雪鴛
雪鴛は、王宮の前に立っていた。
朱雀玉が北の戦場に送り込まれて、間もなくのことである。
仕えていた太子が廃位秒読みの状態に追い込まれ、養父雪氏が捕らえられた今、彼に居場所は無い。普通ならば、彼は既に破滅している。
そう、普通ならば。
――碧王は愚かではない。が、その精神は脆い。
彼はそう分析していた。その精神の脆さゆえに、猜疑心を煽られたことで正常な判断力を失い、太子を極端に憎悪するようになった。そしてその脆さは、突発的な衝撃に弱いことをも意味する。
現に、公子詠翠が襲撃され行方がわからなくなった今、碧王は狼狽え、正常な公務すら放棄してしまっている。
――碧王に衝撃を与える事実を、私は幾つも握っている。あとは順番だ。何をどう切り出し、情と理をどのくらい混ぜ合わせるか。
ふ、と、苦笑が漏れた。
――とはいえ、一度牢獄に放り込まれることくらいは覚悟しておかないと。
話の順序を致命的に誤らない限り、いきなり首を飛ばされることだけはない、と雪鴛は踏んでいる。碧王はそこまで激情家ではない。そんな勇気は無い、と言ってもいい。
――世の中には、信念を曲げて命を守る者もいれば、命を捨てて信念を貫く者もいる。
雪鴛はそのどちらでもない。彼はまだ、命を賭けるほどの信念を見つけてはいないし、なりふり構わず命乞いして生きるほどの未練も無い。
――命も、信念も、ふたつながら守ろうとするのは、きっと、最も険しい道なのだろうな。
養父のもとでずっと養われていたならば、こんなことを考えるようにはならなかっただろう。
恐らくは養父に教えられるままに、亡き父の仇を討つことこそが正義と思い定め、そのために死のうとしたに違いない。
養父の掌の上で踊らされているとも知らずに。
彼の脳裏に甦るのは、五年ほど前の記憶。
その頃、彼は王宮に入って太子の側仕えの一人として働き始めたばかりで、そして、養父の教えに忠実に、太子を憎んでいた。
養父のもとを離れ、王宮という限られた環境ではあるが、彼は世界を知った。当時まだ決まった侍従をつけず、誰をも均等に遠ざけていた太子蒼凌の姿を見ているうちに、聡い彼の脳裡には、ふと思いもよらない考えが湧いた。
――ひょっとしたら、前太子の乱心とその死に最も縛られているのは、この人ではなかろうか。
当時まだ十代の蒼凌は、今ほど処世術に長けてはいなかった。穏やかな人格の仮面をかぶるようにはなっていたものの、時に僅かに揺らぐことがある。
彼は国内の治安と他国との攻防に関心を示し、碧を安定した強い国にすることに心血を注いでいた。それが統治者の務めであるといえば、それまでである。だが、実際にそのように振る舞う統治者は少ない。
そして、彼を仔細に観察していた雪鴛は気づいた。蒼凌は、ほんの時折、手中に握った権力が疎ましくて仕方がないような目をするのだ。世継ぎの座欲しさに兄を殺した男のする目ではない。
権力が疎ましいくせに、全力でその義務を果たしている。
雪鴛の目に映る蒼凌は、そんな歪な太子だった。
だから、雪鴛は思ったのだ。
この人は、兄を殺したことによって、兄よりも遥かに優れた太子であらねばならないという呪いを背負いこんだのではないかと。
雪氏に教え込まれた憎しみが、揺らいだ。
もっとも、雪鴛が自分の直感をこのように分析することができたのは、何年か後のことである。当初の雪鴛は、ただ漠然と、自分は蒼凌のことが嫌いではない、と感じただけであった。
憎しみが揺らぐと、雪鴛は様々なことを考えるようになった。
前太子の乱について。
蒼凌の心情について。
そして、養父雪氏の目論見について。
彼は知恵を欲した。蒼凌は複数の侍従を持ち、しかもその全員から一定の距離を置いているので、仕える方は忙しくはない。雪鴛は書物を読み漁り、思索に耽ることが増えた。
そんな日々を過ごしていた頃、太子の侍従の一人が、宮廷の女官と密通するという不祥事を起こした。それを機に、太子蒼凌はこれ幸いと(そういうふうに雪鴛には見えた)侍従を遠ざけ、罷免していった。
結果として、蒼凌にごく近い場所には雪鴛だけが残された。
自分が選ばれた理由を、雪鴛は知らない。まさか太子にずけずけと尋ねるわけにもいくまい。ただ、不祥事の内容が内容だっただけに、子どもである雪鴛が比較的安全な存在として残されたのだろう、と、漠然と考えていた。
そうして蒼凌の身近で生活するうちに、雪鴛はもはや雪氏が彼に吹き込んだ事柄を信じなくなった。
太子には王位への執着など無い。詠翠に譲れと言われれば、譲るだろう。
ただ、今はまだ、当の詠翠が、権力を背負い他国に立ち向かえるほどの力を持っていない為に、任せられないだけなのだ。
「もし」
雪鴛はできるだけ穏やかに、宮廷の番人に声をかけた。
「王に、お目通り願いたいのですが」
番人はじろりと雪鴛を見遣り、口許を歪めた。
「王は誰にもお会いにならん。……お前」
雪鴛の顔を覚えていたらしく、番人は露骨に表情を険しくする。
「太子の侍従だな。何をしに来た。司冦府に手配されていたのではないか」
突き出すぞ、と暗に脅されるが、雪鴛は意に介さない。
「王は会ってくださいますよ」
涼しい顔で、番人に告げる。
「詠公子の行方にひとつ、心当たりがございます」
雪鴛の予想通り、詠翠の行方、という言葉を聞いた王は、一も二もなく面会を承諾した。
嘗ての英主が、歳を取るのは哀しいことだな、と雪鴛は考える。
恐らくは太子も、覇姫も、そして鴻宵も、誰も信じられなくなった今の碧王にとって、詠翠は唯一の救いなのだろう。
憐れなことだ、という感慨を押し隠し、雪鴛は拝礼する。
唯一思いがけなかったのは、王の傍らに王妃と、互贅がいたことであった。
鴻宵の一件以来王の信任に与るようになっていた互贅は、たまたま謁見に訪れていたようだ。
「そのほう」
雪鴛に直答を許した王の声は、掠れていた。
「詠翠の行方に心当たりがあるとか。早う申せ」
「恐れながら」
平伏したまま、雪鴛は答えた。
「わが養父雪氏の身の程を弁えぬ行い、この雪鴛、誠に慚愧の念に耐え難く、少しでも償いをせんと知恵を絞りました」
「前置きはよい。そなたが雪氏の蛮行に関わっておらぬなら罪にも問わぬ。早う申せ!」
だいぶ切羽詰まっているな、と冷静に観測しながら、雪鴛は額を地につけた。
「はっ。雪氏は詠公子を害するに至らなかったと申しておりました。確たる証拠は無い推測ではございますが、公子が行き先をお選びになるならば、最も信のおける相手の元でございましょう」
「……我が元ではないのか」
王が青ざめる。すかさず雪鴛は言葉を重ねた。
「公子は王宮の近くで襲撃されております。また、宮中にはとかく陰謀の多いもの。お戻りになるには不安がありましょう」
「では誰の元か。荏規か、至鶯か」
王はせき込むように尋ねるが、そのいずれにも、雪鴛は首を横に振った。
「鴻宵はもはやおらぬ。他に誰が――」
「おられますでしょう。血の繋がった兄君が」
息を飲み込むような、短い悲鳴をあげたのは王妃であろう。王は蒼白になり、わなわなと身を震わせていた。
「で、出鱈目を申すな!」
雪鴛の発言がもたらした衝撃からいち早く立ち直ったのは、互贅である。
「兄とはいえ、朱宿を使って王の近臣を亡き者にするような男だぞ!」
「それは冤罪です。でっち上げと言ってもよい」
さらりと言い切った雪鴛に、場の空気が凍りつく。雪鴛は更に追い討ちをかけた。
「その事は、他でもない貴方がよくご存じなのではありませんか、互氏」
「な、なにを……」
鴻宵が朱宿であると証言したのは紅の旧臣である然利だが、彼を手引きして王に謁見させたのは、他ならぬこの互贅なのである。
「王よ、奇妙にお思いにはなりませんでしたか」
雪鴛は、静かに問いかけた。
「絽氏と涯氏が亡くなり、その邸が燃えた、その直後に鴻将軍が朱宿であると訴える証人が現れる――あまりに、出来すぎた筋書きです。まるで計ったようではありませんか」
碧王は顔を真っ青にしたまま、言葉もない。雪鴛の問いは続く。
「結果、鴻将軍は弁解の暇もないまま誅殺されました。王よ、鴻将軍がいなくなって、最も喜ぶ者は誰だとお思いになりますか」
答えを期待しての問いではない。
答えなど、誰の目にも明らかだからだ。
「だ、だから何だと言うのだ!鴻宵があの二人を殺し火を放ったことに変わりはない!」
「いいえ、それはあり得ません」
互贅の足掻きを、雪鴛は一蹴する。それから、王に向かって深々と平伏し、額を地に打ち付けた。
「慈悲深い王よ、どうか私めの罪をお赦しください」
「なに……?」
なんのことだかわからずに、王は掠れた声で問い返す。この場の誰もが、完全に雪鴛のペースに呑まれていた。
そこで、雪鴛が更なる衝撃をもたらす。
「絽氏と涯氏を殺めたのは、この雪鴛です」
「なに!?」
怒りよりも動揺が大きいのは、決して鈍くはない碧王が瞬時に悟った為だろう。
二人を殺したのが鴻宵でないとしたら、自分のしたことは……。
「た、太子の命を受けてのことか」
「いいえ」
絞り出された問いも、雪鴛にすげなく否定される。
「あの二人は……恐れ多くも大それたことを企て、それを実行に移そうとしておりました。王のため、国のためを思い、私めには他の手だてが思い付かなかったのでございます」
「大それたこと、とは」
二人を信頼していた王の声が震える。雪鴛はそっと唇を湿した。
「それは……」
深く頭を下げ、地に額をつけて、雪鴛は告げる。
「太子を害し、ゆくゆくは詠公子にも退位を迫り、己が傀儡を王位に据えることでございます」
実際には、絽宙と涯仇は詠翠を廃することなど考えてはいなかった。彼らは雪氏から、雪鴛の素性を聞いていなかったのである。
しかし、ここはあの二人にとことん悪役になってもらわなければならない。雪鴛は続けた。
「二人は雪氏と通じておりました。私を太子のお側に送り込み、時機を待っていたのです」
「待つがよい」
未だ衝撃冷めやらぬ王が、当然の問いを発する。
「王家の血を引く者は、もはや私の他には蒼凌と詠翠しかおらぬ。傍系を探したとしても、あまりに血が薄くては群臣も納得すまい。いったい誰を傀儡として立てようと言うのか」
雪鴛は寸時押し黙った。
答えに詰まったわけではない。聞き手に考える間を与えたのである。
「……まさか」
「雪氏は私の養父です。私の母は雪氏の親族に連なる者で、宮中より下がった年のうちに、私を産んだと聞いております」
その場の誰もが、雪鴛の年齢を計算しただろう。
そして気付いた筈だ。
彼が生まれたであろう時期の直前に、宮中で起こった事件に。
「そなた……」
王の声はかすれていた。
「青宇の……前太子の子だと申すか」
雪鴛は深々と頭を垂れた。
「私はそう聞き及んでいるのみです。真実は存じません。ただ、雪氏や絽氏、涯氏が、それを前提に陰謀を企てていたのは事実でございます」
重い沈黙が降りた。
「……陛下」
震える唇を最初に開いたのは、王妃だった。
「すぐに……すぐに使いを出しませんと。詠翠は、詠翠が!」
彼女は王座の傍らに膝をつき、王の手を取って懇願した。
しかし、王はゆっくりと首を振る。横にだ。
「……もう、遅い。全ては終わっておろう」
雪鴛は内心首を傾げた。
彼の知る限りでは、太子の兵はまだ北の国境で健闘を続けている。その軍中にいる詠翠の身にも、さしあたって危険は無かろう。
そのため、雪鴛は詠翠を王位につけ、且つ太子と対立しない策を王に提案するつもりでいた。詠翠は勿論、蒼凌に何かあった場合でも、その策は無効になってしまう。
「恐れながら王よ、北の戦場に変化が?」
通常ならば、雪鴛が口を挟むのは無礼な行為である。しかし、混乱する王妃も王も、それを気に止めている余裕を持たなかった。
そしてもたらされた返答に、雪鴛は唖然とすることになる。
「……近衛に、朱雀玉を持たせた」
「朱雀玉を、ですか」
どちらかというと弁の立つ方だと自負している雪鴛も、その言葉を鸚鵡返しすることしかできなかった。
朱雀玉は、妖怪対策のために、当時大宗伯であった鴻宵が朱雀に願って与えられたものである。過去に一度用いられ、太子の身を守るのに役立った、ことになっている。
それが今度は太子を排除する為に使われたというのだから、皮肉なものだ。
「太子の手勢を殲滅するよう命じたのだ……もし、詠翠がその陣中にあるのなら……」
王の呟きに、王妃が小さく悲鳴をあげた。
雪鴛は眉を寄せ、己の考えてきた筋書きに修正を加えることを余儀なくされる。
雪鴛はこれまで主として仕えてきた太子の意外なしぶとさを知っているが、飽くまで彼は人間だ。今度ばかりは、さすがにどうにもなるまい。
「雪鴛」
暫し俯いていた王が、顔を上げて雪鴛を差し招いた。
「近う寄れ」
命に従って、雪鴛は前進した。
王は玉座のほど近くまでやって来た雪鴛の頬に手をかけて顔を上げさせ、じっと見詰めた。
「青宇には、あまり似ておらぬな」
王の呟き。
雪鴛は黙っていた。
暫しの間の後、王が口を開く。
「……そなたの宮を、用意しよう」
「陛下!」
王妃が叫ぶ。王の言葉は、雪鴛を王家の一員と認める言葉だった。
「そのような……真実、王の血を引いているかもわかりませんのに!」
青ざめる王妃に、王は答える。
「確かに、青宇にはあまり似ておらん。だが」
王はするりと雪鴛の顔から手を離した。
「この、髪と目の色は、我が子の中でも青宇と蒼凌だけが持っていた」
青みがかった黒髪と、灰色の瞳。そのそれぞれは、然程珍しいものではない。しかし、この二つの特徴を併せ持つ者は少ない。
「……そなたはむしろ、蒼凌の方に似ているやも知れぬな」
王の息子である紀蒼凌は、全体的には母親似である。しかし、碧王と並べば誰もがその親子関係を認めるほどには、顔立ちの細かい部分が父親に似ていた。前太子よりは蒼凌の方が父親には似ていたと言ってもいい。
その彼と、どこか似たところのある少年を、王は肉親であると認めたのである。
「今後は宮中で暮らすがよい」
「ありがたき、幸せにございます」
頭を下げながらも、雪鴛は少し憂鬱だった。
詠翠も蒼凌も生存が絶望的だと、王達の話は示している。そうなれば現状、王位の継承権を持つのは雪鴛一人ということになる。次代の王位が約束されるのである。しかし正直なところを言えば、雪鴛は王位など欲しくはなかった。
――ままならないものだな。
内心で呟きながら、雪鴛は王との話を切り上げた。
事ここに至っては、用意してきた進言は意味を持たない。
王は言葉通り、雪鴛の生活するための宮を用意させた。さすがに東宮をそのまま与えるようなことはせず、彼に与えられたのは詠翠の住まいと並ぶ宮である。
「申し上げます」
彼がその宮に入ってまだ幾日も経たないうちに、王の命でつけられた侍従がその知らせを持ってきた。
「叙将軍が左軍を率いてご帰還なさいました。明朝の朝会にて王に謁見されます。公子におかれましては、王とともに朝会にご参加くださいますよう」
「承知した」
短い了承の言葉を返して、雪鴛は侍従を下がらせた。
「王が朝会に出るのはいつぶりか……益々群臣の心情は太子に傾いている」
少年の唇から溜息が漏れる。
「このまま太子も詠公子もみまかったとなったら、その期待は私にのしかかることになるじゃないか。まさか朱雀玉まで使うとは、困ったことをしてくれたものだ」
ぶつぶつと不満を並べながらも、雪鴛は何故だか、そうはならない気がしていた。
有り体に言えば、太子の死が想像できないのである。
「……まあ、今は考えても仕方がない。答えは叙将軍が持ってくる」
雪鴛は窓を開け放った。
日が暮れた後の空には、明暗様々な星たちが散らばっている。その輝きを眺めながら、少年は北の戦場に思いを馳せるのだった。




