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迷い

 戦場の後始末を終えた碧軍は、まず中軍、蒼凌の手勢、それから右軍の順で砦に移動した。

 昏軍が到着するまであと数日。砦の将兵と息を合わせなければならない。


 そんなある静かな夜に、私は砦の外壁の上に立ち、夜空を見上げた。外壁といってもただの隔壁ではなく、上には充分な空間がある。外部に面する方には胸の高さほどに防壁が築かれていて、戦の際はそこに開けられた穴から矢を射ったり、外壁を登ろうとする敵兵に岩石などを落として侵入を防いだりする前線となる。


 月は、静かに下界を見下ろしていた。

 星の光が降り注いで、私の視界を確保する。

 蒼い静寂に満ちた夜の下、私は独り今後のことについて考えていた。


 五国方士の件は、ひとまず春覇に任せることにする。昏の捕虜に話を聞いたところ、五国方士を集めるというのは、然利を彼らの前に連れてきた男が、見返りとして要求したものだという。絡嬰は意地で口をつぐんでいたが、束憐があっさりと教えてくれた。自分の興味の無いことには拘らないあの男らしい。

「まあもっとも、絡嬰も王さんも集めるのは集めるとして、簡単にあの野郎にくれてやる気は無かったみたいだがな」

 その辺りは、駆け引きというものだろう。絡嬰も叡循貴も方士へのこだわりを持ってはいないようだが、その力が他人の手に渡るとなれば別だ。

 私は何も言わずにその場の話を切り上げたが、蒼凌や章軌は何か言いたげにしていた。彼らは勘づいているのだろう。私が、敵を知っていることに。


 今はまだ、追及せずにいてくれることがありがたい。


 私には他にも、考えなければならないことがある。さしあたっての「今後」のことだ。

 首尾よく昏軍を退けられたとして、その先のことである。


 私は一度、碧を逐われた。蒼凌達のもとへ戻ってはきたものの、蒼凌や春覇すら、今の碧ではお尋ね者なのだ。

 碧王の感情に左右される碧は、今や衰亡に向かっていると言っても過言ではない。


 碧に仕えることになった当初のことを思い出す。あの時、私は大陸を統一し、女神を呼び戻すという自分の目的の為に、碧が恃むに足る国かどうか見極めるつもりでいた。そして、蒼凌や春覇のいる碧は、期待に応えてくれそうに見えた。

 いつからだろう、狂ってしまったのは。

 このままでは、碧はもう駄目だ。

 かといって、昏が大陸を統一した後、私の望む平和が得られるかということには疑問符がつく。


 なんとか詠翠や重臣達の説得が王を動かして、とにかく昏を何とかするまで蒼凌との確執を脇においてはくれないものだろうか。それが駄目なら、狐狼達を連れて独立しようか。その場合、大陸の統一まではかなり長く険しい道のりとなることを覚悟しなければならない。

 或いは――


 思わず最も短絡的な方法を考えてしまい、私は目の前の胸壁に頭を打ち付けたくなった。

 何を考えているんだ、私は。

 それは、それだけは駄目だ。

 心に誓った筈だろう。二度と、蒼凌にそんな思いはさせないと。



「ここに居たのか」

 不意に声をかけられて、私はびくりと肩を揺らした。振り向くと、蒼凌が外壁に設えられた狭い階段を登ってくるところだった。

「夜は冷える。風邪をひくぞ」

 そう言いながら、こちらへ歩み寄ってくる。青みがかった黒髪が月下で僅かに蒼く光り、夜風に吹かれて宙を流れる。


 その姿を目の前に捉えた瞬間に、私の内心で形容しがたい感情が一挙に渦巻いた。

 罪悪感。

 不安。

 悔恨。

 愛しさ。

 感謝。

 そういった諸々を混ぜ合わせた激情が一気に胸のうちに満ちて、何を考えるよりも先に私は駆け出していた。

 一歩、二歩、それを助走に大きく跳ぶ。


「っ!?」

 思いきり飛びついた私に、蒼凌が息を飲む。互いの間で、がしゃん、と鎧が鳴った。

 何も考えてなかったけど、私は鎧を着けたまま、帯剣もしている。

 これは重い。確実に重い!


 焦る私を、しかし蒼凌は僅かに片足をずらしただけで危なげなく受け止めてくれた。初対面の時といい、相変わらず見事な反射神経だ。あまつさえ彼は首に飛びついた私の背中に手を回して抱き抱えたまま自分が少し屈み、私の足を地面に着けてくれる。


「どうした?」

 抱き合って頬を触れ合わせたまま静かに訊かれて、私は目を閉じた。蒼凌の体温を感じながら、先程の馬鹿な考えを必死に振り払う。


「……これから、どうする?」

 昏軍を首尾よく追い返せたとして。

 私達には行き場がない。私の迷いを、蒼凌は正確に酌み取ったようだ。

「心配するな」

 背中に回した手を片方頭に移して私の髪をすきながら、穏やかな声で告げる。

「大陸を統一して女神を呼び戻す、それがお前の目指すものだろう。叶えよう。叶えられるさ、共に」

「……でも」

 今は、碧の中軍と右軍は、私達と共闘関係にある。だが、昏軍を追い返した後、その関係は解消されるだろう。彼らは飽くまで碧の朝廷に従属するものであり、その頭である碧王は蒼凌を排除したがっている。兵糧の問題もあるから彼らはひとまず都に帰り、私達とすぐに戦うことにはならないだろうけれども、私達に行き場がないことには変わりがない。

 そしていくら狐狼の能力が高いと言っても、二百という数では自ずから限界がある。一軍には立ち向かえても、一国の軍勢を相手取ることは到底できまい。


 力も無く、帰る場所もない。

 そんな私達に、どうやって大陸を統一することができると言うのか。


「……思えば、俺はずっと逃げていたのかも知れない」

 蒼凌が喋ると、私の体にも振動が伝わる。

「兄を葬った時、俺が背負ったのは、この国の次代を担うことだった。戦乱の中で滅びないよう、できれば拡大できるように、この国を導くことだった」

 王位継承者の殆どが喪われてしまった事件。生き残った蒼凌は、自らその重責を背負いこんだ。

「……今、碧は滅びへ向かっている」

 私は息を飲んだ。思わず固くなる体を、蒼凌が強く抱き締める。

「止めなければならない。礎となった者達のためにも、平和な未来を作るためにも」

「でも、蒼凌……」

 どうやって、という言葉を、私は飲み込んだ。

 蒼凌は顔を上げず、私を離さない。

 それが、答えのように思えた。


「……嫌だ」

 私の口から、言葉が零れる。

「嫌だ。蒼凌、あんたはまた背負おうとしているのか。そんなのは嫌だ。あんたに背負わせないために、私は、私達は……」

「お前はいつも、そうして自分こそが背負おうとする」

 蒼凌は苦笑混じりの溜息を漏らした。少し体を離し、目を合わせる。月光の下で、彼の表情は影になってよくわからない。けれど、僅かに光る灰色の瞳は、とても優しかった。

「お前もわかっているだろう。最短の道だ」

「でも……」

「一日も早く戦乱にけりをつける。それで、何人の命が救われる?……民の幸福のために選択することが、統治者の務めだ」


 統治者の務め。

 その言葉が、きっと、これまで蒼凌を縛ってきたものの正体なのだろう。

 それに気づいた瞬間、私の腹の底から何か言い知れぬ激情が湧き上がった。

 王家に生まれたから。その立場に置かれたから。それだけの理由で、蒼凌は縛られ続けてきた。

 兄に殺された親族達と、自ら手にかけた兄の命の重みが、彼に逃げを許さなかった。

 だけど、蒼凌に何の咎があって、その責務の為に父を殺さなければ、そんな罪を背負わなければならないのか。


 私は確かに、平和を目指している。できるだけ喪われる命の数を減らしたいと思っている。

 だけど、その為の最短の道だからといって、碧王の命と蒼凌の心を犠牲にできるのか。


「答えは否だ!」

 私は声を荒げた。蒼凌が目を丸くしているが、構わずにその胸ぐらを掴む。

「確かに最短の道かもしれない。だけど、一人殺せば済むというわけにもいかない、余程うまくやらないと国が混乱する危険もある。蒼凌ならうまくやるんだろうけど!」

 相手は王だ。いくら群臣が蒼凌に同情的であっても、父殺しを許容しない層は必ずいる。

 幾らかの流血は避けられなくなるだろう。

「だったら私は、たとえより困難でも、蒼凌が傷つかずに済む道を選ぶ!」

 一人で背負わせるものか。他に道が無いわけではない筈だ。

「必ず有る筈だ、他の道が。無ければ私が切り開いてみせる!」

 自分でも、無謀な言い分だとは思う。けれど、諦めて思考停止するよりずっとましだ。

 絶望は、愚か者の答えなのだから。


 蒼凌は一時驚いた顔で私を見ていたが、やがてふっと吹き出した。

「やれやれ……お前に言われると、不思議と本当に何とかなりそうに思えてくるな」

「何とかしてみせるさ」

 私が言いきると、蒼凌はひどく優しい瞳で私を見下ろした。

「そうだな……お前と俺と、二人一緒なら、きっと」

「うん」

 頷いて微笑んでみせると、蒼凌も微かに笑みを見せた。私は胸ぐらを掴んでいた手を離し、襟元に寄った皺を伸ばす。蒼凌がくっと笑った。

「この状況で胸ぐらを掴んで怒鳴りつけられるとは思わなかった。まったく、お前というやつは……」

「この状況、って」


 言われて、漸く距離の近さを思い出す。蒼凌の片腕は、私の背中に回ったままだ。残る片手で、蒼凌は私の頬を撫でる。急に気恥ずかしくなって、私はどぎまぎと視線をさまよわせた。

「そっ……そろそろ下りないと、夜は冷えるし!」

「しかもここで逃げを打つか」

 あきれ顔で、蒼凌は私の額を軽く弾いた。

「いたっ、何す……」


 抗議しようと口を開いた私の唇を、蒼凌が塞いだ。はっと固まる私のうなじを、大きな手が優しく支える。

 飛び上がるように跳ね始めた心臓の鼓動に苦しさすら感じながら、私はそっと目を閉じた。


 初めての口づけは、優しくて、温かくて。

 そのくせ、どこか切なかった。

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