家臣の混乱
いつもと同じ日常を送っていた鴻家に凶報が飛び込んだのは、王城から兵が出る直前であった。
「急ぎなされ」
あまりの報せに言葉をなくす鴻家の家臣達を、宗伯府からの使者が急かす。
「今頃城から兵が出ておる筈。そなた達まで処刑されるようなことがあっては、わしらとて将軍にも覇姫様にも会わせる顔が無い」
使者はそう言って鼻を啜った。
彼の目には涙が溜まっている。彼は鴻宵や覇姫を上官として尊敬していた。故に、鴻家の家臣達だけでも救い、受けた恩を返そうとこうして来ているのだ。
下手を打てば彼自身も処刑の対象になりかねない行動である。
唐突な主君誅殺の報せに誰もが自失する中、最初に立ち上がったのは家宰の省烈であった。
「尉匡。蔵の中から路銀と食料を出せ。範蔵、車の用意。嶺琥、足が速くて体力のある馬を選べ。箙磬殿は覇姫様のお持ち物を纏めて荒らされないように封を。使用人達は屋敷の清掃、衙の兄弟は道中の武器を揃えろ。最低限でいい。総華、お前は狐狼の餓鬼どもを居住区へ。居住区の門を閉じてじっとしてろ。俺は陪臣達に知らせて解散させる」
一息に指示して、自ら率先して動き出す。すぐに尉匡が続き、他の者達も順次動き始めた。
尉匡の微笑が消え、歯が食い縛られている。範蔵の握り締めた拳から血が滲んでいる。嶺琥や使用人達の眥には涙が光っていた。衙の兄弟が、悔しげに地面を踏み鳴らす。
沈痛な空気を漂わせながらも、彼らは迅速に動いた。
他でもない主君の教えが、彼らを立ち止まらせなかった。
犬死にするな、絶望する前に活路を探せ、と。
手早く作業を終えた時、邸の中には彼らと省烈の妻子だけが残った。離れに居た陪臣達は解雇扱いとなり、何がしかの金品を受け取って散り散りに逃げた。
「よし」
綺麗に清められた邸を見て、省烈は頷いた。
「よくやった。あとは逃げろ。蒼浪に寄るのは危険だ。南回りで西を目指して、棟将軍を頼れ」
「待ってください」
淀み無く指示する省烈を、尉匡が鋭く制す。
「まるであなたは同行なさらないような物言いですね。どうなさるおつもりですか」
刺すような視線を浴びて、省烈は微笑して見せた。
「俺は家宰だ。この家に残る」
「何言ってんだよ!」
掴みかかったのは、範蔵だった。省烈の襟を掴んだ手が、震えている。
「鴻宵はいつも、犬死にだけはすんなって言ってただろうが!だからこそ、俺達も、今後の希望なんて無いのに……!」
「犬死にじゃねえ」
省烈はおとなしく襟首を掴まれたまま、淡々と言った。
「鴻家の家臣達は逃げる。生きるためにだ。だがこの邸にも、俺達と、そして鴻宵の意思を伝える者が必要なんだ」
それは、主君の名誉を護る為に。
「鴻家の家臣は怯えて逃げたに非ず。主君の遺志に従って退去したのみ」
それを伝える為に、家財に封をし、邸を清めた。あとは一人残って、その意志を明確にするだけだ。
「省烈殿、ならばその役目は私が」
尉匡が範蔵の腕を押さえながら名乗り出る。
「あなたは妻子ある身なのですよ!」
だが、省烈は揺らがない。
「尉匡」
苦笑混じりに、彼は言った。
「この家の家宰は俺だ。邸を預かる者として、最後の意地くらい通させろ」
妻子を頼む、と一言言って。省烈は、二人の背中を押した。
「行け。もう時間が無え。無事を祈る」
それきり、彼らに背を向ける。門を開け放ち、邸の扉も開いて、見通しの良くなった堂にどかりと座った。
その背中に、そっと近づいた者が居る。省烈の妻である。彼女は何も言わずに、そっと後ろから彼の首に珠飾りをかけた。
「――ご武運を」
微かにそれだけ囁いて、去って行く。
「悪いな」
省烈は振り向かず、一言だけ詫びた。
王の兵が到達する直前、鴻家から三乗の馬車と三騎の馬が出た。先頭を切る馬車を御しているのは、嶺琥である。彼は眥から零れる涙を振り切るかのように鞭を振るい、馬車を南西へとひた走らせた。