かべたまま答える。
「それは、状況次第ですかね」
詠翠の眉間に険しさが滲む。それを見てとってか、彼は言葉を付け加えた。
「はぐらかしているわけではありません。例えば、太子が己の王位を磐石なものとする為に我々を排除しようとした場合、おとなしく死ぬというのは、私には少々受け入れがたい」
雪鴛は何食わぬ顔で茶を一口飲んだ。
「ですが、飽くまで国の混乱を抑える為に決断されたなら、私は反対はしません」
但し、あの方が私を生かすおつもりなら、ですが。
そう答えた雪鴛を、詠翠はじっと見詰める。雪鴛も、目を逸らさなかった。
「あなたは、兄上が王位の為に我らを亡き者にする可能性がある、と?」
詠翠には信じられなかった。しかし、雪鴛は事も無げに言う。
「その可能性を、安易に排除するわけにはいきません。あの方は野心家ではありませんが、必要と判断すれば冷酷な処置を取れるお方です」
地位への執着心は無くとも、決して甘い男ではないのだ。雪鴛に言われるまでもなく、詠翠は理解した。
しかし、彼は内心考える。鴻宵が側についているならば、蒼凌の判断も、さほど冷酷なものにはなり得ないのではないか。
「太子は、別に王位を望んでおられるわけではない。しかし、この国の未来には責任を負っておられる。そして、王は何をさておいても、あなたに位を継がせたいようです」
雪鴛が、詠翠の顔を覗き込む。詠翠は、その灰色の瞳に、なにもかも見透かされるような居心地の悪さを感じた。
「詠公子」
微笑を湛えたまま、雪鴛が問う。
「あなたに、国のために尽くす覚悟はおありですか?」
詠翠は寸時迷った。だが、すぐに雪鴛の瞳を真っ直ぐに見詰め返し、答える。
「ある。私にできることならば」
その瞬間、雪鴛は実に艶やかな笑みを浮かべた。
「上出来です」
愉しそうに、彼は言う。
「それでは、私の考えにお力添えをいただけませんか?」
雪鴛の口から零れた考えは、詠翠の意表をつくものだった。




