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陽動

 一方の、函朔達は。


 黒零と出会いを果たした後、西寄りに南下を試みようとしたが、いくらか西へ進んだ辺りで立ち往生していた。行く手に戦場が広がっていたからである。


「昏軍が出てきたのか……随分早いな。やっぱり鴻宵の件に一枚噛んでやがるか」

 林の向こうに見え隠れする兵馬を睨みながら、函朔は呟いた。

 偵察したところによると昏軍は数万はいるようで、それに碧の中軍が相対している。先程から何やら慌ただしい喧騒が聞こえて碧の兵力が増えたように見えるのは、ひとまず身内の争いをやめ、太子達と折り合いをつけたのかも知れない。

「状況がよくわからないな。丘でもあれば見渡せたんだが」

 林の中から窺い見るしかない状況に、舌打ちが漏れる。

 彼らの立場からして、碧軍に見つかるのはまずい。かといって昏軍の陣を突っ切るというわけにもいかない。昏は函朔達の直接の敵ではないだけで、決して味方ではないのだ。

 加えて今は黒零がいる。昏軍にも見付かりたくはない。

 となれば、この場は迂回するしかないが、戦場の布陣の様子がわからなければ道も決められない。


「喧騒が随分激しいようだ」

 函朔の後ろで様子を窺っていた黒零が呟く。秋伊は更に後方で座り込んで休息していた。かなり疲れているようだ。


「交戦中みたいだな。それも、ひょっとすると総力戦かも」

 兵馬の巻き上げる土埃が、戦況を見渡しにくくしている。函朔は両軍の注意がこちらに向いていないことを確認してから木に上り、枝を掻き分けて遠くを見渡した。

「お、昏軍が崩れた」

「なに」

 下にいる黒零が驚きの声をあげる。目を凝らすと、黒い鎧の兵士達が算を乱して北へ向かうのが見えた。


「碧が昏を破ったのか。昏の将は四将軍ではなかったのか?」

「さあな」

 四将軍、今は三名になってしまったうえにその一人は王なのだが、そのいずれかが来ていたなら、碧の中軍が相手といえど簡単に敗れるとは思えない。

 黒零はそう考えたのだが、その疑問に函朔が答えられる筈もなかった。


「とりあえず、あと少し待てば戦は終わりそうだ。迂回せずにすむかも知れない」

 そう言いながら木から飛び降りた函朔は、座って休息している秋伊の顔色が異様に悪いことに気付いた。

「若!お加減が悪いのですか」

 すぐさま走り寄るが、はっとしたように顔を上げた秋伊は首を横に振った。

「少し疲れただけだ。それより、先へは進めそうか」

「暫し待てば、なんとか」


 答えながら、函朔は秋伊の前に膝をついて顔を覗き込もうとする。しかし秋伊はするりとその視線をかわし、立ち上がった。

「ならば場所を移そう。ここでは様子も窺いにくいし、戦場に近すぎる」

「は……ですが」


「函朔!」

 秋伊の体調を気遣う函朔の言葉に、緊迫した声が被さる。

 瞬間、函朔の耳にも、複数の人間の足音が届いた。

「逃げる昏兵の一部がこちらへ来る」

 黒零の警告に応じて、函朔は秋伊の手を引いた。

「こちらへ。藪へ入ってやり過ごしましょう」

「うむ……っ!」

 頷いた秋伊の体勢が、がくんと崩れる。慌てて支えた函朔は、その体の熱さに愕然とした。

「若、熱が……!」

「後にせよ。来るぞ」

 黒零が二人を押し込むようにして藪に隠れる。

 間もなく、木々の間を縫って逃げてくる昏兵の集団が見えた。


「くそ、どうなってんだ!勝ってたんじゃなかったのかよ」

「いいから走れ!追っ手が来る」

「うわぁあ!」

 後尾にいた兵士が悲鳴をあげる。びくりと肩を震わせる秋伊を庇うように身を寄せた函朔は、その身が小刻みに震えていることに気付いた。

 内心舌打ちが漏れる。

 秋伊は怯えて震えているわけではない。発熱からくる寒気に襲われているのだ。主君がそんな状態になるまで気付かなかった己の迂闊さに歯噛みする思いだった。


 ごく近くまで来た昏兵が、足を射抜かれて倒れる。痛みに呻き、ずるずると体を引きずって後退りながら、何事か喚いて両手を上げた。降参を叫んだのだろう。他の昏兵も、次々に同様の行動をとっている。


「最初からそうしておとなしくしてくれればよいものを」

 現れた碧兵は、どこか疲れたように言い、昏兵を拘束し始める。

「そもそも深追いは不要なのだ。それをお前たちが碧の方へ逃げるから……」


 溜息を吐く様子を見るに、昏へ向かって逃げるなら追うつもりはなかったらしい。碧の領内へ入られると互いに面倒なので追ってきたのだろう。混乱の中で逃げる方向を間違えたこの兵士たちは不運であったというほかない。


 碧兵も疲れているのか、行動に精彩を欠いている。藪の中で息を潜めている函朔達は、このままやり過ごせそうだと安堵していた。


 頭上で、烏がやかましく鳴き立てるまでは。


「なんだ?やけにうるさいな」

 碧の兵士たちが、訝しげに顔を上げる。その顔面目掛けて、樹上から多数の烏が舞い降りた。爪を広げ、或いは嘴を下にして、兵士たちに攻撃を加える。


「うわぁ!なんだこの烏どもは!」

 烏の攻撃は、無論武装した兵士たちに深刻な傷を与えるまでには至らない。しかし予想外の闖入者に、兵士たちは驚き騒ぎ、顔を庇って散り散りに逃げた。烏たちはそれを追うことはせず、ただ兵士たちをばらばらに分断するように飛び回って威嚇している。



「……函朔に、秋伊」

 不意に、黒零が言葉を発した。

「どうやら、吾には行かねばならん場所ができたようだ」


 振り向いた彼の顔はいつもの無表情だが、どこか強い決意を滲ませていた。しかしその目が苦しげに息を吐く秋伊を捉えた時、瞳が僅かに揺らぐ。


「とはいえ、秋伊を見棄てるには忍びぬ」

 迷いが言葉になって溢れたが、函朔はそれに対し首を振って応える。

「心配無用だ。若は俺が守る」


 だから、行け。行くべき所へ。


 函朔はそう言ったつもりだった。

 だが、黒零の次の行動は彼の想定を越える。


「そなた」

「うわぁ!?」

 烏から逃げ惑ってちょうど近くに来た碧兵を捕まえたのである。


「おい何やってんだ!」

 函朔が思わず叫んだのも無理はない。せっかく隠れていたのが水の泡だ。今この辺りに駐屯している碧軍がどういった立場を取っているのかわからないのに、黒零はいきなり姿をさらすという暴挙に出たのだ。


「なっ、何奴!さてはこの烏は貴様らの……」

「違う。吾らは通りすがりだ」

 事実ではあるが恐らく信じては貰えないだろう内容をさらりと告げて、黒零は続ける。

「だが保証しよう。あの烏どもはそなたらに深刻な被害を与えることは無い。それが目的ではないと、吾は推測する」


 淡々と告げた黒零は、ついと目を細めた。


「被害は、これから起こる。吾をそなたらの本陣へ連れて行け。吾はあれを止めねばならん」

「何を言って……!」

 当然のことながら、碧兵がはいそうですかと従うわけはない。腕を掴んでいた黒零の手を振り払い、腰の剣に手を掛けた。


「怪しい奴らだ。引っ捕らえるぞ!」

 碧兵にとってみれば、これは一か八かの威嚇だった。

 なにしろ自軍は混乱の最中にある。兵士は一人であり、相手は得体の知れない三人組。一人はどうやら少年で、しかも体調を崩しているようではあるが、形勢を論じるならこちらが不利なのだ。


 だから、黒零の口にした言葉は、わけのわからない状況に戸惑っている兵士を更に混乱させた。


「構わぬ。むしろ、捕らえて本陣へ連れていってくれるならばこちらとしても都合がよい」

 黒零はそう申し出たのである。

 これには碧兵のみならず、函朔も呆れた。


「おい、お前な……」

「覇姫が居れば面識もある。悪いようにはするまい。何より、時がない。早く連れて行け」

 全くもって、これから捕虜になろうという人間の態度ではない。兵士は不気味に感じて捨て置こうかとも思ったのだが、覇姫と面識があるという言葉がそれを躊躇わせた。


「……名を名乗れ。覇姫様と面識があるなど、偽りで言っているのなら首が飛ぶぞ」

「吾の名か」

 ふむ、と特に意味のない声を出して、黒零は腕を組んだ。迷っているのである。


 ここで名乗れば、恐らく覇姫に取り次がれ、事は順調に運ぶだろう。

 だが、柵の無い大空へ羽ばたきたいという己の願いは、恐らく儚いものとなる。


 寸時考え込んだ彼はしかし、すぐに顔を上げた。

 約束がある。無二の友と交わした約束だ。

 それを守ることが、もっとも大切ではないか。


「吾は璃黒零」


 名を、名乗る。

 これまで意識したことのなかったその重みを、舌に感じた。


「り、璃黒零!?」

「この二人は道中で拾った道連れだ。子どもが熱を出している。可能なら、薬を所望したい」

 兵士の驚愕には取り合わず、黒零は立ち上がる。いつしか、烏たちの姿は消えていた。

「急げ。取り返しのつかぬ事態になるやも知れぬ」

 函朔とともに秋伊を助け起こしながら、黒零は厳しい声で兵士を促した。




 戦闘終結後も残って逃げた昏兵を追っていた一隊が、謎の烏の群によって襲撃を受けた。

 その報せが本陣に届いたのは、昏軍との戦闘に決着がついてからかなり経ってからであった。新手が来るという情報を受けてからの慌ただしさに紛れ、伝達が遅れた為である。そもそも損害の殆ど無い事件だったから、優先度も低かった。


 それが曲がりなりにも棟凱の耳まで届いたのは、駐屯地の北側に多数の烏が集まっているという新たな情報が加わった為である。


「烏……?」

 訝しげに眉を寄せた棟凱は、しかしその情報に脅威を見出ださなかった。時間と人手に余裕があればまた別の対応をしたかも知れないが、今はそのどちらも惜しまねばならない状況である。

「捨て置け。うるさいだけで深刻な害は無かろう」

 棟凱はそう命じた。そして彼自身、その情報を蒼凌や春覇に伝えに行く労力を費やさなかった。但し、何しろ烏が何百と集まれば、喧しいし目立つ。結果として、兵士達の注意はそちらに引き付けられがちになった。


 春覇や章軌か、或いは檄渓がその情報に接していれば見抜けただろうが、残念ながら彼らは他の急務に追われていた。

 従って、誰も気づかなかった。


 これは、陽動である、と。

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