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 老人には娘がいた。

 妻は心労が祟ったのか百年ほど前に亡くなったが、老人は娘と二人、人間達の迫害を逃れて山中で細々と暮らしていた。娘は彼が五百歳近くなってからの子どもで、当時二百歳になる手前、人間で言えば十代の終わり頃の年齢であった。


 老人と娘は山中に作った畑で野菜や芋を栽培して食糧を賄っていたが、肉や穀物は自給できなかった。山の中の土地は穀物の栽培に適さず、鶏などの動物は狐狼を恐れて近寄らない。なにより、手が足りなかった。


「お父さん、私、街へ出てくるね」

 首巻きと手甲で枷を隠し、頭巾で琥珀の髪を目立たないよう覆った娘が言う。父親は眉をひそめた。

「やめておきなさい。畑の物だけで何とか食べていけるじゃろう」

 しかし娘も譲らない。

「でもお父さん、もうじき冬よ。雪で道が閉ざされてしまうし、畑も凍てつくわ。干し野菜だけじゃ冬を越せない」

「干し芋を多目に作ってあるし、いざとなれば山で鹿や兎を狩ることもできる。それでもどうしてもというなら、わしが行こう」

「だめよ。お父さん、もう若くないんだから。いざというとき、私の方が逃げ足が速いわ」


 二人は口論を続けたが、結局娘が父親を振り切る形で出ていってしまった。


 そして、黄昏が訪れ、日が暮れても、娘は帰ってこなかった。

 老人はやきもきし、暗闇の中へ娘を探しに行っては、よもや行き違いになったのではと家に戻ることを繰り返した。

 しかし、娘は帰ってこないまま、夜が明ける。


「なんということじゃ……」

 彼は頭を抱えた。

「わしがもっと強く止めていれば。わしが行っていれば……」

 思いきって、街へも行ってみた。だが、娘を見つけることはできず、無念のうちに悄然と山へ帰ることになった。


 数日後。

 娘は帰ってきた。真っ青な顔をして、ぼろぼろの姿で。

「おお……よくぞ、帰った……」

 娘を抱き締めながらも、老人は腹の底が冷えるような、不吉な予感に苛まれていた。

 娘は何故こんなにもぼろぼろなのか?無事、と素直に言えないのは何故なのか?

「……お父さん」

 娘は、唇を震わせた。その端は、誰かに殴られたかのように切れ、固まった血が青くなった皮膚にこびりついている。

「お、とう、さ……」

 ひくっ、と娘がしゃくりあげた。泣き出すかと思われた彼女は、そのままがくりと気を失ってしまう。彼女を粗末な寝台に横たえた老人は、崩れるように膝をついた。

「やはりわしが、わしが行くべきじゃった。済まぬことをした……!」

 泣くことすらできなかった娘の代わりのように、老人は声を殺して泣いた。


 娘はそれから、笑わなくなった。快活だった以前が嘘のように、ただ老人に促されるままにものを食べ命を繋いでいるだけの、人形のようになってしまった。


 そうして、数ヶ月。

 彼女の腹が膨らみ始めたことに、老人は気付いた。

「お父さん」

 それは、か細い声だった。久々に聞く、娘の声。

「どうしよう」

 何を、とも言わず、娘は呟くように言葉を溢した。その掌は、丸くなってきた腹に置かれている。

「しっかり食べることじゃ」

 老人は努めて穏やかに、諭すように言った。

「体をいたわりなさい」

 娘の手を握り、肩を抱く。

「腹の子に、その命に罪は無い」


 約一年後。彼女は子を産んだ。

 琥珀色を持たないその子は、明らかに人間の血を引いている。虚ろな目をして赤子を抱く娘を気遣いながら、老人は日々を過ごした。


 一月ほど経った頃だ。うっかり老人が目を離した隙に、娘が赤子を連れていなくなってしまった。

「なんということだ……いったい、どこへ」

 老人は辺りを探し回った。そして娘を見つけた時、彼女の腕に赤子はおらず、彼女は崖の下に倒れていた。

「しっかりせい!ああ、どうして……」

 抱き起こした時にはもう、娘は虫の息だった。恐らくは、自ら身を投げたのだろう。

「お父、さん……」

 目尻に涙を伝わらせて、虚ろな目のまま、娘は言った。

「あの子……棄てて、きてしまったの……あの子を見ていると、苦しくて……命に、罪は無いのに……」

「ああ……」


 老人は言葉を無くした。腹の子に罪は無いと言った老人の言葉を、娘は否定してはいない。しかしその言葉は同時に、娘を酷く傷付けることにもなったのかもしれない、と、老人はようやく思い当たった。

 自分は娘を救えなかった。


「ごめんね……ごめんね……」

 それは、老人に対してか、それとも赤子に対してか。誰にともつかない詫びの言葉を呟きながら、彼女は事切れた。


 彼女を家に運び、身綺麗にして横たえてから、老人は赤子を探した。

 しかし、ついに見つけることはできなかったのである。



「それから、二十年近くも経った頃でした」

 凄惨な話に言葉をかけられずにいる黎翡と庵覚を前に、老人は淡々と言葉を紡いでゆく。

「わしは、鴻耀と出会ったのです」



 相変わらず山奥で、老人は暮らしていた。

 娘は山の更に奥に葬った。いっそ後を追ってしまおうかと何度も思ったが、ついに見つからなかった赤子のことが気掛かりでもあり、老人はずるずると生き続けていた。


 そんなある日。畑に水を撒いていた老人は、土精霊がやけにうきうきしていることに気付いた。同時に、人の気配を感じる。


「あ?こんな山奥に人が住んでんのか」

 それは、一人の青年だった。

 背が高く、栗色の髪を後頭部で纏めており、顔に古い傷痕のある旅人。

「じじい一人か?なんでこんなところに」

 訝しげにする青年は、見知らぬ顔で、どう見ても人間だ。

 しかし老人は、彼の匂いの中にどこか懐かしいものを感じた。


 まさか、そんな筈はない。

 希望の幻影を追い求めることは、己を傷つけるばかりだ。


 そう思いながらも、老人はすがらずにいられなかった。気がつけば、長旅に疲れていたらしい鴻耀を家に入れ、粗末ながら食事を振る舞っていた。

「悪いな。あんたの暮らしも楽じゃねえんだろうに」

 そう言いながらも、変に遠慮せず、老人の心尽くしを受け入れる鴻耀。


 少し言葉を交わし、一晩宿を借りて旅立っていった青年は、この僅かな交錯だけで、老人の心に淡い希望と切なさを残した。

 筈だった。


「ようじいさん。畑の野菜だけじゃ枯れるぜ。そもそも狐狼って肉食じゃねえのかよ」

 突然現れたと思ったら、そんなことを言って穀物と幾ばくかの肉類を卓に放り出す。

「な、何を……」

「礼だ。こないだの」

 老人は呆気に取られた。狐狼を忌まないだけでも珍しいのに、律儀に一宿一飯の恩を返しに来るとは。

「そんなことを、しなくとも」

「安心しろ。俺はこう見えて金蔓のあてがあるんでな」

 随分乱暴なことを言う青年だ。老人はやれやれと肩から力を抜いた。

「そんな言い方をするでない。友人は大切にするものじゃ」

「今のでよくわかったな。金蔓がダチだって」


 そんな他愛の無い、そして遠慮の無い会話。

 いつしか、鴻耀は当たり前のように老人に食料を運び、話をして行くようになっていた。


 四方山話の中で、鴻耀が自分が捨て子だったことを口にしたとき、老人は雷に撃たれたように背筋が震えるのを覚えた。

 鴻耀の故郷は、娘が子どもを捨てたと、譫言のように口にした土地に近かった。



「わしは確信しました。じゃが、鴻耀には打ち明けなんだ。打ち明ける勇気が、無かったのです」

 老人は肩を落とした。

「それからずっと、わしは鴻耀に世話をかけながら生きてきました。せめても、近くに居りたかった」

 凄惨な老人の身の上話を聞き終えて、二人は暫時言葉を見つけられずにいた。

 やがて、黎翡が口を開く。

「……狐狼の血は、人の身にどんな影響を与えますの?」

 老人は首を振った。

「人と狐狼の子がどのようになるか、わしも存じませぬ。ただ、狐狼の力が解放された時、わしらは身に負っていた傷や病が癒えるほどに力が満ちるのを感じたのです」

 老人のいた居住区に残っていたのは、皆戦場に出られない老人や子どもや傷病者である。それが、解放された瞬間にみなぎる力を感じ、傷を負っていたものはたちどころに癒えたという。

「人の身で一時にあれを受けては体が耐えられんのではないかと……そう思って、こうして鴻耀を追ってきたのです」

「……何故、突然解放されたのです」

 黎翡の問いに、老人は答えられなかった。

「わしらにはわかりませぬ……北の戦で、何かあったのやも知れませぬな」


 黎翡は庵覚に目を向けた。庵覚はすぐに心得て頭を下げる。

「早急に調べさせます。どうか、鴻耀をよしなに」

「できる限りのことはしますわ」

 しかし、黎翡が時間を稼ぐのにも限界がある。

 庵覚は即座にその場を去り、黎翡は老人に陣中に留まることを許した。

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