解放
間に合ったと言うべきなのか、間に合わなかったと判じるべきか。
蒼凌達とともに退却した先の林で、私はそういう葛藤に直面した。
地面に座り込み、何かを抱え込むようにしてじっと俯いている春覇。その膝に上体を預けて、長身の体が横たわっていた。
その胸元や両腕は、悲惨なまでに焼け焦げている。春覇の腕で顔が見えなくても、それが誰なのか、嫌でもわかった。
「章軌……」
私は呟いて、思わず傍らの蒼凌を見上げた。蒼凌は一つ頷いて、肯定を示す。それから沈痛な面持ちで目を伏せて、ゆっくりと首を振った。
私は言葉を失って、目を戻す。私が現れたことが耳に入っている筈なのに、春覇は微動だにしない。周囲にいる狐狼達が、その姿を痛ましげに見守っていた。
「……朱雀玉、か」
章軌がこんな重傷を負った理由など、一つしか考えられなかった。私は数歩歩み寄る。振り向かない春覇の腕の中で、かろうじて微かな呼吸を繰り返していた章軌が私に気づいた。
「……う、宵……」
掠れて、殆ど吐息のような声が、私を呼ぶ。私は彼の傍らに膝をついた。
苦しげに息を吐きながら、章軌は震える手を持ち上げ、己の頭を抱えている春覇の腕に添えた。
「よかっ……春覇、を、頼む……」
それはこの寡黙な狐狼の、最期の願い。瀕死の重傷を負いながら、なおも愛する人の今後を託そうとしている。
私は歯を食い縛った。
弱々しく瞬く琥珀色の瞳を真っ直ぐに見据え、震える唇を開く。
「――断る」
章軌が僅かに目を瞠った。
「そんな願い、聞き入れるものか。それは――」
そうだ、聞き入れられない。
章軌を失った春覇を、私が幸せにできるわけがないだろう。買いかぶるのにも程がある。
「お前が、自分で叶えるべき願いだ」
私が言い切ると、章軌は一度ゆっくりと瞬いてから、微かに笑みを浮かべた。仕方がないな、と、聞き分けのない子どもを見るような微笑だ。私はそっと彼の頬に触れた。
「……ごめんなさい」
唐突な謝罪に、章軌が戸惑うのがわかる。それを気にすることなく、私は呟いた。
「私達の勝手で、長いこと苦しめて。本来の狐狼の力があれば、このくらい命を落とすような傷じゃないのに」
狐狼の枷は、彼らの姿を縛り精霊を遠ざけるのみでなく、彼ら自身の霊力をも制限している。霊力は、ある面では生命力とも言える。今の彼らは、人間よりは多少丈夫とはいえ、本来の彼らよりもずっと脆いのだ。
「もう……いいんだ」
琥珀色の髪を撫で、首の枷へと手を滑らせる。
「もう、いいんだよ――託された『願い』は、叶えられたのだから」
響いたのは、ほんの小さな音だった。
高く澄んだ、何かが割れるような音。
続いて、軽い何かが土を叩く音。
「……え?」
春覇が小さく声をあげる。それに呼応するように、微かな音が連鎖的に響いた。
誰もが、何が起こったのか把握できていなかったに違いない。
革の枷を撫でていたはずの私の手は、今や直に章軌の首に触れていた。
手首の、足首の、それぞれの枷が、相前後して地に落ちて行く。見開かれた章軌の琥珀色の瞳に急速に金色が滲み始めるのを見て、私は春覇の肩を抱いて後ろに下がった。
私達が身を引くと同時に、大量の精霊が渦を巻いて章軌の姿を包み込む。
「章軌!」
「大丈夫だ、春覇。落ち着いて」
叫び声をあげる春覇を宥めながら、私は渦の中心を見据えた。
やがて精霊達が落ち着きを取り戻して散って行き、そこに佇む存在が顕になる。
それは、一頭の獣だった。
琥珀色の毛並みに、しなやかな体つき。ぴんと立った耳は凛々しく、尾はふさふさした豊かな毛に覆われている。
金色の優しい瞳が、私達を見詰めた。
「章、軌……?」
事態が飲み込めないのか、春覇がか細い声で大切な人の名を呼ぶ。琥珀色の獣は彼女に歩み寄ると、身を伏せて鼻先を寄り添わせた。
「章軌……なのか?」
「ああ」
獣が答える。春覇が震える手で琥珀色の毛並みに覆われた頬を撫でた。
「傷は……?」
「霊力が急激に回復した余波で塞がったようだ」
心配をかけてすまなかった、と静かに詫びる章軌と目を潤ませている春覇の傍らで、私は立ち上がる。
「もう苦しまなくていい」
静かに、しかし力強く宣言した。
「狐狼は、解放される」
周囲で、次々に精霊達の渦が巻き起こった。林に駐屯していた百余りの狐狼達が、本来の姿と力を取り戻してゆく。
春覇に寄り添いながらその様子を見渡した章軌が、最後に私に視線を据えた。
「お前は……」
困惑の滲む声で何かを言おうとして、途中で言葉を切り、ふっと目元を弛める。
「見つかったのか、あの日の問いの答えは」
それは、嘗て玄武に向かって啖呵を切ったばかりの私に、章軌が問うたこと。
――お前は一体、何者だ。
その時、私はこう答えた。
――それを今、探しているところさ。
そして今、再びの問いに、私は微笑む。
「そうだね。見つかったよ」
風が髪を流す。渦を巻く精霊達が、はしゃぎながら私の身体を掠めていく。
「だけど、それだけでは終わらない」
一つの解は、確かに見つかったけれど。
「私はまだこれから、何者にだってなれるのだから」
それは誰しも同じ。




