太子の決断
その報せが舞い込んだ時、蒼凌は表向き、何の動揺も見せなかった。
それこそ、大事を伝えに来た使者が、太子は既にこの事実を知っていたのかと勘繰った程である。しかしその実、彼は動じていないわけではなかった。
反応を示さなかったのではない。
示せなかったのである。
あまりにも大きな衝撃を受けた時、自身の心がそれを理解することを拒んでしまうことがある。蒼凌の状態は、それに近かった。
――鴻宵が、絽涯二氏を殺害し火を放ったかどで誅殺された。
衝撃から回復し、その内容を理解した時、蒼凌の面からは一切の表情が抜け落ちた。
誅殺。
――鴻宵が、殺された。
罪状を決定づけたのは、朱宿と呼ばれた鴻宵の過去。
真犯人と思しき男の伝言は、鴻宵を朱宿と知る者だと示唆していた。そしてそれを伝えてきたのは恐らく、朱宿に罪を着せるという宣言であり、挑発である。
それに気付いた蒼凌の警告は、間に合わなかった。
もう少し早く、行動できていれば――。
尽きぬ後悔を抱えたまま唇を引き結んでいる蒼凌の耳に、扉を叩く音が届いた。雪鴛が応対に出る。
「王命である。太子蒼凌、並びに大宗伯紀春覇は、別命あるまで東宮より出てはならない」
春覇を伴って来た近衛の長が尊大に告げる。仮にも王家の人間に対する態度ではない。丸きり罪人の扱いであった。それはすなわち、他ならぬ王の彼らに対する意識がそのようなものであることを意味する。
事実上、太子蒼凌は廃されたに等しい。
そのことに対して、蒼凌も春覇も噛みつくことはしなかった。ここで揉めるよりは、今後の対策に頭を回すのがこの二人の思考のありかたである。
しかし一人だけ、噛みついた者が居た。
「太子と覇姫様に対して無礼が過ぎる。言葉を改めよ」
雪鴛である。彼はまだ大人になりきっていない体を真っ直ぐに伸ばし、近衛兵と蒼凌達の間に割って入った。
「そちらこそ無礼であろう。こちらは王命を奉じているのだぞ」
近衛兵の態度には、侮りがありありと表れている。雪鴛は気圧されることなく真っ直ぐに近衛を睨み返した。
「太子は次代の王である。その地位にあるかぎり、臣下に侮られる道理は無い。そのくらいも弁えぬ者が近衛とは笑わせる。さがれ」
少年とは思えぬ気迫である。近衛の長は一瞬言葉に詰まった。
「雪鴛」
静かな声が、緊迫を解く。
「そのくらいにしておきなさい。近衛と揉めても何にもならない」
近衛兵には一瞥もくれず、蒼凌はそれだけ言った。雪鴛が、失礼しました、と一言詫びて引き下がる。思わず小さく息を吐いて、最後に皮肉の一つも言い返そうとした近衛兵は、蒼凌の表情を見て身を凍らせた。
蒼凌はこちらを見てはいない。にも関わらず、下手なことを口にすれば即座に斬られそうな、冷たい怒りを、近衛兵は確かに感じた。
「王に伝えるがいい」
蒼凌は静かに言った。
「太子としての最後の諫言になるかも知れないが――一時の感情による恣意的な処罰は冤罪を生む。為政者の最も注意すべき過ちだ。私は、鴻将軍が罪を犯したとは思わない。彼は事件当時自邸に居た」
淡々と述べて、目を閉じる。
この言葉が王の心に届くことは、期待していない。頑なになった人間には時に正論も届かないことを、蒼凌は理解していた。それでも諫言を発したのは、彼なりのけじめである。
口を閉ざした蒼凌に続き、落ち着きを取り戻したらしい春覇も言を挙げる。
「宗伯府から報告があるだろうが、守護神達はこの国の加護を放棄した。幸い土地の加護までは棄てないとのことだ、妖魔に悩まされることはない。だが加護無き国の存続は至難だ」
事態を知らなかった近衛兵は息を呑んだ。蒼凌も、閉じていた瞳を開く。彼らの視線を集めて、春覇は低く言った。
「たった一つの過ちが国を滅ぼす……恐ろしいことだ」
「馬鹿な!」
思わず、といった調子で近衛兵が叫ぶ。
「加護の放棄だと……!?たった一人の誅殺で、そんな馬鹿なことが……」
「貴様に説明する義理は無い。早急にさがり、王に伝えるがいい」
春覇は冷徹に言い放った。彼女の感情に呼応して、室内に緩く風が起こる。
「出ていけ」
威圧された兵士達が、我先に部屋を出て行く。扉の前に見張りだけを残して、倉皇と立ち去った。
室内には、蒼凌と春覇、章軌、雪鴛の四人だけが残る。
「兄上」
春覇の呼び掛けに応じて視線を動かした蒼凌は、彼女の眦から一粒の雫が溢れ落ちるのを見た。そして、理解する。気丈に振る舞ってはいても、今回のことで春覇は深く傷ついているのだ。
肉親である筈の王との溝が決定的になった。
何の報せも無しに、それも冤罪で、友を殺された。
自身も関与を疑われ、蒼凌も軟禁状態にある今、頼れるものも無いに等しい。
蒼凌は深く息を吐いた。
彼自身、傷は深い。ある意味、春覇より深いと言っていい。
握り締めた拳に、血が滲んだ。胸が空洞になったかのような喪失感に、俯いて歯を食い縛る。じわり、と脳裏に赤い染みが広がった。その幻影は、ゆっくりと蒼凌の両手を紅く染めてゆく。
――また、同じ罪を犯せと言うのか。
王との溝は埋まらない。埋められない。王はついに、蒼凌の大切なものを奪ってしまったのだ。蒼凌は奥歯を噛み締めた。
溝が埋まらない以上、春覇とともに生き残るには、「それ」しか手段が無い。しかし、その手段を使ってまで生き延びることに、果たして意味はあるのか。
――最愛の者は、もう居ないのに。
その時、窓から一匹の子狼が駆け込んで来なければ、蒼凌はそのまま動けなかったかもしれない。
子狼は、部屋に飛び込んでくると、他の三人の姿を見て一瞬躊躇する様子を見せた。しかし蒼凌が俯いたまま動かないのを見て、その傍らに駆け寄る。彼の視界に入る場所に、くわえてきたものを差し出した。
「それは……」
声をあげたのは春覇である。蒼凌ははっと目を見開くと、それを受け取って広げた。
それは翡翠色の頭巾だった。見覚えは、ある。
「……生きているのか」
蒼凌の問いは端的だった。その表情に、僅かに生気が蘇る。子狼は一つ頷いた。それから何度か小さく吠え、唸る。
「……お前は人の言葉を話せないのか」
蒼凌の言葉に、子狼は申し訳なさげに鼻を鳴らした。
「……話せないが、理解はできる。緊急のため言葉を話せる者を呼ぶ余裕が無かった」
不意に、子狼の意思が人の言葉となって部屋に響く。章軌が通訳しているのだった。
「鴻宵は辛うじて救い出した。しかし重傷を負っている。予断を許さない」
子狼がまた何度か吠え、鼻を鳴らす。
「たが全力を尽くす。必ず助ける。――だから貴方は、生き残れ」
蒼凌は手元にちょこんと座した子狼と視線を合わせた。その瞳に、光が戻っている。
「承知した」
はっきりと、蒼凌は頷いた。
生き延びてみせる。たとえどんな地獄を見ようとも。
「彼女」の帰る場所を、無くさない為に。
「章軌」
蒼凌は二十年来の友の名を呼んだ。章軌はまっすぐに彼の視線を受け止め、一つ頷く。
「いつでも」
簡潔な返事。春覇が訝しげな目で彼を見上げた。二人のやり取りが何を意味するのか、彼女は知らなかったのだ。
「春覇」
そんな彼女に、蒼凌は声を掛けた。
「覚えているか。昔、お前の母君の為に、花を摘みに行ったな」
「は……はい」
春覇の口からは、戸惑いを含んだ肯定が出た。何故突然そんな話になったのか、わからない。
「また野へ行こう」
そんなことを言い出す蒼凌の意図を探ろうとしてその目を見た春覇ははっと意識を引き締めた。
そこにあったのは柔和な太子の瞳ではない。嘗て、兄殺しと陰口を叩かれながらも生き抜こうと足掻いていた頃の、隙の無い鋭さがそこにはあった。
春覇は理解する。あの頃から、蒼凌は変わったのではない。変わらぬ素顔の上に、精巧な仮面を被っていたに過ぎないのだ。
「そうだな……今夜がいい。月明かりがさす頃、あの時と同じ場所で落ち合おう」
あの時落ち合ったのと、同じ場所で。
そこから向かう先は無論、花摘ではない。
――王城から、脱出する。
あの時は城を抜け出して郊外に花を摘みに行った。今回は、生きるために。
春覇は黙って、了承の礼をした。