軍議
「さて」
蒼凌が、仕切り直すように口を開く。傍らに控えていた章軌が然り気無く入り口へ向かい、代わりに入り口に立っていた鴻宵が蒼凌の側に立つ。
話題が戦闘に関するそれへと移るということだ。棟凱は気を引き締めた。
「残る問題は昏軍の撃退だが」
蒼凌は背後を顧みた。視線を受けた鴻宵が、幽かに目を細める。
「放っておけば退くでしょうけど」
その言葉に、棟凱は軽く眉を上げた。
確かに、昏軍は長期の滞陣を嫌うだろう。元々王と太子の不和によって生じた碧の隙に乗じた出兵である。碧の国内が安定を見せることによってその旨味が薄れれば退くだろう。
しかし詠翠が帰還したとはいえ王がそう簡単に蒼凌への態度を改めるとも思えないし、お家騒動の火種はまだ十分に残っているのだ。
「詠公子が王を止められると?」
棟凱の問いかけに、鴻宵はしかし、首を振った。
「いいえ、そこまでは待ちません。昏も、我々も」
左軍が戦場を離れれば、その動きは嫌でも昏軍に察知される。それが橙への対策であることも見通されるだろう。
そして左軍が去り手薄になった戦線を、昏は一息に破ろうとするに違いない。遠征軍を維持しながら碧の自壊を手をこまねいて待つほど、昏は気長ではない。
「それに、待たれても困ります。詠公子が戻られれば、また割れるでしょうから」
「うむ、確かに……」
言いかけた棟凱は、はっと言葉を止めた。それから、まじまじと鴻宵の顔を見つめる。
「鴻将軍、そなた……」
「ああ、申し遅れましたが、私はもう将軍ではありません。どうか、鴻宵と」
一見謙虚なその申し出に、棟凱は表情に渋さを加えた。
鴻宵は宣言しているのだ。
自分はもはや碧の将ではない、王命に従う必要も、国の為に尽くす義務も無いのだと。
それでもここにいるのは、覇姫との婚姻のためか、それとも太子との友誼のためか。
「……鴻氏、都の大夫達の団結は、もしや」
不自然と言えば、不自然であった。
国の為に考えれば道理とはいえ、王にすり寄るものが出ても何らおかしくはない状況で、意見の統一が見られるなど。
自分の気づかぬところで、この若者の手は一体どこまで回っているのか。戦慄する棟凱に、鴻宵は微かに微笑んでみせた。
「幸い、私は優秀な家臣に恵まれましたので」
それは紛れも無い肯定。
棟凱が絶句していると、蒼凌が仕切り直すかのように指先で卓を軽く叩いた。
「驚かれることはない。鴻宵が棟将軍を出し抜けたのは、将軍がご存じない事実を握っていたからだ」
「わしの知らぬ事実、とな」
驚愕を一瞬で表皮の下に押し隠して、棟凱は蒼凌に目を向けた。蒼凌はゆっくりと頷く。
「私の存在と国にとって必要なことを少しでも認識させておくことは、必要だったのだ。詠翠では太刀打ちできないだろうからな」
棟凱は察しの良い男だ。蒼凌の言い回しから、これから何が起こるのか正確に理解した。
「よもや、あの噂は真でしたか」
「そうだ」
蒼凌から、はっきりとした肯定が返ってくる。
「しかし、だとしても詠公子とそう変わらぬ年代では?」
「それでも詠翠には太刀打ちできない。あれは詠翠よりよほど世の中を知っているし、頭も悪くない」
棟凱は眉を上げた。
蒼凌の口ぶりは、明らかに相手を知っていることを示している。そして蒼凌の身辺に該当する年齢のものは一人しかいなかった。
「知っていて野放しにしておられたのか」
「その議論は後にしていただけませんか、棟将軍」
棟凱が蒼凌の意図を問いつめようとしたところで、鴻宵から制止がかかる。
「揃ったようです。軍議を始めましょう」
鴻宵の言葉を受けて頷いた章軌が入り口を開ける。
そこには、相変わらず少々軽薄な表情の檄渓が立っていた。
「……右軍はやはり、鴻氏につくか」
「ええ、まあ」
にこりと笑って、檄渓は叙寧の去った席に腰を下ろす。
「もとより我々は鴻将軍の軍ですし……威張りくさった近衛に大きな顔でこき使われるのはそろそろご免被りたいですからね」
他の席が用意されていないところを見るに、最初から左軍が呼び戻されることは織り込み済みだったということであろう。しかも檄渓の発言からして、右軍がおとなしくしていたことが既に彼らの策の内であったことがわかる。
棟凱は内心渋面を作った。「神算」棟凱ともあろうものが、若者達にいいようにあしらわれている気がしてならない。
しかし不思議と不快ではなかった。老いてもなお碧軍の中核として重責を担い続けてきた棟凱も、そろそろその座を明け渡せる後継を得たのかもしれない。
「それで、昏軍のことですが」
鴻宵が仕切り直す。どうやら蒼凌は、この軍議を鴻宵に任せるつもりらしい。
「撤退を待つつもりはありません。寧ろこちらにちょっかいをかけてくれたことを後悔させてやる必要がある」
鴻宵が過激なことを言う。檄渓が手を叩いた。
「いいですね。面白くなってきました」
「……どうするつもりじゃ」
棟凱は慎重である。
絡嬰と束憐、この二人は、未だこの戦場で本気の戦いを見せていない。昏軍は半ば意図的に膠着状態を保ってきたのだ。それ故に、棟凱はまだこの二人を計りきれていない。以前に対峙したのは何年も前の話である。それから彼らも経験を積んだだろうし、自分も多少は老いた自覚がある。勝算は確答しかねた。
「無論、手強い敵です。しかし、手が無いではない」
鴻宵が卓の上に地図を広げる。そこには、現在の彼我の兵力が仔細に書き込まれていた。
「棟将軍」
黒い瞳が、挑むように棟凱を映す。
「私が束憐を引き受けたとして、どれくらいの時間を稼げば絡嬰の陣を破れますか」
束憐は怪力と、それに見合った胆力を持つ男だ。好きに暴れられれば甚大な被害が出るし、最悪陣を突破される。この男を誰かが押さえておくことは、昏軍攻略の必須事項だった。
「待て」
しかしそこに、制止の声がかかる。
「お前はまだ傷が癒えていない身だろう。危険すぎる」
不機嫌を抑え込んだような低い声で口を挟んだのは、蒼凌だった。
「狐狼でも、灰狼達でもいい。お前が出ることはない」
「ああ、いえ、それはちょっと」
蒼凌の出した代替案に、待ったをかけたのは檄渓だ。
「あれはああ見えて馬鹿ではないんですよ。野蛮ですけど。彼我の格くらいは弁えています。灰狼達はともかく、狐狼を出したら、恐らくあっさり退きます」
棟凱はほんの少し眉を上げたが、何も言わずに若者達の議論を見守ることにした。
彼にとっては未知の話題だが、どうやら束憐はただの人間ではないらしいことが推察できた。
驚くよりも寧ろ納得した気分だ。あんな無茶苦茶な人間がいてたまるものか、と、半ば若い頃の自分を棚に上げて思う。
「それに、私の姿を見つければ向かって来るでしょう。こちらが望むと望まざるとに関わらずね」
鴻宵が涼しい顔で言い切る。
蒼凌は渋面を浮かべたまま、数秒黙り込んだ。
「……仕方あるまい。だが、無茶はするな。危険があればすぐに後退しろ。灰狼に押さえさせる」
「承知しました」
蒼凌の説得を終えた鴻宵が、改めて棟凱に向き直る。
「如何でしょう、棟将軍」
「ふむ」
鴻宵が束憐を押さえているという前提で、どのくらいの時間があれば昏軍の中枢に位置する絡嬰の陣を落とせるか。
棟凱の頭の中で、目まぐるしく様々な状況が想定され、対策とその後の展開が弾き出される。
「……二刻、いや、一刻でかたをつけて見せましょう」
棟凱はそう結論付けた。
若者達が国の未来の為に力を尽くしている今、老臣の筆頭たる自分が出し惜しむわけにはいかない。全力で敵の本陣を落とすつもりである。
「一刻……承知しました」
鴻宵が頷く。一刻は短く思えるかも知れないが、束憐を押さえる鴻宵にとっては決して楽な時間ではない筈だ。
束憐と対峙したことのある棟凱は知っている。鴻宵と束憐では、鴻宵の方が分が悪い。
鴻宵は将軍としては例外的に小柄であり、天性の勘の良さと相手の懐に滑り込む技量によって勝利を得てきた者だ。怪力を持ち、しかも打たれ強い束憐は、鴻宵にとって難しい相手なのだ。
その上、鴻宵は手負いである。平気そうな顔をしてはいるが、宮中で負わされた深傷がまだ癒えていない筈であり、顔色も良くない。
「勝算はおありか」
棟凱は尋ねた。鴻宵は僅かに口角を上げる。それはどことなく、苦笑に近いように見えた。
「押さえてみせます。いざとなれば灰狼達が控えていますので、ご心配なく」
蒼凌は腕を組み、険しい顔をしている。
心配なのだろう。束憐を押さえきれないことではなく、鴻宵の身が。
それを見て、棟凱は内心、おや、と思った。蒼凌と鴻宵が個人的に親しいとは思っていなかった。そもそも蒼凌が特に気にかけている相手というのが、春覇と章軌以外に思い当たらない。
蒼凌の懸念はともかく、交戦の方針は定まった。
軍議は終了となり、棟凱は中軍に戻って準備を整えることとなる。
「くれぐれも、よろしくお願いします。今回の勝敗は絡嬰をどうにかできるか否かにかかっていますから」
幕舎を辞す棟凱を見送りに出た鴻宵が、そう言って頭を下げる。棟凱は頷いて、鴻宵の目を見据えた。
「死んではならぬぞ」
老将の言葉が、重たく響く。鴻宵は黙って深く頷いた。




