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左軍の帰還

 北へ向かっていた沃縁は、検問の厳しさに変化を感じた。


 役人達は未だ彼を捜して目を光らせているが、それが次第におざなりになっているように感じられるのである。恐らく、捕縛の命令を受けてはいるものの、それに続く命令も情報も、中央から届かない為、中だるみを起こしているのだろう。


 そもそも、ただの私臣にすぎない沃縁のような立場の者を、執拗に追い回すのも不自然な話である。不穏分子として処分しておくにこしたことはないのは間違いないが、ただそれだけの相手でもあるのだ。方士という情報も伝わっているために通常よりは追及が厳しいが、どちらかというと碧にとっては、亡国の王族である秋伊の確保の方が優先度が高い筈だ。つまり、沃縁よりは函朔達の方により力を注ぐ。


 油断は禁物だが、状況は好転している。熟考した沃縁は、町中で宿を取ることにした。役人の追及が厳しい間は基本的に郊外で野宿するようにしていたのだが、苫の体力が限界に近づきつつあることが見て取れた為である。


 ただ、それはやはり、危険を招くことになってしまった。


 宿を取って休んだ晩、苫は一晩ぐっすり眠って、多少は体力と気力を回復できたようだ。少し安堵しながら、二人並んで旅立った、そのすぐ後のことである。

 不意に、沃縁は誰かの敵意を感じた。咄嗟に、苫の手を引いて体の位置をずらす。


 一瞬前まで彼のいた場所に、矢が突き立った。苫が身を竦める。沃縁は剣を抜いた。

 誰何するより早く、二の矢が来る。沃縁はそれも身を引いて躱したが、そのせいで苫を狙って飛来した三本目の矢への対処が遅れた。

 苫を引き寄せることも、剣で矢を弾くことも間に合わないと判断して、やむなく鏃に宿っていた精霊に命じて矢を落とす。


「当たりだ」

 低い声がした。矢が飛んできていた民家の屋根から、一人の男がふわりと飛び降りる。

 吊り目がちの、痩せた男だった。装束からして、役人ではない。毛を織り込んだ暗色の上衣は、碧よりは昏でよく見られるものだった。


「……何者ですか」

 沃縁は油断無く周囲に目を配りながら誰何した。他にも潜んでいるかと思ったが、どうやら敵はこの男一人らしい。

「俺が何者かということはこの際重要ではない。重要なのは、お前」


 男は、弓で沃縁を指した。

「お前が、金の方士だな」

 沃縁は表情を動かさなかったが、鴻宵の名が出なかったことに違和感を覚えていた。

 この男は、碧の役人とは違う目的で動いている。


「何のことだかわかりませんね」

「とぼけても無駄だ。今、その小娘を狙った矢を落としただろう」

 そういうことか、と沃縁は内心舌打ちした。

 この男は恐らく、沃縁と苫の外見的特徴に合致する旅人に矢を射かけることで、方士を見つけようとしていたのだ。

 そして、それは成功した。


「一緒に来てもらう。娘は必要ない」

 男は簡潔に言った。沃縁は眉を寄せる。

「突然そう言われて従うとでも?あなたは何者で、目的は何ですか」

 質問しながら、沃縁はじりじりと体の位置を変えていた。苫の手を引いて、物陰まで一気に逃げられる道筋を探る。


「俺の仕事は、お前を中霊山へ届けることだ」

 それだけ答えて、男が無造作に手を振る。沃縁の視界で、水精霊が一斉に動いた。


「っ!」

 声にならない悲鳴を聞いて、沃縁ははっと苫を見る。どこからともなく現れた水が渦を巻き、苫を捕えていた。

「苫!」


 咄嗟に彼女に差し伸べようとした手を、そのまま術者に向ける。投擲された短剣が、男に突き刺さった、かに見えた。


「聞いた通りの男だな。用心していて正解だった」

 短剣はきわどい所で弾かれていた。水精霊が周囲を守護しているのが見える。

 更に攻撃を繋げようとした沃縁を、男が制止する。

「やめておけ。小娘が死ぬぞ」


 実際、男がほんの少し、水の渦の位置を変え、その回転を速くするだけで、苫の細い体くらいねじ切られてしまうだろう。沃縁はぐっと押し留まった。


「……中霊山に、何の為に?」

「説明は俺の仕事ではない」

 男はすげなく言うと、口笛を吹いた。二頭の馬が駆けてくる。

「乗れ。何の為か知りたければ、行けばいい。そこにいる奴が説明する」

「その前に、苫を安全な場所まで送り届けなければ、僕は動きません」


 男は鬱陶しそうに苫を見やったが、争うのも面倒だと思ったのかもしれない。意外にも譲歩してみせた。

「都の狐狼の居住区まで送ってやろう。連中はお前達の味方なんだろう」

「あなたが約束を守るか、信用できません」

 沃縁が言うと、男はふんと鼻を鳴らした。


「うるさい奴だ。そこまで言うなら誓ってやろう」

 男は胸に手を当てた。

「我が宗主、玄武の名にかけて、約定は守る」


 玄武。その名は全くの予想外だった。


 何が起こっているのか。

 知る為には、確かに、一度従って行くのが正解かもしれない。

 沃縁は苫に向かって一度微笑んでみせると、馬に乗った。



 早朝、いつもと同じく、日の出前に王城の門が開かれ、高官を乗せた馬車や徒歩の官人達が城内へと入っていく。定められた場所で車を降り、朝見の行われる堂上へと登っていく高官達の顔は浮かない。


「王はお見えになるだろうか」

「敍将軍が左軍を率いて戻られたのだ。お会いにならぬわけにはゆくまい」

「だが、左軍を呼び戻したのは宰相と大司冦のご判断。お咎めがあらねばよいが」


 方々で囁き交わす声、また声。

 やがて宰相の荏規と大司冦の至鶯が現れると、漸く不安げな私語は下火になった。


「至氏よ、叙将軍にはお会いになったか」

 荏規が至鶯に話しかける。至鶯は首を振った。

「未だ。誰にもお会いになっておらぬようです」


 叙寧は軍の後処理の慌ただしさに託つけて、面会の申し込みを当面謝絶しているのであった。


「王にも、まだ会っておらぬようだな」

「まずは公の報告をと弁えておられるのでしょう」

 二人が小声でやり取りをしているうちに、入り口から叙寧の到着を告げる声がした。


「叙将軍。無事のお戻りで」

「荏宰相。それに、大司冦も。こちらは変わりありませんか」

 変わりないとはいえず、さりとて何かあったとも言い難い。


 荏規が言葉を濁して逆に北の状況を尋ねようとした時、侍臣が王の到着を告げた。堂上の重臣達全員が、玉座に向かって頭を下げる。


 王が現れ、着座した。そして、その後ろにもう一人、小柄な人物が続く。静まり返っていた堂上に、小声のざわめきがさざ波のように広がった。

 王は構わず、全員に身を起こすよう伝える。


「叙寧よ、よく戻った」

「はっ」

「私は貴卿を呼び戻した覚えは無いのだが……戻ったということは、北の戦況には区切りがついたのであろうな」

 堂上に緊張が走る。荏規が一歩進み出て礼をした。


「橙に不穏な動きが見られましたが、王はご不快の由、煩わせるに忍びず、私と司冦の判断で使いを出しました。責はこの荏規にございます」

「私も同等の責を」

 荏規と至鶯が深く頭を下げるのを一瞥し、王は手を振った。

「よい。卿らがそう判断したのなら、構わぬ」

「恐れながら、王よ」


 発言を認められた機を逃さず、荏規がやや青ざめた顔で問う。

「そちらにおられる公子は、いったい……」

「そうであったな」


 王が傍らを顧みる。

 そこに控えているのは、無論雪鴛である。以前の従者としての服装ではなく、公子の装束を纏った彼は、群臣の視線を集めながら落ち着いた仕草で頭を下げた。


 高官の殆どは、太子蒼凌の従者であった彼を見知っているが、今それが王の傍らにいる理由を知る者はいなかった。とはいえ、一部の者はそれを推測し、また更に一部の者は確信していた。その一人である至鶯は、内心で嘆息する。

 ――先を越された。


 司冦の手を経ずに彼が王に自らの出自を申し出た以上、事態は至鶯の制御できる範疇から外れてしまった。

 群臣の中に、誰一人この少年の意図を知る者はいない。己を利用しようとした養父をあっさりと見放し、自ら王宮に乗り込んだ彼の意図は、至鶯や荏規にすら推測できなかった。

 ――願わくば、碧にとって禍とならぬよう。


「青宇の子の鴛である。幾つかの事実について確認が取れ次第、新たに名を与えるつもりでおる」

 群臣がざわめいた。

 最も衝撃を受けたのは、叙寧である。彼は事態が混迷の一途をたどりつつあることに冷や汗をかいた。



「それで、叙寧よ」

 群臣の疑念や戸惑いをおざなりに受け流し、王が話題を戻す。落ち着いてみせてはいるが、どこか焦っているようでもあった。


「報告をせよ。……朱雀玉は、使われたのか」

 その声にやけに緊張がこもっているのを、叙寧は感じた。

 後ろに控えていた侍従に目配せする。侍従が手の中の物を捧げ持って進み出た。

「朱雀玉はここに。神殿にお返しいたします」


 ざわめきの収まらない群臣の中で、気の早い者が嘆きの声を上げた。


 朱雀玉が返されたということは、それが役目を終えたということ――すなわち、太子蒼凌の死を意味する。

 だがそれを喜ぶ筈の王は眉を寄せた。

「首尾よく使命を果たしたと申すか。ならば私の使わした者達はどうした」


 王が朱雀玉を持たせて送り出した近衛の一隊の姿が無い。本来ならば彼らが報告に戻る筈である。叙寧は深々と頭を下げた。

「恐れながら、朱雀玉の炎は狐狼が盾となって届かず、お使わしになった近衛は太子に討たれました」

「なに」


 叙寧は頭を下げたまま、叱責を覚悟した。太子を討ち果たしていないのに、朱雀玉を持ち帰ったのである。王が激昂するのは目に見えていた。

 一度大きく息を吸った王はしかし、押し殺した声で意外なことを言った。


「ならば……ならば、蒼凌の手勢は、まだ残っておるのだな?その中に……その中に、もしや」

 もしや、何だというのだろう。叙寧は続く言葉を待ったが、王はそれきり口を噤んだ。群臣の前では言い難い事柄なのかもしれない。察した叙寧は、報告を続けることにした。


「罪を覚悟で申し上げます。北辺では昏軍の脅威甚だしく、中軍と右軍は太子と一時講和し、戮力して昏軍に当たっております」


 叙寧は敢えて、鴻宵生存の報を告げなかった。

 講和の一事だけでも、王の不興を買うことが目に見えているのだ。更に鴻宵が生きていて彼らの戦闘を止めたなどと言えば、冗談抜きで首が飛びかねない。

 しかも叙寧は、昏軍との戦闘で鴻宵が命を落とす可能性も十分にあると推測していた。鴻宵は恐らく進んで束憐の押さえを引き受けるだろうし、手負いの身で束憐に立ち向かって無事に済むとは思えないからである。


 怒鳴り出すかと思われた王は、ここでも予想外の反応を見せた。そうか、と呟いて、何事か沈思し始めたのである。


「王よ、如何なさいました」

 王の様子に戸惑って互いに目を見交わしていた群臣達の中から、荏規が進み出て問う。王は、いや、と言ったが、その表情は沈鬱なままだった。


「……王よ、最後に朗報がございます」

 実のところ叙寧は王が怒り狂った場合の切り札としてこの知らせを最後に取っておいたのだが。

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