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襲撃

まだ幼い子狼が、陣の南側に設えられた幕舎の中で伏せていた。子狼の頭には、寝台で眠っている人物の掌が載っている。

子狼はもぞりと身じろぎすると、その人物の腹に顎を乗せた。眠っている人物が起きる気配は無い。


子狼の頭に掌を載せたまま眠りに落ちているのは、鴻宵であった。

つい先頃まで精力的に陣を移し昏軍を迎撃する準備をしていたのだが、右軍の編成を整えている途中で、それまでの無理が祟ったのか倒れたのである。幸いすぐに目を覚ましたが、他の将達によって満場一致で幕舎に押し込まれた。

怪我人はおとなしく寝ていろ、とは、春覇の言である。


そうして半ば強制的に休まされた鴻宵に、子狼は護衛兼連絡役として付いているのだ。暫くはぶつぶつと不満を漏らしながら子狼の頭を撫でていた鴻宵だったが、やはり体力的に限界だったのか、程なく気を失うように眠ってしまった。

子狼は緩やかに尻尾を振りながら、鴻宵を見守っている。


そうして、数刻が過ぎた頃。


ぱさ、と入り口の布が揺れる。子狼は即座に耳をピンと立て、入り口に目を向けた。上に載ったままの鴻宵の手に衝撃を与えないようにそっと頭を抜き、立ち上がる。

再び布が揺れた。そして、もう一度。


ついに布の端が小さく跳ね上げられ、そこから何かが入ってきた。人間よりずっと小さく、子狼と同じくらいの黒い何か。それが何かを察した瞬間、警戒を露にしていた子狼は戸惑いぎみに尻尾を揺らした。


それは、まだ若い烏であった。雛から若鳥になったばかりといった風体の烏は、子狼と目が合うと、ちょっと首を傾げる。なかなかに愛嬌のある仕草である。

子狼は控えめに唸ってみせた。鴻宵を起こさない範囲で、烏を威嚇する。

しかし若い烏はどこ吹く風といった様子でてんてんと数歩跳ね、また首を傾げた。

敵意の見出だせないその様子に、子狼も次第に警戒心よりも好奇心が勝り始めた。


この子狼はまだ幼い。普通ならば護衛の役目についたりはできないのだが、今は緊急時で大人たちが人と狼とを問わず出払っており、鴻宵になついているこの子狼がこの場に残されたのである。鴻宵が寝てしまってからは暇でもあり、子狼は烏の観察を始めた。

烏はちょん、と跳ねては子狼を見て首を傾げ、またてんてんと跳ねては子狼の方を見る。ただでさえ動くものをつい目で追いがちな子狼の関心は、完全に烏に引き付けられてしまった。


やがて烏は、跳ねては目を合わせて首を傾げるという動きを繰り返しながら、幕舎の入り口へと向かっていった。誘うような動きに、子狼もつられて一歩踏み出す。

見張りを任されていることが頭を過ったが、こんな自陣のど真ん中で危険もあるまいと思ってしまうと、もう駄目だった。

ちょんちょんと跳ねる烏に引き寄せられるように、子狼は少しずつ足を進め、ついに幕舎を出てしまう。そのまま烏を追いかけていった。


ややあって。

幕舎の入り口の布が、静かに静かに引き上げられた。



何か気配を感じた気がして、私ははっと目を開けた。

一瞬視界に人影が映るが、すぐに消える。目で追ってみると、一人の兵士が畏まって膝をつき頭を下げているのが見えた。


「おやすみ中申し訳ございません!」

まさか私が起きるとは思わなかったのか、はたまたそもそも眠っているとは思わなかったのか、兵士は開口一番に詫びた。


「いや、構わないが」

私は寝起きのまだ曖昧な頭で受け答えをしながら、水瓶を手に取った。

喉が渇いた。

椀に水を汲みながら、横目で兵士の身なりを見る。ひざまずいて深く頭を下げた兵士の顔は見えないが、背中に中軍の伝令の旗差物を負っているということは、棟将軍からの使いだろうか。


「火急の報せか?」

「はっ、直ちにお伝えせよとのことで、急ぎ参りました」

どこかで聞いた声だ、と、ぼんやりとした頭で思う。

水を喉に流し込んでから、内容を聞こうと兵士を促そうとした私は、寸前、息を止めた。


深々と頭を下げた兵士の腰。

そこにある剣、否、剣ではない、その鞘は、碧ではなかなかお目にかかれない繊細な反りを持っていた。

この世界でそんな武器を……刀を、持つ者を、私は一人しか知らない。

「蕃……っ!」

私がその名を口にするとほぼ同時。片膝をついた体勢から、蕃旋が刀を鞘走らせた。


咄嗟に身をかわした私の代わりに、木製の椀が両断される。続く剣閃をどうにか避けながら、私は剣を探った。枕元にあったそれに手が届きそうになったところで、無理な姿勢に腹の傷が悲鳴をあげる。

ぎりぎりのところで剣の柄に指先がかかり、もろともに床に倒れ込んだ。

膝に力が入らない。だが、動きを止めれば死ぬだけだ。


床を転がって距離を取りながら立ち上がる私を見据えたまま、蕃旋が一度刀を鞘に収める。

私は剣を抜き、構えた。慣れた重みが、今は辛い。


金属の擦れる澄んだ響きとともに、刃が私を両断しようと迫る。それに剣をぶつけてそらすが、いなしきれずに両者の刃が押し合って拮抗した。

内心舌打ちが漏れる。

組み合ってしまうと、腕力の違いが勝敗に大きく関わってくる。私には不利だ。


ぎり、と噛み合った刃が押される。間近に迫った蕃旋が、小さく、何かを呟いた。

――え?


剣が弾かれる。即座に振るわれた白刃に対し、私の防御は僅かに遅れた。

筈だった。


澄んだ音を立てて、刃が擦れ合う。私の剣にいなされた刀の切り返しが、咄嗟に一歩退いた私の前髪を掠めて、数本の毛先を散らした。

私は確信する。

――蕃旋は、わざと攻撃を外している。


つまり彼には、本気で私を殺す気は無いのだ。でなければ、さっき組み合った時に、あんなことを言う筈が無い。


――助けは呼ばないのか。

まるで、私が助けを呼ぶことを望んでいるような。


なおも刃を交わしながら、私は考えを巡らせる。

蕃旋のことだ。恐らくまた、頭領の責務を負ってここへ来たのだろう。しかし、彼の、或いは彼をここに使わした者――普通に考えれば朱雀――の、目的は一体何なのだろうか。


人を呼ぶべきか否か、迷いが私の舌を鈍らせる。

蕃旋が私を殺さずに済む為には、人を呼ぶのが正解だろう。しかし、事情のわかる者が来てくれればいいものの、もし何も知らない者が蕃旋に危害を加えたら、と思うと、声をあげるのはどうしても躊躇われた。


そんな事を考えている間に私の剣は蕃旋に弾き飛ばされ、衝撃でよろけた私は地に膝をついていた。目の前に蕃旋が立つ。


「……鴻宵、俺は」

蕃旋が何か言おうとした刹那。


幕舎の中を、唐突に冷気が満たした。入り口近くの地面が急速に凍りつき、そこから放射状に氷が広がって行く。冷たい、と頭の中で言葉になるよりも早く、私の足元は凍りついていた。無論、蕃旋の足元も。


「間に合ったか?」

一拍遅れて幕舎の入り口を持ち上げた人物は、そう言って中を覗き込んだ。

私と目が合うと、漆黒の瞳を瞬かせ、安堵したように頬を弛める。


「鴻宵。生きておったか」

「……黒零」

私と蕃旋の戦闘を止めたのは、今ここにいる筈のない、しかし二人の間に乱入するには最も相応しい男だった。

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