軋む心
都からの急使がもたらした書簡を手に、牧黎翡はわなわなと肩を震わせていた。
その指には、今にも書簡を握り潰しそうなほどに力が籠められている。そこに無言の怒りを読み取って、急使は顔を青ざめさせた。
黎翡は姫とはいえ一軍の将であり、気の強いことで知られている。
最悪、この場で斬り捨てられるかも知れない。
側で見ている黎翡の侍従は、いったい何の報せかと気を揉んでいた。
そんな中、ふ、と黎翡が肩の力を抜いた。小さな、小さな嘆息が漏れる。それから、黎翡は使者に向き直った。
その表情に、もはや怒りは無い。
ただ、深い諦めだけが、翡翠色の瞳に滲んでいた。
「承知しましたわ」
黎翡は静かに言った。
「ただちに軍を麾下の将に任せて出立します。軍は退却させてよろしいですわね?」
「致し方ないと仰せです。蒲邑まで後退の上待機させよと」
これにも了承を返して、黎翡は使者を下がらせた。それから、手にしていた書簡を侍従に放る。
「そういうわけですわ。私は戦線を離脱します」
「は……!?こ、これは……」
書簡に目を通した侍従は、まず愕然とし、次に怒りを露にした。
「戦姫様、これは!」
「見ての通りですわ。全軍に通達してちょうだい」
「しかし、これは……」
侍従は顔を歪めた。表情を変えない黎翡の代わりででもあるかのように、怒りと悲しみを眉目に宿らせる。
「これはあんまりです。戦姫様!あなた様は国の為に戦い続けてこられたのに、こんな……」
「お止めなさい」
黎翡は首を振って侍従を諭す。
「今に始まったことではないわ。……私は、役目を果たすだけ」
お前も役目を果たしなさい、と手を振って、侍従を下がらせる。
一人になった黎翡は、幕舎に設えられた椅子に座り、深く息を吐いて虚空を眺めた。
「本当に、私は便利な道具なのでしょうね……」
黎翡は橙の為に兵を率いて戦ってきた。
それに対する報いが、先程の書簡――燕玉の代わりに、橙の違約を詰る碧の人質となれ、というものであった。
――橙はあなたを捨てたんだ。
いつか、鴻宵が、黎翡よりもよほど辛そうな声で言った言葉が、耳に蘇る。
「……その通りですわ。私は、とうに捨てられた身」
呟いて、俯く。卓に肘をついて、両手で顔を覆った。
「鴻宵……」
未だ生死不明――死んだとされている友人の名を呼ぶ。黎翡の居場所になってくれると言った友人の名を。
「生きているんですの?生きているのなら……会いたい……」
黎翡は常に、強く生きてきた。そうしなければ生きられなかった。
だが、今やそうして必死に築いていた立場すら、失われようとしている。
将としての役を解かれ、碧へ送られる。橙の違約に怒っている碧へ。
命の保証など有りはしない。
橙は、父王は、黎翡の命など碧に投げ与えても惜しくはないと、明確に示したのだ。
黎翡の心は、音を立てて軋んでいた。
「戦姫様」
幕舎の外から、侍従が遠慮がちに声をかけた。
「庵氏の者が参っておりますが……」
「……会いますわ。例の場所へ通しておいて」
例の場所、とは、鴻耀を収容している場所を指す。
黎翡が軍を去るなら、彼の処遇も片付けておかなければならない。いっそ庵氏に渡してしまおうか、などと馬鹿な考えが浮かぶ。
これ以上、国の命令に従って、何になるのだろう。
黎翡がその場所を訪れると、鴻耀が目を覚ましていた。
彼の症状は時折落ち着いて、こうして意識のはっきりする時間がある。だがそういうときでも苦痛はあるらしく、体を動かすにはまだ無理がある。
当人曰く、「消化できねぇ獲物を呑み込んで、そいつに腹やら血管やら身体中で暴れられてる蛇みてぇな気分」らしい。
一体どうすれば通常の状態に戻れるのか、誰にもわからない。
「具合はいかが?」
鴻耀が横たわっている側に座る庵覚の対面に腰を下ろしながら、黎翡は問う。
「相変わらずだが……」
答えた鴻耀は、少し眉を上げた。
「そっちは何かあったようだな」
「……顔に、出ていましたかしら」
黎翡は苦い思いで言った。一目で見破れるほど、ひどい顔をしてしまっていたのだろうか。
「ああ」
鴻耀は無造作に頷く。
「まるで行き場を無くした迷子みてえな顔だ」
思わず、溜め息が漏れた。
「……そうね、決めかねているのは事実ですわ。主に貴方の処遇についてですけれど」
「国から何か言ってきたのか」
鴻耀の問いに何と答えようか、視線をさ迷わせた黎翡は、庵覚が妙に落ち着いた様子でいることに気づいた。そして、商人の情報網の迅速さに思い当たる。
「庵氏は既に知っているようですわね。貴方から説明していただけるかしら」
庵覚は一度断ったが、黎翡が再度促すと口を開いた。
「……戦姫様は、碧へ送られるのですね。妹君の代わりに」
「その通りですわ」
碧は橙軍を事実上無力化することに成功する。
橙は最後の切り札を手放すことになるのだが、それを当の橙政府だけが認識していない。
「ですから、もはやここに貴方を留め置くことはできません。命令どおり昏へ移送するか、もしくは……」
黎翡は言葉を切った。
もしくは、の先は、橙の戦姫が口にしていい事柄ではない。庵覚が、少し驚いたような顔をしていた。
「碧王も馬鹿だが橙王も馬鹿だな。王ってのは馬鹿がなるもんなのか」
鴻耀が身も蓋もないことを言う。
普段ならその発言の無礼さを咎めるところだが、今の黎翡にそんな気力は無かった。
そんな彼女の様子を見ていた鴻耀が、やおら身を起こす。隅にいた狐狼の老人が慌てた。
「鴻耀!無理に起きるでない、体に障る」
「いいから」
制止を押しきって上体を起こした鴻耀の額には、脂汗が滲んでいる。未だ苦痛が続いているのは明白だった。
しかし彼は呻き声一つ上げずに起き直ると、黎翡を真っ直ぐに見て、言った。
「俺と逃げるか?」
「え?」
思いもかけない一言に、黎翡は目を丸くする。鴻耀はほんの少し、いたずらっぽく笑った。
「家出だ。もちろん、当面生きてく金と食糧を忘れるなよ」
黎翡はもう少しで、あっと声をあげるところだった。今はやや金色がかっている飴色の瞳が、記憶の中の夜闇に浮かぶ。
幼い頃。
王城から逃げ出して、でも行く場所も無く腹を空かせて蹲っていた黎翡に、家出の心得を教えてくれたのは、もしや。
「ちょいと待ちなよ。戦姫様が家出ってわけにいくかい。橙と碧のごたごたがもっとごたごたするじゃないか」
「知るか。勝手にごたごたしてろ」
「お前さんはまた……」
庵覚が天を仰ぐ。しかしその嘆きはどこか芝居がかっていた。
黎翡の視線に気づいた彼は、ふっと真顔になる。
「しかしまあ、戦姫様が本気でそれをお望みになるなら、うちの伝で逃げ場所くらいはご準備いたしますよ」
「お前のとこはごたごたしてもらった方が儲かるからな」
「お前さん、それを言っちゃおしまいさね」
庵覚の打算を、鴻耀があっさりとばらす。目の前で繰り広げられる掛け合いに、黎翡は肩の力が抜ける心地がした。
そうか、いざとなれば逃げてもいいのだ。居場所は、どこにでもある。
こうして、逃げようか、と言ってくれる人がいる。
「……魅力的な提案ですけれど、貴方、その体では無理ではありませんの」
「何とかなる」
鴻耀はどこまでも無造作だ。黎翡は思わず笑った。
「……ありがとう。いざとなれば、お願いしますわ。今は、ひとまず碧へ行ってみます。この戦姫が敵を前に逃げたなどと、不名誉な噂を立てられたくありませんから」
黎翡は自尊心を持ち直した。それから、このお人好しの処遇を決める。
「庵氏、この人を匿っていただけるかしら」
「それは……」
庵覚が目を見開く。まさか戦姫が国に背くようなことを本気で言い出すとは思わなかったに違いない。
彼が口を開こうとした、その時。
「それは、少し困ります」
知らない声が、割って入った。
三人は一斉に身構え、声の主の方へ振り向く。
そこに立っていたのは、柔和そうな面立ちの青年だった。いつの間に入り込んだのか、誰一人気配に気づかなかったとは尋常ではない。
「何者ですの?」
黎翡の鋭い誰何を受けて、青年は洗練された仕草で一礼した。
「私は守護神玄武の眷族、虚廉と申します」
三人は困惑した。
北の守護神の眷族が、一体この場に何の用なのか。黎翡がその問いを口にすると、虚廉は穏やかに微笑んだ。
「実は、五国方士と呼ばれる方々にお集まりいただきたい事情がございまして。轟狼殿をお迎えにあがりました」
「……昏が五国方士を集めているという話は聞いていましたけれど、まさか直接来るとは思いませんでしたわ」
それも、彼の名乗りを信じるならば、五国方士を集めているのは昏王ではなく玄武ということになる。黎翡は不吉な予感を覚えた。
「轟狼は我が国が捕らえ、昏に移送するところですわ。わざわざお迎えに来られることなど……」
「ええ、ですが、昏王が素直にこちらに渡してくださるかどうかは、また別問題ですので。それに……」
飽くまで柔らかな物腰で、虚廉は黎翡の隣に腰を下ろす。
「戦姫殿にも、お考えがあったようですから。私が参ったのも無駄足ではありませんでした」
黎翡が険しい視線を向けるが、虚廉は意に介さない。
穏やかな表情のまま、鴻耀の顔を覗き込む。
「私とともに来ていただけませんか、轟狼殿」
「俺はその呼び名が嫌いだ」
鴻耀が剣呑に言った。体が辛いのか、眉を寄せて歯を食い縛る。
「失礼しました。鴻耀殿」
虚廉は気分を害した様子もなく言い直したが、鴻耀は舌打ちして目を逸らした。
「どうやら進んでは来ていただけなさそうですね」
「この状況で、はいそうですか、って従うわけがねえだろ」
吐き捨てるように言う鴻耀の傍らで、庵覚が既に棒に手をかけている。
虚廉は苦笑した。
「そうですね……曲げてご足労いただくわけですから、こちらからも対価を出しましょう」
対価。思いがけない言葉に、三人は警戒したまま、彼の発言を待った。
「鴻耀殿。貴方は人と狐狼の間の子なのですね。それ故に苦しんでいる」
「……だからどうした」
鴻耀の表情が苦いのは、己の血を疎んでいるからではない。
彼は既に、一切の事情を聞かされていた。その折、狐狼の老人に平謝りされ、突如現れた肉親にどう接していいものか戸惑っていたこともあり、随分気まずい思いをしたのである。
己の出生については、鴻耀は彼らしい大雑把さで受け入れていた。
「長い抑圧から解き放たれた狐狼の血は、人の身には劇物に等しい。私の見立てでは、人の血と狐狼の力が馴染むには、体力のある成人男性でも数年はかかるでしょう」
鴻耀は舌打ちをした。
何年も寝たきりでこの苦痛と付き合えと言うのか。情勢が一際ややこしくなってきたこの時期に。
「で?」
「治して差し上げましょう」
鴻耀の問いも簡潔なら、虚廉の答えもまた、短く明快だった。驚きを顕にする人々を前に、虚廉は微笑む。
「私は水を司る守護神玄武の眷族です。その中でも癒しと調停に優れた種族の頭領ですから、狐狼の血と人の血を馴染ませ調和させるくらい、簡単にできます」
さて、いかがなさいますか。
答えはわかっている、といった表情で、虚廉はゆったりと問いかけた。




