急報
軽く準備運動をして息を整えた私は、久しぶりに握る木剣を軽く振った。まだ動くと傷が痛むが、何とかなる程度だ。
「あまり無理はしないでよ」
声をかけてくる檄琅に頷いて見せて、私は木剣を構える。
「いいぞ、漣瑛」
「将軍、まだ安静にしておられた方が……」
表情を引き締める私に対し、漣瑛は困り顔だ。彼自身の傷は完治とはいかないまでもかなり良くなっているが、私の傷はそれよりも深いから、心配してくれているのだ。しかし私は首を横に振ってその気遣いを拒絶した。
「悠長な事は言っていられない。一刻も早く復帰しなければならないし、その時に鈍っていて役に立たないんじゃ話にならない」
「ですが……」
なおも渋る漣瑛に、私は木剣の一撃で以て話の終わりを告げた。辛うじて反応した漣瑛が、手にした木剣で私の攻撃を受ける。
「鴻氏!」
「悪いな漣瑛。今は黙って付き合ってくれ」
時間が惜しい。今こうしている間にも、大切な者達に危険が迫っているのだ。
私は傷の痛みに時折動きを阻害されながら、騙し騙し木剣を振った。一刻も早く、勘を取り戻したい。
力が欲しいのだ。大切なものを守れる力が。
漣瑛はそういう私の心情を理解したのだろう、小さく溜息を吐きながら、それでも本気で木剣を振ってくれた。硬い木材のぶつかり合う甲高い音が、暫し響き続ける。
「やめ!」
頃合いを見計らった檄琅の声を合図に、私達は打ち合いを止めた。一度深呼吸をして息を整えながら、木剣に目を落とす。
「幸い、思ったほど鈍ってはいないな。でも、やはり本調子じゃない」
結構本気で打ち込んだのに、全て漣瑛に防がれたのがいい証拠だ。いつもなら問題なく私が勝つ。
「本調子である方がおかしいですよ」
呆れたように言って、漣瑛は額の汗を拭った。
「さあ、少し休んでください。無理をして傷が開いては元も子もありません」
「従者の言う通りよ。ほら、横になって」
漣瑛と檄琅の二人がかりで宥められ、私は渋々横になった。体力は、だいぶ回復してきたと感じてはいるが、思うように動けないのが歯痒い。
「憂はまだ戻らないか?」
毛並みの柔らかな背中を私の寝台代わりにして横たわっている檄琅に訊いてみる。省烈に宛てて重要な情報とそれについての司冦へのお願いを認めた書簡は、憂が持って行った筈だ。あの見かけによらず素早い子狼なら、日数的にもうそろそろ帰って来る頃じゃないだろうか。
「まだよ。もう少しで帰って来ると思うけど」
「そうか……」
私は呟いて、体の力を抜く。
司冦は間に合っただろうか。間に合っていればよし。もし間に合わなかったなら、少々面倒なことになる。早急に次の手を考えなければならないだろう。
そんな風に考えながら私が檄琅の毛を撫でていた時、それは来た。
「急報!」
最初に飛び込んで来たのは、そんな声だ。反射的に身を起こした私の前に、一頭の狼がまろび込んでくる。その頭の上から、ころりと小柄な身体が転げ落ちた。
「憂」
受け身を取り損なったままころころと転がった憂を慌てて拾い上げて、私はちらりともう一頭の狼に目を向けた。地に伏せたまま荒い呼吸を繰り返す狼は、どうやら人語を話せないようだ。子狼よりは大人の狼の方が足が速いから、おおかた憂を運んで来たのだろう。
「一体何事だい」
騒ぎを聞き付けたのか、恵玲も顔を出す。全員の視線を一身に受けて、漸く息を整えた憂が口を開いた。
「今度ばっかりはまずいよ。王は本気で太子を殺す気だ」
「手短に話せ」
私は気を引き締めて憂に先を促した。王が本気だということはわかっている。けれどもこの憂の慌てようはそれだけじゃない。新たな動きがあったということだ。
続いて告げられた言葉に、私は絶句した。
「朱雀玉だ」
それは本来、人間に向けられるべきではない力。
「王は朱雀玉を前線に送った。あれじゃ……!」
焦る憂を前に、私の頭は却って冷静に働いた。
憂が走って来ただろう日数。馬で国境まで行く時間。
「……化かし合いの時間は終わりだ」
低く言って、私は立ち上がった。
「すぐに出る。出来るだけ足の速い馬を貸してくれないか」
私が口にしたのは、ごく当たり前の判断の筈だった。
しかし何故か、恵玲から呆れたような目を向けられる。
「あんた、ここに馬がいると思ってんのかい」
私は言葉に詰まった。狼達の砦に馬なんか置いておいたら、ただの食糧だ。
「まったく、動転してんじゃないよ」
溜息を吐きながら、恵玲は憂を運んで来た狼の背中を叩いた。
「すぐに出られる奴を集めな。それから、鎧だ」
了承するように一声吠えて、狼が駆け出す。
「ええと、恵玲……?」
「あたしらも出る。あんたが単身で行ったところでできることは限られてるだろ」
恵玲の言う通りだった。朱雀玉による攻撃を防ぐだけなら、私一人でなんとかできるかもしれない。しかし、今蒼凌達は昏軍と碧軍双方に挟まれた位置にいるのだ。その窮状は、人一人の力で覆せる範囲を超えている。
「私が戻れば碧軍の方を説得して昏軍に向かわせられると思ったんだけど」
「それにしたって相手に言葉を届かせる為の力は必要さ。今のあんたじゃ左軍あたりに問答無用で押し潰されるよ」
否定できないのが悲しいところだ。確かにそれなりの力を持っていなければ、話を聞いてもらうことすらできない可能性がある。
「それにあんた、丸腰で行くつもりかい?冷静な顔して案外取り乱してるのはわかったから、一遍深呼吸しな」
恵玲の言葉を肯定するように、檄琅が尻尾で私の背中を軽く叩く。
「落ち着きなさい。大丈夫、私の足なら馬よりずっと早く着けるわ」
私ははっとした。
「乗せてってくれるのか」
「ええ」
檄琅がのそりと立ち上がる。いつも寝そべって寝台代わりになってくれていたからあまり意識していなかったけれど、檄琅は普通の狼よりかなり大きい。人間の一人や二人、軽々と乗せて走れるだろう。
「あたしはおたくの従者と一緒に百ほど連れて行く。檄琅は他の狼より足が速いから、あんた一騎で先駆しな」
檄琅の足なら間に合う筈だ、と言って、恵玲は何やらずっしり物の詰まった袋を投げて寄越した。
「水と食糧だ。それと……」
短い吠え声が聞こえて、狼が入って来る。背に大きめの包みを乗せていた。
「鎧と剣だ。必要だろ」
包みをから出てきたのは、赤金の鎧と細身の剣だった。
「助かる。けど……」
お礼をいいながら、私は困惑のこもった目で恵玲を見た。
「……この鎧、女物だよね」
「うちの男どもにあんたほどちっこいのは居ないんだよ」
無理もない話ではある。
この際別に女物でも困ることは無いので、私は素直に鎧を受け取った。控えていた漣瑛が、着けるのを手伝ってくれる。すね当てや籠手の大きさがほぼ私にぴったりなのに気づいて、私は首を傾げた。
「恵玲のにしては大きいね」
恵玲は多分まだ成長しきっていない年齢だろうこともあり、私より小柄だ。この砦に他に女性が居てもおかしくはないが、そういえば前に檄琅が私の世話のできる人手が無いと言っていなかっただろうか。
ささやかな疑問の答えは、背後から返ってきた。
「それ、私のだもの」
振り返ると、青紫の黒目勝ちな瞳と目が合う。
「……檄琅の?」
檄渓の双子の姉妹なのだから人型になれて当然といえば当然だが、見たことが無いのでいまいち想像しにくい。
そんな会話を交わしていた時、手際良く鎧を装着してくれていた漣瑛が、はたと手を止めた。何やら困ったように目を泳がせているのを見て、私も暫し沈黙する。
「……檄琅……その、この鎧、ちょっと、緩いんだけど……」
「何ですって?」
剣呑な反応をされて、私はちょっと肩を震わせた。女性が細くありたいのはこの世界でも、そして人間でも妖怪でも同じらしい。しかし今回の問題はそういうことではなかった。
「いや、その……胸が」
「……布でも詰めときなさい」
普段男装していることもあって気にはしていなかったけれど、これはこれで切ない。
いつも私が着用している鎧は要所に鉄板を使ってはいるものの、基本的には強化した革で作られている。でないと重くて素早い動きなど望むべくもないからだ。ところが檄琅の貸してくれた鎧は、胸板に肩当、手甲、脛当て、草摺まで、全て赤銅色の金属製だった。当然相応の重さを覚悟していた私は、身に着け終わった鎧の軽さに驚く。
「鉄じゃないな、これ」
「ええ。北の山地で採れる鉱物を使っているわ。一般には出回っていない素材よ」
北の山地で採れる鉱物。そう言えば、北方の山地では昏への反乱が相次いでいたという話を聞いたことがある。ひょっとすると鉱脈の利権が絡んでいたのかもしれない。これだけ軽い金属なら、政府としては軍事用に喉から手が出るほど欲しい筈だ。それにしても。
「よくそんなもの持っているな。貴重なものなんじゃ?」
「問題ないわ。鉱脈も加工技術も、未だ私達が握ってるもの」
うん?
「檄琅達が?」
「ええ。北の山地にいるのは私達の同族。反乱は鎮圧されたことになってるけど、鉱脈はまだ昏政府の手には渡ってないわ」
だから私達昏政府と対立してるのよ、とさらりと言われて、私は軽い眩暈を覚えた。さりげなく重大な話を聞いてしまった気がする。
「……まあ、今はその話はいい。とりあえず、じゃあこの鎧はありがたく借りとくよ」
「そうして頂戴」
私がこの世界に来て四年近く。まだまだ知らないことは多いようだ。
夕闇迫る中、私は砦の外に出た。恵玲が、風避けにと大きな布を渡してくれる。それを肩に巻いて顔の辺りまで覆ってから、私は檄琅の背に跨がった。
「それじゃ、先に行く」
「ああ。怪我人なんだから無茶しすぎんじゃないよ」
恵玲も狼の姿になった漠埜の背に跨がりながら私に忠告する。その後ろにいた漣瑛が、一歩前へ出た。
「お気をつけて、鴻氏。私も可能な限りの速度で追いかけます」
「……狼達に無理をさせるなよ」
思わずたしなめるような事を言うと、漣瑛は苦い顔をした。
「誰よりも無理をしている方に言われたくはありません」
言い返せないのが悲しいところだ。
「じゃ、行くわよ」
「ああ」
私が頷いたのを確認して、檄琅が地を蹴った。周囲に集まっていた狼達も、一斉に走り出す。
――間に合ってくれ。
祈りながら、私は檄琅の背に身を伏せた。
星天を衝いて、狼達が駆ける。
私達の反撃が、始まった。




