愛憎
霊山の頂で、静かに事態の推移を見守っている男がいる。
「依氏……」
それまで戸惑いを眉宇に湛えながらも黙っていた従者が、耐えかねたように口を開く。
「よろしいのですか。このままで……」
男はほんの少し首を回し、うっそりと微笑む。
「見守る他ないだろう?私や君に何ができると言うんだい」
「ですが……」
従者の少年は、ぎりっと奥歯を噛み締めた。
恩を感じている人がいる。
しかしその人は権力という魔物の牙爪に敗れ、姿を消した。従うべき主君は彼自身が崇敬する守護神の為に、事態を静観することを選んでいる。
「気を落ち着けなさい、錫雛」
彼の主君は言った。
「人生には時に、待つほかない時もある。たとえ、どんなに歯がゆくてもね」
暗赤色の頭髪を風になびかせた彼がそう言うと同時に、林の陰から声が届く。
「やあ、元気にしてる?」
前回会ってから数日と経っていないにも関わらず人を食ったような挨拶をしながら現れた男に、依爾焔は微かな苦笑を浮かべ、錫雛は一層苦い顔をした。
「用事は済んだのかい」
「おおかたね」
男は軽い口調で言って、依爾焔の傍らに腰を下ろした。
「国は勝手に乱れるだろうから。今はこっちの欲しい獲物が網にかかるのを待ってればいいかな」
頬杖をつく男は、碧の後継争いに波乱を巻き起こすつもりでいるらしい。依爾焔はそんな彼の横顔を見ながら、軽く肩を竦めた。
「君の行動は論理的に破綻しているね」
鴻宵を破滅に追い込み、碧の内乱を誘発し、昏に手を貸し、その対価を要求し。一方で自分が直接手を下せば早いようなことを放置し、内通者の存在を教えるような行動すらしている。
陰謀と呼ぶには衝動的で、怨恨と見るには迂遠である。
「君の目的からすれば、さっさと碧の太子を排除して昏に大陸を統一させてしまえばいいじゃないか」
「駄目だ」
依爾焔の提案に、男は首を振る。
「簡単に排除するつもりはないよ。鴻宵だって、どうせまだ生きてるんだろう。混乱すればいい。追いつめられればいい。思い出せばいい。そして思い知ればいいんだ。己の罪が赦されないことを」
男は低い声で言って、足元の小石を蹴った。
「青龍は相変わらず愚直だけど、朱雀が足止めしてる。彼らは追いつめられる」
「……どちらが足止めされてるんだろうねえ」
爾焔は小さく呟いた。
朱雀は気が短い。彼が介入していれば、生死不明のまま行方をくらましている鴻宵も即座に引きずり出されただろう。
「つまり君は、私怨で動いているわけだ」
目的まで真っ直ぐに走らないのは、恨みがあるから。その点を、爾焔は指摘した。
「そうさ。悪い?」
男はあっさりと認める。
「だって俺は、自分の半身に裏切られたんだ。自分の命を投げ出せるほどに信じてたのに!」
その怒りを見据えながら、爾焔は緩く首を振った。
「残念ながら、私にはわからないねえ……」
その瞳は冷たく。
「何しろ私は、肉親を切り捨てた側の人間だからね」
愛が憎しみへと裏返るとき、その深さが増すことを、爾焔は頭でしか理解できない。
「……わかってもらおうとは思ってないさ。そもそもあんたは狂人だしね」
男は溜息を吐くと、立ち上がった。
「とりあえず、あんたは予定通りに動いてくれればいいよ」
「私は朱雀の意志に従うよ」
わかりきった答えを口にして、爾焔は歩き去る男から視線を外した。




