進軍
本陣にて戦闘の準備を整えていた蒼凌は、春覇と章軌を側に呼んで作戦を確認し終えると、徐に鎧の上に着ていた羽織を脱いだ。まるで当然のような自然さで、結い上げていた髪を下ろして簡単に束ねる。
「兄上……?」
首を傾げる春覇の隣で、章軌が小さく息を吐いた。
「……行くのか」
「勿論」
剣帯から装飾を外し、春覇に渡す。それを受け取ったところで、漸く春覇も彼の意図に気づいた。
「あ、兄上、本陣の指揮は」
「お前と章軌に任せる。今回、本陣に大きな動きは要求されない筈だ。持ちこたえれば良い。不測の事態が起こった場合は章軌に判断を一任する」
装飾を取り払った蒼凌は、元々簡素な鎧を身につけていたこともあって、碧軍の一部隊長というくらいの出で立ちになった。
矛を手に取ろうとしたところで、待て、と声がかかる。
「束憐を相手取るのだろう。これを持って行け」
投げ渡されたのは、章軌がそれまで携えていた矛だった。受け取ると、通常の矛をかなり上回る重量が腕にかかる。
「これは……」
「木製の柄では折られるという報告を受けて、居住区で試作したものだ。元来鴻宵に持たせようとして作ったものだが、重すぎて鴻宵には扱えないと判断して俺が預かっていた」
蒼凌は受け取った矛を振ってみた。
風切音を立てて旋回する矛の刃の付け根には継ぎ目が無い。つまりこれは、柄の部分も刃と一緒に鋳造された、鉄製の矛なのだ。
「なるほど。馬さえ潰れなければ有用だろうな」
「一刻持ちこたえるならば十分だろう」
章軌の言葉に、矛の重量を腕で計りながら頷く。
「礼を言う。後を頼むぞ。春覇も」
「はっ」
春覇も、兄の行動に反対はしなかった。
そもそも鴻宵と束憐では鴻宵の分がやや悪いところへもってきて、鴻宵は手負いの身だ。最悪狐狼達が控えているとはいえ、鴻宵が斃れれば全軍の士気に関わる。
鴻宵が持ちこたえられなかった場合の保険を用意できるならば、多少無茶なやりかたであろうと実行すべきであろう。
「ご武運を」
「そちらもな」
蒼凌の身に精霊の祝福を付与した春覇に笑いかけて、蒼凌は馬に乗った。
兵士達の中に紛れるようにして、鴻宵の陣へと向かって行く。
「間もなく刻限だ」
蒼凌の背を見送って、春覇が呟く。章軌が頷いて、片手を上げた。騎兵が一斉に騎乗する。
「前進!」
春覇の号令が虚空を裂く。
碧軍は昏軍を追い払うべく進軍を開始した。
碧軍が身内での争いをやめ、進軍してきた。
その報せに接した絡嬰は舌打ちした。
棟凱の妨害に遭ってほんの暫く碧軍後方の情報が入らなくなったと思ったら、これだ。
「何が起こった。太子が討たれでもしたか」
「いえ、それが、太子の手勢も吸収されているらしいと斥候から……」
「申し上げます!」
使者の言葉が終わる前に、幕舎の外から新たな情報の到着を告げる声がする。絡嬰が入室を許すと、転がるようにして使者が入ってきた。
「碧軍急転の原因がわかりました。鴻宵です!」
「……なに?」
それは、絡嬰が一時最も目障りと感じ、策を以て何度も死地に追い込んだ、そしてついにしとめた筈の人物の名。
「鴻宵が現れて碧軍を説得したようです。奴は生きています!」
「あの馬鹿を呼び戻せ!」
即座に、絡嬰は叫んだ。
鴻宵が生きて、この戦場にいると知れば、後先を考えずに飛び出すであろう男の行動を止める為である。
「駄目です、止める間もなく馬を駆って突進して行かれました!」
部下の方もその指示を予測していたのか、悲鳴に近い答えが返ってくる。絡嬰は再度舌打ちした。
「ちっ……相変わらずの単細胞が。やむを得ん、奴は放っておけ。それよりも中軍の動きに注意せよ。あの馬鹿に鴻宵をぶつけている間に仕掛けるつもりだろう」
「はっ!」
碧の朝廷の混乱が演技であったという可能性は考え難い。だとすれば、鴻宵は僥倖によって生き残ったのであり、今なお手負い、兵も完全には掌握できていない筈だ。そんな状態にも関わらず前線に出てきたのは、恐らく束憐を足止めする為だろう。
絡嬰はそう読んで、己の意識を眼前の中軍に集中することにした。
何しろ、棟凱は食えない老将である。絡嬰ですら今までの対峙で棟凱の用兵を理解したとは思えないし、少しでも隙を見せれば見事に足元をすくわれるだろうと予感していた。
「鴻宵が時間を稼いでいる間、必ず何か仕掛けてくる。些細な動きも見逃すな」
絡嬰はそう厳命して部下を下がらせた。
その指示は、何も間違ってはいなかった。
棟凱は、相手取るならばその一挙手一投足にも注意しなければならない知謀の将である。
そして、碧軍が鴻宵が束憐を押さえている時間に期待を託していたのも事実であった。
しかし彼の警戒に反して、碧の中軍は動かなかった。
碧軍が昏軍に向かって動き出す。その先陣を切っていた私は、両軍がぶつかり合うよりも早く、まっすぐにこちらを目指してくる敵影を認めた。
「鴻氏」
声をかけてきた漣瑛に頷きを返して、矛を握り直す。
「よぅ」
上機嫌に、それでいて剣呑に、その男は犬歯を見せて笑った。
「生きててくれて嬉しいぜ」
「それはどうも」
思わず、苦笑が漏れる。
束憐が私の生存を喜んでいるのは、飽くまで私と戦う為だ。こちらとしてはあまり、というか、全く嬉しくない。
双方馬を止めることなく、すれ違い様に馬体をぶつけるようにして攻撃がきた。その勢いと肉食獣の気配に怯みがちな乗馬を励ましながら、重い刃を受け流す。そのまま相手に向かって突き出した石突は、武器の柄で叩き払われた。
そこで連撃に移ることをせず馬を引いた私に、束憐は不満そうな顔を見せる。
「なんだぁ?」
隻眼がぎらりと光った。
「引いてんじゃねぇよ。ちょっと見ない間に腰抜けになったか!?」
苛立ちをぶつけるように、巨大な刃が迫る。
無茶を言うな、と舌打ちをしたくなるこちらの内心にはお構い無しの、息つく暇もない攻撃。なんとか受け流しているうちに、矛の損傷が目立ってきた。
このまま受け続けていれば、折れる。一撃入れて距離を取らなければ。
漣瑛が替えの矛を持って待機してくれている筈だ。
袈裟懸けに降り下ろされた刃に横から矛をぶつけて軌道を逸らし、隙のできた手元に一撃食らわせてすぐに距離を取る――筈だった。
一瞬、何が起こったのかわからなかった。
最初に異常を認識したのは、私を呼ぶ漣瑛の叫び声が耳に届いたから。次いで、腹部の傷に、熱いとも冷たいともつかない、痺れにも似た感覚を覚える。不思議と、痛みは感じなかった。
「か……はっ」
鎧をつけた腹部に、束憐の武器の柄が食い込んでいる。こちらの攻撃が遅れて反撃を受けたのだと気付いた時には、胸ぐらを掴まれていた。
「手負いかよ。まあいい、関係ねぇ」
片手で私の襟を掴んで軽々と持ち上げた束憐の目はこれまでになく冷たい。
これは見放した目だ。
見限った目だ。
この男は私に、興味を無くした。
「手負いだからって攻めずに引くようなタマじゃなかった筈だぜ、俺の知るお前はよ」
お前が私の何を知っている、と言いたいところだが、残念ながら自覚はあった。
私はいつものがむしゃらな戦い方をしなかった。体も万全ではない。馬も残雪じゃない。
この戦いの目的が足止めに過ぎないという意識が、どこかにあったからだ。
「腰抜けに用はねぇ」
死ね、という形に束憐の口元が動き、白刃が持ち上げられるのを、どこか他人事のように、私は見ていた。




