左軍の決断
左軍の幕舎にて、敍寧は唸っていた。
手元には、つい先程太子から届いた書簡がある。会談の申し込みだ。中軍、左軍両軍の将と会って、今すべきことを話し合いたいという趣旨のものだった。
「今すべきこと……」
今回の出陣、敍寧には一貫して迷いがあった。
果たして都を空にしてまで太子を追うことに意味があるのか。
公子をも失った今、碧の将来はどうなるのか。
それに、もう一つ。
「間違いなかったのだな」
彼は身近に控えていた副官の騰藍に目を向けた。騰藍は深々と頭を下げ、肯定を示す。
「はい。この目で確と見ました。……間違いなく、鴻将軍でした」
突如狼の群を引き連れて戦場に乱入してきた人物。それは、死んだはずの同僚だった。
「ふむ……」
敍寧は腕を組んで黙考する。
これまでにも、何度か太子からの呼び掛けはあったが、左軍も、恐らくは中軍もそれを黙殺してきた。鴻宵が誅殺され、覇姫とともに都を逐われた太子には、挽回の手立てが無いと判断したからである。
いかに王の処断に納得出来ない部分があり、太子側に同情の余地があれど、挽回の見込みも無い者に与するのは自殺行為だ。
しかし今、敍寧は迷っていた。
鴻宵が生きており、尚且つ太子のもとへ馳せ参じた。この事実を黙殺してよいものかどうか。
嘗ての敍寧ならば、鴻宵一人の出現で何が変わろうかと切り捨てたところだろう。だが、誅殺の一件よりこちら、鴻宵については重要な情報が一つ加わっている。
「朱宿とはいったい、どれ程の力を持つのか……」
嘗て朱雀をその身に宿し、白軍を焼き払って見せた人物。朱雀の離れた今、それほどの力はあるまいが、方術はたとえ微少な力でも常人にとっては充分な脅威となりうる。
敍寧の脳裏に、覇姫への加護のおこぼれで青龍の力を得たという兵士の噂が過った。
恐らくはあれが、鴻宵だったのだろう。彼の消息が他人の耳目を集めなかったのは、覇姫がうまく庇っていたからに違いない。
いずれにせよ、今でも方術は使えると見た方が良い。
では王の考える通り彼が絽宙と涯仇を害したか、と言われると、敍寧にはどうも想像出来ない。
敍寧の知る鴻宵は、そういう事をする人物ではない。
第一彼は権力や身分に無頓着だった。
だからこそ、敍寧は彼が嫌いだったのだ。
どこの馬の骨かもわからない、ぽっと出の若造。高官としての振る舞いやしきたりについて努力して学んではいたようで粗野でこそなかったが、兵士や部下と馴れ合っている様子には苛立ちを覚えたし、権力争いに興味も無いくせに這い上がってきたのも気に入らない。
庶民は庶民らしく、おとなしく貴族に守られていればいいのだ、と敍寧は思う。彼らの生活の安定のために自分たち貴族が国を管理し守っているのであって、そこにしゃしゃり出てきて調和を乱す異分子など邪魔でしかない。
だがもはや、鴻宵は庶民には戻れない。彼は有形無形のしがらみの渦巻く朝廷に飛び込んで来たのだ。
そして、窮地に陥っている太子の為に、得体の知れない狼どもまで連れてきた。
「……棟凱は、応じるだろうな」
あの老将は、もともと太子や鴻宵を高く評価していた。
鴻宵が現れたという情報は、左軍から数日を経ずして中軍にも届くだろう。ひょっとしたらもうとうに届いているかも知れない。
鴻宵誅殺の報を聞いて門を閉じてしまった棟凱ならば、その生存を聞いて半信半疑、必ずや真偽を確かめようとする筈だ。
その生存を確認した時、神算の将軍は太子側の勝算をどう判断する?
「使者に伝えよ」
敍寧は決断した。
「会談に応じる」
まずは己の目で、現状と相手の出方を見るのが最善だろう。




