獣の理論
鴻宵と入れ替わる形で束憐の前に立ちふさがり、文字通りに火花を散らしている蒼凌は、目の前の男の馬鹿力に正直呆れていた。
柄まで鉄製などという、鴻宵には到底扱えるわけも無い武器を狐狼達が作ってみたくなったのも無理はあるまいと思える。受け流し方に気を使ってうまく力を逃がさなければ、たとえ武器が折れずとも腕の骨を持って行かれるに違いない。
加えて、やたらと丈夫である。先ほど一度は矛の柄による打撃が入った筈なのだが、一瞬動きを止めただけでものともせずに戦闘を継続している。鴻宵にとってはほとんど相性最悪の相手だろう。
「獣が何故人に混じって闘うのか、興味があるな」
蒼凌は敢えて挑発の言を吐いた。
蒼凌の声は良く通る。束憐が乗ってくる可能性は低いが、彼自身が意に介さなくとも昏の兵士達は自らの将が人でないと知れば動揺する。そちらが狙いである。
「ああ?んなもん、そこらじゅうにいるだろうが」
果たして、束憐は動じない。
恐らく檄渓のことも察知しているのだろう、声音に呆れが混じっている。余計なことを言われる前に、蒼凌は畳み掛けた。
「一族の為でもなく、生存の為でもなく、争う相手を求めるのは何故だ?お前に比べれば人間は決して強い種ではない筈だ。その中で強者を求めるのは何故だ?殆ど弱者いびりにしか見えないが」
挑発しながらも、矛は止めない。束憐の振るう重い刃をいなし、隙を探る。
ふん、と鼻を鳴らした束憐が、殆ど馬をぶつけるようにして切り込んできた。
「人間ってのは変な生き物だ」
至近距離でぶつかり合いながら、束憐が呟くように言う。
「爪も牙も無え弱い生き物のくせに、妙なところで頑丈でしぶとい。獣は喉元に牙を立ててやりゃ腹を見せて降参するが、根性の有る人間はそれでも足掻こうとする。そんで、その中の一部はどうにかこうにか生き残りやがる。そいつらは確かに人間って弱者の一員だが、百獣の王にも勝る強者でもある」
耳障りな音を立てて、矛の柄と刃が擦れ合う。
「そんな連中を、俺は面白いと思う。それだけだ」
思想も無く、理念も無く。
ただ人間の中にいる「強者」への興味だけでこの場に立っているのだと、束憐は言う。
「なるほど」
一応納得できた思いで、蒼凌は頷いた。
そういう理屈ならば、この男が鴻宵に特に興味を示していたことも頷ける。
彼の言うような意味では、鴻宵は確かに、比類無き強者だ。だが、人間であるからこそ、その強さの中には脆い部分も共存している。
「ならば、お前が昏に居るのは、そこにお前の認める強者がいるからか」
思想も理念も愛国心もないのであれば、動機はそれしか考えられない。蒼凌の問いに、束憐は犬歯を見せた。
「さあな。ただ、最初に興味を持った人間があそこにいる」
それは恐らく、絡嬰なのだろう。
それがわかるからこそ、蒼凌は今が好機であることを理解した。矛の柄で巨大な刃を巻き込むように押さえ込み、束憐に問いかける。
「いいのか?」
「あ?」
「ここで遊んでいる間に、本陣が崩れているぞ」
計ったように、二人の耳に忙しない鉦の音と喚声が届く。束憐がはっと意識を逸らした隙を、当然蒼凌は見逃さなかった。
振るわれた矛の刃が、束憐の胸元から肩にかけて一文字に切り裂く。鎧に妨げられて深手とはいかなかったものの、肩当ての下から血が繁吹いた。
「ちっ――」
舌打ちを残し、束憐が馬から落ちる。
いや、落馬ではない。
「離れろ!」
蒼凌が周囲の兵士達に警告するより早く、束憐の身につけていた鎧が弾け飛んだ。手近にいた兵士の一人が、獣の牙にかけられて倒れる。
人の姿を放棄した赤毛の狼は、地に四足が着くや否や走り始めた。
蒼凌は咄嗟に馬首を返して追おうとしたが、到底間に合わない。包囲を呼びかけようとした蒼凌の背筋が、凍り付いた。
束憐の向かう方向は、昏の本陣ではない。蒼凌が背にしていた、碧の陣営側である。
そして束憐が現状の打開を目論むとすれば、狙うのは碧軍と蒼凌達を協力関係に導いた張本人。
「鴻宵!」
思わず叫んだ瞬間、兵士達の向こうで指揮を執っていた鴻宵が狼に飛びかかられて地に倒れるのが、やけに鮮明に見えた。
昏の本陣にいた兵士達は、まるで夢でも見ているかのような心地で自軍の崩れを見ていた。
のろのろと動き出した碧の中軍を嘲りながら追い払っていた筈が、気がつけば碧軍の馬蹄から逃げ惑う立場になっていたのである。
まったく狐にでもつままれたような心地で、多くの兵士達は戦場から逃げ出し、或いは武器を放り出して投降した。
帥将である絡嬰は、当然彼らよりはずっと正確に事態を把握していた。
しかし、有効な対処が間に合わなかったというのが実情である。
潰乱する自陣の中、絡嬰は悔しさといらだちに歯噛みしながら馬を駆り、まだしも冷静な兵士達を集めて後退を図っていた。
碧の中軍の動きは、確かに緩慢だった。
だが絡嬰は、それを侮ったわけではない。十分に警戒しながら対処した筈だ。
事態を大きく動かしたのは、碧軍の鈍さを見て慢心し始めていた昏軍の陣営に痛烈に突き刺さった、一隊の騎馬である。錐のように昏軍を切り裂いたその一隊に続き、それまで士気の高いようには見えなかった歩兵が呼応し、混乱する昏軍を制圧していった。
絡嬰自身、咄嗟に精鋭を固めて本陣を下げなければ騎馬に蹂躙されていただろう。
「何だというのだ、あの老骨は」
潰乱する自陣の収拾に追われながら、絡嬰は思わず毒づいた。
御歳七十を越える碧きっての老将棟凱は、呆れたことに件の騎馬隊の先頭に立っていたのである。
見誤った、と、絡嬰は奥歯を噛み締めた。
神算と呼ばれる棟凱を、十分に警戒してはいた。しかし、どこかに相手は老将であり、その知謀にさえ気をつければいいという思いがあったことは否めない。
それは間違っていた。
老いたりとはいえ、若い頃には武勇を以て知られた猛将である。そして、あの鴻宵に戦を教えた師は、まさにこの棟凱なのだ。
それをもっとよく認識していれば、この事態も予見できたのかも知れない。
「退け!わざわざ相手をする必要は無い!」
絡嬰は即座に退却を決めた。
元来が、碧の隙を突く為の出兵である。ここで甚大な損害など被ってしまっては元も子もない。束憐がいれば押さえられた、という思いが無くはないが、今ここに居ない者のことを考えても仕方が無い。
「束将軍の陣が残ったままですが……」
「奴は放っておけ。元々独断で突出したのだ。後で勝手に戻ってくる」
絡嬰は束憐の身を微塵も案じてはいない。
鴻宵が戻ったといえど、束憐を打ち破るほどの力は、碧軍には無い筈だ。足止めが精一杯。だからこそ、棟凱は勝負を仕掛けてきた。
「退却!」
忙しなく鉦が鳴る。絡嬰は本陣に集まった騎兵を中心に逃げ惑う兵を吸収しながら後退した。このまま国境線を越えてしまえば、碧軍は敢えて追っては来ない筈だ。
「絡将軍!」
その国境線までもう少し。
そこで、前方の兵士が叫び声を上げた。
「進路に立ち塞がる騎兵あり!」
「何騎だ」
伏兵がいたか、と舌打ちしながらも、絡嬰はまだ冷静である。
中軍が動き出す直前まで、彼らには何の動きも無かった。伏兵を置いたとすれば戦闘を開始してからということになり、迅速に撤退を始めた絡嬰達に先んじて伏せられた兵は多くない筈である。駿馬をかき集めたとしてもこの場にいる昏兵の数には遠く及ぶまい。
しかし兵士の答えは、絡嬰の予想から外れていた。
いや、多くないという点では予想通りというべきか。
「一騎です」
「なに?」
眉を寄せた絡嬰は、その意味するところに気づいて唖然とした。
前方にいる兵士達から、怯えが伝わってくる。
「絡将軍はおられるかな」
朗々と響いた声は、決して威圧的ではない。好々爺然とした、穏やかな声音であった。
しかしそれに却って恐怖を覚えるのか、足を竦ませた兵士達が自然と道を開けた。
絡嬰の視界に、その人物が映る。
「……棟凱」
いつの間に先行したのか。後方で昏軍を蹂躙しているのではなかったのか。
脳裏を疑問が駆け巡るが、絡嬰は努めて動揺を表に顕さずに棟凱の面前まで進み出た。
「馬を走らせて先回りとは、ご老体には辛い所行であったのでは?」
皮肉をぶつけながら、周囲を探る。見た限り、近くに伏兵は無い。
つまりこの老将は放胆にも本当に一人で、千騎近い昏兵の前に姿を現したのである。
「いやいや、なんの。いい感じに体が温まったわい」
豪放に笑う棟凱に、疲れの色は無い。絡嬰は表情を動かさず、矛の刃を老将に向けた。
「一騎打ちにて私を討とうと目論んでいるのかも知れないが、生憎私はそういう茶番に興味が無い」
騎兵が動き、棟凱を取り囲もうとする。
棟凱はふっと笑みを収めた。
「ふむ。ならばそれも良かろう」
それは静かな、しかしずしりと重みのある声であった。
寸時、騎兵達が怯むのを感じる。
「怯むな!敵は一騎、それも老人だ。ここで怯懦を見せるほど昏の兵は惰弱ではあるまい!」
絡嬰は敢えて荒々しく叫んだ。戦意が鈍っていては、千の騎兵もその価値を発揮できない。
「ここを越えねば国へは帰れんぞ!」
絡嬰の傍に居た指揮官も叫んだ。ここに至って、昏の騎兵達は勢いを取り戻し、棟凱に向かって馬を進め始める。絡嬰も馬腹を蹴った。
ここでの戦闘に時間はかけられない。もたもたしていれば、後ろから碧軍に追いつかれる。
棟凱へ打ち掛かろうとした絡嬰のすぐ傍で、ぱっと朱が散った。
棟凱は動いていない。何が、と思うより早く、反射的に矛を翳す。
金属の打ち合う音とともに絡嬰が目にしたのは、自分に切り掛かる自軍の兵士と、その後ろで相互に討ち合う騎兵達の姿だった。
「――紛れ込まれたか!」
潰乱した昏軍。混乱の最中で絡嬰に従って撤退した兵士達の中に、いつの間にか昏軍のふりをした碧の間諜が紛れ込んでいたのだ。
不意をつかれて何騎かが討たれ、それ以外の者達も疑心暗鬼に陥り前に進めない。
「棟凱!」
憤怒の叫びをあげた絡嬰の意識は、棟凱が矛を振り上げる姿を最後に闇に溶けていった。
「不運であったな、若者よ」
柄の一撃で意識を失った絡嬰を見下ろしながら、棟凱は小さく呟き、ほどなく追いついてきた自軍の兵士達とともにその場を収拾して引き返した。




