家宰の意地
静まり返った邸に一人残された省烈は、堂に胡座をかいたまま門を睨み据えた。
来るなら来い。
久々に、彼の中の武人の血が騒ぐ。しかし彼はそれを抑えた。
今の自分は鴻家の家宰なのである。家を護る者として、恥じない態度を貫かねばならない。そう――たとえ斬られようとも、毅然として、且つ無抵抗に在るべきなのだ。
門の前に、車馬の止まる気配がした。門が開いていることに戸惑ったらしく、何やら怒鳴り交わす声が聞こえる。
省烈は背筋を伸ばした。一瞬脳裏に浮かんだ妻子の面影を振り払う。
意を決した近衛の兵達が踏み込んでくるのを、省烈は真っ直ぐに睨み据えた。
「鴻家の者か」
兵士が剣を向けてくる。省烈は肯定の返事をした。
「他の者はどうした」
「家に殉じるのは主君の教えに反しますので、逃がしました」
省烈は飽くまで毅然と座したまま、はっきりと答える。衛兵の剣が首筋に当てられた。
「ならば貴様一人主君の教えに反したのか」
「私はこの家の家宰です。最後までこの家を護る義務がある」
本当は、鴻宵ならば省烈もまた逃げ延びてくれることを望むのだろう。けれども、これは省烈の、譲れない意地であった。
鴻家の家宰として、最後の意地を貫いてこの場にいる省烈を、兵士は嘲笑った。
「馬鹿馬鹿しい。死人の家を護ってどうなる」
「私は主君の名を護る為に此処におります。また此処は覇姫様のお屋敷でもある」
「ふん、覇姫も連座するに違いない。何しろ朱宿を匿っていたのだからな」
省烈の眉がぴくりと動いた。
彼も、鴻宵が朱宿だとは知らなかったのだ。驚かないわけはない。だが、それだけだった。
たとえ何者でも、この国で自分達の仕えていた主君がどういう人間であったか、彼らはよく知っているのだから。
「驚いたか?貴様らも知らなかったのだろう?所詮信頼されてはいなかったのだ」
違うな、と省烈は思った。
信頼していないなら、自分が女であると明かすわけがない。朱宿であると明かすよりも、余程危険である。鴻宵が朱宿のことを言わなかったのは、必要が無かったからと、その名の呼び寄せる禍を恐れた為であろう。
「どうだ、主の亡い鴻家に固執するよりも、王にお仕えするがいい。この場で忠誠を誓うならば命は助けてやってもよいぞ」
近衛兵の申し出は、完全に己の優位に酔っている者のそれだった。
「断る」
省烈は言下に言い切った。
「俺はこの家の家宰だ」
それは、彼の誇りであり、矜持であり、信念であった。
近衛兵が不愉快そうに眉を寄せ、剣を下げる。
「もういい、殺せ」
命令を受けて兵士達が進み出、刃を振り上げた。省烈はそれを、じっと見据えている。
目は、決して逸らさなかった。
光を反射した刃が、勢いよく降り下ろされようとする。
「待て!」
制止をかけたのは、突如としてその場に現れた者だった。駆けてきたのか肩で息をしているが、装束は高官のそれである。兵士の剣が、中空で止まった。
「司冦府より通達する。参考人を徒に殺めてはならん」
高官は懐から通達文を取り出し、兵士達に示した。兵を率いている男が、露骨に眉を寄せる。
「王命ですぞ」
国の頂点である王の権威を主張する彼に対し、高官は毅然と答えた。
「王が、その男を殺せと命じられたのか?そこまでの指示は受けておるまい」
「しかし王は、鴻家の取り潰しをお命じになりました」
近衛も譲らない。
張り詰めた空気の中に、静かな声が割り込んだ。
「法に則れば、罪人は捕縛、拘留の上、事実関係を確認して相違無いことを確かめて後、適切な刑に処すべきである」
淡々とした言葉とともに、声の主が邸に踏み込んでくる。
「それは先王以前より不変の法。如何に王といえど、恣に乱すことは許されぬ」
背筋を真っ直ぐに伸ばしたまま、きっぱりと言い切った男を、省烈も近衛兵も半ば茫然と見遣った。
「大司冦……」
近衛兵が一歩後ずさる。
いかに彼が王の意向を奉じているといっても、具体的な王命が無い以上、大司冦の正論には克てない。況してや当代の大司冦至鶯は、法と公正の権化と呼ばれるほどの硬骨漢である。たとえ王命であっても、法に反する以上、服するとは思えなかった。
「しかし……」
「その者は鴻家に残った重要参考人である。身柄を司冦府で預かる。異論があれば法的根拠を提示の上、改めて申し立てていただこう」
至鶯は普段寡黙で断片的な発言の目立つ男だが、法官として判決を述べる場合には理路整然とした主張を流暢に口にすることで知られている。それを耳にした近衛兵は、己の敗北を悟った。
「……改めて王命が下りましょう」
それでも最後の足掻きに、一言付け加えておく。しかし至鶯は動じなかった。
「司冦の主張は変わらぬ」
近衛兵は唇を噛んだ。それから、部下達に引き上げを命じる。
彼らが立ち去っていくのを見ながら、司冦府の役人は省烈を助け起こした。省烈は立ち上がり、至鶯に頭を下げる。
「大司冦の公正な判断に感謝致します」
至鶯の介入のお陰で、鴻家の邸は近衛に荒らされることを免れた。鴻宵の最後の名誉が守られたのである。
礼を受けた至鶯はしかし、首を横に振った。
「功あるは法。我が国は天下の才をむざむざ潰した。私にできたのはこれだけだ。遺憾である」
そう言う至鶯は、無表情ながらどこか悲しげに見えた。
省烈は主を亡くした邸を見渡した。
皆で食事を摂った卓。
鍛練をした庭。
主の笑顔があった場所。
視界が滲むのを感じて、そっと目を閉じた。
この主君なら、ついて行けると思った。がむしゃらに前へ進む姿が、眩しかった。支えて行きたいと思った。
全ては、もはや潰えた夢。
浮かぶ思い出を振り切って、省烈は促されるままに司冦府へ向かった。
残されたのは、無人の邸。
風に吹かれた木の葉が微かな音を立てて床に舞い落ちるのみであった。