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「さあ、立ち上がれ。手始めに章軌、あんたに一つ、新しい『自分』を与えてあげよう」
敢えて茶目っ気たっぷりに言って、片手を差し出す。
やや不得要領ながらも、章軌は春覇とともに立ち上がった。
恐らく、私が追及を拒み煙に巻いたことには気づいているのだろうが、その思惑に乗ってくれる。
「解放された狐狼達。その頭領の任を、あんたに預けたい」
章軌は頭領になるにはまだ少し若いが、今狐狼を纏めるのに最も適した人物であるのは間違いない。
「突然の解放に戸惑っている狐狼は多いだろう。収拾を頼む」
私がそう言うと、章軌は僅かに目元を動かしたが、黙って頷いてくれた。
「それと、春覇」
声をかけられると思っていなかったのか、肩を揺らす春覇に、私は苦笑して見せた。
「振り回してごめん。今は、とりあえず章軌の補佐に回ってくれないか」
いつも凛としている彼女には珍しく頼りなげに揺れていた瞳が、はっと見開かれる。
一瞬後、そこにはいつもの「覇姫」が居た。
「承知した。他に我々に出来ることがあれば何時でも言ってくれ」
「ありがとう。助かるよ」
頷きを返して、私は軽く息を吐いた。
これで、狐狼と春覇は大丈夫だ。あとは、碧軍と昏軍に挟まれている現状の解決を考えないと。
「狼達は牽制を。できるだけ昏軍にはこちらの異変を見せないように隠そう。それから、中軍と左軍に使者を」
「既に出している」
指示を出す言葉に被せられて、私は振り向いた。灰色の瞳と目が合う。
「……さすが、鋭いな」
「この状況下でやるべき事は決まっているからな」
そう言って歩み寄ってきた蒼凌は、私の前で足を止めた。
必要な手配は終えたという事なのだろう。訊きたいことは多々あるだろうに、何も言わずにただじっとこちらを見詰めてくる。私は溜息を吐いて、その胸元を軽く叩いた。
「わかっているのなら、休んで来い。当面は私と狼達で押さえられる」
現在、蒼凌の手勢が対峙している相手は碧の左右両軍だ。
うち右軍は檄渓が適当に処理するだろうし、左軍は私の姿を目の当たりにして動揺している筈。叙寧の性格からして、すぐには仕掛けて来ない。
中軍は昏軍の撃退に全力を注いでいて余所見をする隙は無いし、昏軍は昏軍で棟将軍を相手に気を抜くわけにはいかない。これまたすぐには動けない筈だ。
そして、蒼凌とその手勢は連戦で疲弊しきっている。解放によって回復した霊力の恩恵を受けている狐狼達はともかく、人間達は限界だろう。
「しかし……」
「鴻宵!」
蒼凌が何やら言い返しかけた時、恵玲の呼び掛けがそれを遮った。
「急報だよ。都にいる連中からだ」
投げ渡された書簡を受け取った私は、すぐに中身をあらためる。
話題には予想がついている。問題は、どちらに転んだのかだ。
「……厄介なことになったな」
書簡に目を通して、私は溜息を吐く。
「どうした?」
蒼凌の問いを受けて、私は思考を巡らせながら口を開いた。
「気にせず休んでいろ。……と言いたいところだけど」
腕を組む。
どう動くべきか。せっかく纏めた事態を混乱させない為には、必要な要素が一つ、欠けている。
「少し、困ったことになった」
私は手にした書簡を蒼凌に手渡した。
「司冦は間に合わなかったようだ」
苦い呟きが落ちた。
司冦の捕り物は、それ自体が失敗に終わったわけではなかった。
公子詠翠の暗殺を企てたと思われる一味は一網打尽にされ、首謀者とその身辺の人間の身柄も無事取り押さえた。司冦府の役人達が手際よくそれらの作業をこなしていくのを、省烈は間近に見て感心していたくらいである。
ただ、一点。
ただ一人だけ、見つけることが出来なかった。
「行方は知らないのか」
「知らん!居ないことにも気付いていなかったくらいだ」
至鶯の問いかけに、首謀者の雪氏は吐き捨てるように言った。どうやら、嘘は吐いていないようだ。
「もう少し……もう少しだったのに、何故司冦に漏れた……」
ぶつぶつと呟く雪氏に背を向けて、至鶯は省烈を顧みた。
「単純に片のつくものではないようだ」
省烈は頷いて、辺りを見回す。
どんな手を使ったのか生き延びていたらしい主君からの書簡には、ごく一部の高官達の間で密やかに囁かれる噂について書かれていた。奇しくもそれは今回の司冦の標的と一致しており、一連の事件の鍵となる事実の一つと考えられた。この度司冦から逃げたことで、その推測は確信に変わる。
――碧王室の血を引く人物は、もう一人いる。
「我らの手には負えなくなった」
至鶯が呟いた通り、ここで取り逃がしてしまったことは痛手だった。
雪氏の罪状に連座する形で捕らえることが出来たなら、相手は公子詠翠襲撃の容疑者だ。血筋如何よりもその罪が先に立ち、後継争いを大きく荒らすことはない。
しかし問える罪が無いならば、その血は碧の相続問題に大きな波紋をもたらすことになる。
王と太子の対立、公子の不在。
そこに新たな継承者が現れればどうなるか。
「荏宰相を訪問する」
至鶯は袂を翻した。
「尋問は任せる」
「御意」
具体的な指示は何も無かったが、慣れているのか司冦府の役人達は迅速に動いた。一部が至鶯に付き従い、副官をはじめとする者達が残って罪人達を引き立てて行く。
「省烈殿」
難しい顔をして佇んでいる省烈に、副官が声をかけた。
「後のことは我らが引き受けます。近衛辺りに見咎められると厄介ですので、ひとまず府へお戻りを。護衛をつけます」
省烈は寸時考えたが、彼らの厚意に甘えて司冦府に戻ることにした。この場にいても、彼にできることは無い。それよりも、速やかに鴻宵に結果を知らせる書簡を出すべきだろう。
それにしても。
「誰だろうな、糸を引いてんのは……」
鴻宵の書簡には、朱宿の一件を含め裏で糸を引いている人物の存在が示唆されていた。その考えが正しいとすれば、今回肝心の対象を連れ出したのもその黒幕なのだろう。
――きな臭くなってきたな。
省烈は嘆息して天を仰いだ。晴れの日の多い碧の空を、今日は薄雲が覆っている。それがこの国の先行きを暗示しているように見えて、省烈は顔をしかめながら足早に雪氏の屋敷を後にした。
その省烈が発した急報を、鴻宵は北で受け取ったのである。




