血
東へと進軍を再開した橙軍の中核で、牧黎翡はそっと溜息を吐いた。
黎翡も、そして恐らくは鴻耀も、飽くまで時間稼ぎを続けるつもりだった。
しかし、そこに狂いが生じてしまった。
原因はわからない。突如苦しみ始めて倒れた鴻耀を、黎翡は捕らえるしかなかった。
彼は未だはっきりとした意識を取り戻していない。まるで身の内でなにかが荒れ狂ってでもいるかのように苦しげにしていて、時折ぼんやりと瞼を開けたと思っても、すぐに意識を失ってしまう。
「戦姫様、捕らえた以上は都か昏へ送らねば……後々、お立場に響きます」
侍従が遠慮がちに進言する。黎翡も、それはわかっていた。
「今少し。今少し、容態が悪く動かせないと言って時を稼ぎなさい」
そう命じはしたものの、暫く時を稼いで、それでどうするのか、黎翡はまだ決めかねていた。
ただ、せめて異変の原因を知りたい。その思いが、彼女に行動の先伸ばしを選ばせた。
ひとつだけ、気になることがあった。
時折ぼんやりと瞼を開ける鴻耀。
その瞳が、金色に見えたのである。
「戦姫様、例の者が」
取り次ぎの侍従が馬車を寄せ、こそりと告げた。黎翡は軍に停止を命じ、休息を取らせるという名目で、自身の馬車を離れる。街道の側の樹の影に、一人の男が膝をついていた。
「楽にして構いませんわ」
兵士達の目に入らない位置まで来ると、黎翡は男に立ち上がることを許した。男は一礼してからその言葉に従う。
白い髪に褐色の肌の男。庵覚だった。
「それで、何かわかりまして?」
庵覚は、鴻耀が倒れ、捕らえられた直後に、黎翡のもとを訪ねてきた。
庵氏の息子としてではなく、鴻耀の友人として来たのだと、飾らずに言った彼に、黎翡は好感を抱いた。だが、鴻耀の身柄を渡すことはできない。そこまですれば、今度は黎翡の身が危うくなる。
そこで彼らは、鴻耀の不調の原因を探り、解決策を探すという点で手を組むことにしたのだった。
「確たることはまだ。ただ、気になる報せが」
庵覚は周囲の気配に気を配りながら、低い声で報告した。
「以前、戦姫様は、鴻耀の瞳が金色に見えたと仰いましたな」
「ええ。光の加減かも知れませんが、それにしては鮮やかに思えましたわ」
鴻耀の瞳は元来飴色である。光の加減で金色に見える可能性も無くはないが、黎翡は己の目を信じて、庵覚にその情報を伝えたのだった。
「どうやら、狐狼が罰から解放されたらしいという情報が」
「なんですって?」
黎翡は目を見開いた。
狐狼の罰。
それは五百年の長きにわたって解かれることなかった、天の罰である。そう簡単に解ける筈が無い。
「いったい何がありましたの」
「詳しいことはまだ。急ぎ部下に探らせております。ただ、狐狼の枷が外れたことについては、目撃した者もおり、確かかと」
狐狼が解放された。
その驚愕から立ち直った後に残るのは、それと鴻耀とにいかなる関係があるのかという疑問である。その点を黎翡が問い質そうとした時、橙軍の方から複数の馬の嘶きが聞こえた。
続いて、怒号と悲鳴。
「何事ですの!?」
飛び出そうとした黎翡を制し、庵覚が樹の影から半身を出して様子を窺う。
「敵襲ではなさそうですが、何か混乱が……」
目に映ったものを黎翡に伝えていた庵覚が、はっと息を飲んだ。
「狐狼!」
「え?」
黎翡が身を乗り出したので、流れ矢等の危険は無さそうだと判断した庵覚が場所を譲る。
黎翡の目に、軍のただ中に分け入ろうとして兵士達に戈矛を向けられている狐狼が映った。ややくすんだ琥珀色の毛並み。恐らく、若い狐狼ではない。
「そこを通してくれんじゃろうか」
兵士達に牙を向けるのではなく、言葉を発して、狐狼は懇願した。
「敵意は無い。人の姿になれと言うならばそうする。ただ、鴻耀に会わせて欲しいだけなのじゃ……!」
しかし、兵士達から狐狼に返されるのは怒号ばかり。
今にも打ちかかりそうな兵士すらいる。
黎翡と庵覚は、思わず顔を見合わせた。同時に、直感する。
彼らの求めていた答えが、向こうからやって来たのだ。
「全員、武器を引いて持ち場へ戻りなさい!」
黎翡は大声で指示をしながら樹の影から出て軍へ向かった。庵覚はその場で待機したまま、様子を窺う。
「そこな狐狼。貴方はどういう者で、何故轟狼への面会を求めていますの?」
黎翡が前に出ると、狐狼はおとなしくその場に身を伏せ、頭を下げた。
「嗚呼、戦姫様。碧の居住区でお姿をお見かけいたしました。この老いぼれは、長く鴻耀に世話をかけておりました」
黎翡は少し考えてから、庵覚を呼んだ。狐狼の発言内容について、鴻耀の親友の彼ならば真偽を判断できると考えたからである。
「確かに、山に住む狐狼の老人にしばしば食糧を持っていっておりました」
庵覚はそう答えると、狐狼に住んでいた山の名や、居住区へ移り住んだ経緯などを訊ねた。狐狼が間違いなく答えるのを見て、黎翡に間違いなくその老人本人だろうと報告する。
「そう。ならば通してみましょう。但し、そのままでは馬車に入れませんわ。人の姿になりなさい。誰か、服をおやりなさい」
黎翡の指示に一部の兵士達がどよめいたが、すぐに沈静化された。狐狼がぶるりと身を震わせて姿を変え、兵士に与えられた服を着る。黎翡は狐狼と庵覚を連れて、鴻耀を載せている馬車に向かった。
「ああ、鴻耀。すまなんだ、すまなんだのう」
狐狼の老人は、ぐったりと意識を失っている鴻耀を見ると、その手を取って涙を流した。
「この者は突然倒れました。何か、原因に心当たりが?」
黎翡の問いに、老人は深く頭を下げ、震える声で語り始めた。
「鴻耀の身の内に流れる血のうち、半ばは狐狼の血なのでございます」
「は?」
庵覚が思わずといった風に声をあげ、慌てて口許を押さえる。
「構いませんわ。鴻耀の身の上については貴方が詳しい筈。疑問があれば随時発言することを許可します」
黎翡の許可を得て、庵覚が口を開く。
この男には珍しく、その声は少し、震えていた。
「……鴻耀は捨て子だ。何で、そんなことを知ってる」
黎翡は目を瞬かせた。捨て子、という響きが、あの不敵な男にはなんだか似つかわしくなく思えた。
「わしが悪かったのじゃ。わしが、事実を明かす勇気も無く、ただ鴻耀の温情にすがっておったのが……」
「その事実とやら、ここで話していただきますわ」
老人の嘆きを鋭く遮って、黎翡は宣告した。
「この者がこうなった原因がわからなければ、何とかしようにも手段を探すことすらできませんわ」
黎翡の強い勧告を受けて、老人は語り始めた。




