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司冦府にて

司冦府は、静かな緊張に満ちている。

その空気を感じながら、省烈は司冦府の一角で静かに日々を過ごしていた。

鴻家の家臣達は、無事に逃げおおせただろうか。捕らえられたという話は聞かないが、気がかりには違いない。


そんな中で視界の隅に動くものを捉え、省烈は首を回した。

小さなそれは、窓を不器用に乗り越えて入ってくると、とことこと省烈の傍に寄ってきて咥えていた荷物を文机の上に下ろす。

「……仔犬?」

「犬じゃない!」

くわ、と牙を剥かれて、省烈は驚いた。

驚かない方がどうかしている。なにしろこの仔犬は、言葉を話したのだ。


「まったくどいつもこいつも人を犬呼ばわり犬扱い、果ては猫を触った手で撫でやがるし……」

「……随分鬱憤が溜まっているらしいところ、悪いんだが」

ぶつぶつと恨み言を吐き始める仔犬に、省烈はとりあえず落ち着いて声をかけてみた。

「お前は何者で、俺に何の用だ?」

「何の用だって?見りゃわかるだろ、お手紙配達だ!」

てしん、と文机の上の荷物を叩いて、仔犬が吠える。

「あと、僕は狼だ!」

「……そうか」


言いたいことは多々あれど、ひとまずそれらを飲み込んで、省烈は文机の上に置かれた包に手をかけた。全体を包んでいた布を解くと、どうやら書簡が二通入っているようだ。

「麻の袋があんた宛だ。先に読みな。もう一通をどうするかはその中に書いてある」

小さな狼はそう言って、文机の脇に寝転んだ。疲労しているのか舌を出して息をしているのを見てその鼻先に水を出してやってから、省烈は書簡を開く。


目に飛び込んできた文字に、一瞬自分は夢を見ているのかと疑った。

反射的に自分の頬を叩いてみる。普通に痛い。


「……何やってんのさ、おっさん」

「……いや、少し、信じ難くて」

狼が呆れたような目で見上げてくるが、省烈はそれどころではなかった。食い入るように手紙の文字を読む。

不覚にも、目が潤んだ。


「あの……馬鹿」

呟いた省烈の膝に、狼が前足をかけた。

「あ、やっぱあいつ馬鹿なの?」

「……」

沈黙せざるを得ない。


「馬鹿かなとは思ってたんだよね。いつの間にか僕の同僚に芸なんか仕込んでるし。お手とかできて何になるんだよ!?」

省烈は深く息を吐いた。

正直、半信半疑だった。それが、今の狼の一言で確信に変わる。


「本当に、生きてるんだな……そんなあほで意味不明なことやるのはあいつくらいなもんだ」

おまけに動物に好かれる質とくれば、まず間違いない。

「あんたあいつの家臣じゃなかった?馬鹿とかあほとか意味不明とか言っていいの?」

先ほど自分も罵っていたくせに、今更そんなことを言い出す子狼に苦笑を見せて、省烈は読み終えた書簡を懐に入れた。

「とんでもない事態になってきたな……。俺は司冦様のところへ書簡を届けに行くが、お前はどうする?返事が必要か?」

省烈の問いに、子狼はふさりと尻尾を振って答えた。

「いや、返事はいいよ。あんたが了解して行動を起こしてくれるのなら、そう伝えとく」

「ああ、頼む」

そのまま歩き出そうとした省烈は、ぴたりと足を止めた。


「ああ、その、なんだ」

気まずそうに頭を掻きながら振り向いて、彼は言った。

「生きてて良かった……って、伝えといてくれ。俺にできることは何でもするとも」

「はいよ」

ひょこりと身を起こした子狼は、省烈の顔を見上げてぷししと妙な声で笑った。

「なんだかんだ言ってあんたも主君大好きなんだねえ」

「うるせえ」

舌打ちして、省烈は踵を返す。

「次に会ったらこってり絞ってやるって言っとけ」

「了解」

子狼はにまにまと笑いながら、省烈の背中を見送った。




どことなく慌ただしい司冦府の 回廊を中心部へ向かって歩いていた省烈は、やがて役人に止められた。

「大司冦様は現在ご多忙です。何かご用ですか」

態度こそ丁重だが、緊急でないなら後にしろ、とばかりに鋭い視線を向けられる。上官である大司冦の性格の影響を受けてか落ち着いた者の多い司冦府には珍しい対応だ。しかし生憎、省烈の用事は緊急を要するものだった。


「至急、大司冦様にお目にかかりたい。火急の用件です」

省烈が言うと、役人は顔をしかめた。

「……ご用件をお伺いしても?」

本当に今でなければならないのか、と、口にこそ出さないが顔に出ている。

だが省烈も譲らない。彼は司冦府に滞在中彼らの職務に関わったことは無いが、今の慌ただしさが、目前に迫った大捕物の為だということは知っている。懐に入っている大司冦宛の書簡に何が書いてあるのかはわからない。しかしこの事態と無関係でないことは確かだ。


何より、死地を潜り抜けてきた主君が至急にと届けてきた書簡を役人からの圧力程度で後回しにできるほど、省烈は主君を軽んじてはいない。


「大司冦様ご本人以外には申し上げられない。火急且つ内密の用件です」

役人は溜息でも吐きそうな顔をして省烈を睨んだ。

「今大司冦様がなさっているのも火急且つ重大なことなのですよ」

「承知の上です」

大司冦自ら指揮を取って捕物に出掛けようとしているのだ。重大でない筈がない。

「それでもどうか、ほんの半刻、いや四半刻でもいい、お時間を頂きたい」

真剣な顔で言う省烈に、役人は根負けしたようだった。

「暫しお待ちください」

そう言って、奥へと入ってゆく。至鶯に伺いを立てに行ったのだろう。その背に頭を下げて、省烈は周囲を眺めた。

捕物の支度は秘密裏に進められているが、出動が迫った今、司冦府全体に緊張感が漂っていることは否めない。


――間に合うだろうか?

ふと過る不安を振り払い、背筋を伸ばす。いずれにせよ、この書簡を至鶯に届けることが彼に与えられた責務なのだ。


然程待たされることなく、省烈は大司冦のもとへ招き入れられた。執務室で待っていた至鶯は、普段の装束の上から革製の胸当てを身に付けている。自ら捕物に乗り出すのみならず、前線で指揮を執るつもりらしい。

省烈の姿を視界に入れた彼は、手甲の紐を締めながら口を開いた。


「時が無い。手短に願おう」

「希少な時を割いていただき、感謝しております」

省烈は恭しく一礼してから、膝をついて書簡を差し出した。

「これを」

至鶯の目が、書簡を一瞥する。

「それは?」

「是非とも今すぐ目をお通しいただきたく」

「それは何か、と訊いている」

色の無い声で、至鶯が繰り返す。返答によっては無視するつもりだろう。何しろ今回の捕物は国の中枢に関わる大事だ。

「この度の事件にも、関わりがあるかと」

ぴくり、と至鶯の手がわずかに反応する。常に平静な瞳が険を帯びた。

この捕物の詳細は、司冦府に保護されているに過ぎない省烈には知らされていない筈なのだ。緊迫する空気の中で、省烈は深々と頭を下げた。


「我が主の書簡です」


至鶯の手が止まった。

「……なに?」

彼の目がはっきりと驚愕の色に塗り変わるのを、省烈は初めて見た。いや、恐らくはこの国の誰も、これまで見たことのない情景に違いない。


「そなたの、主とは」

まさか、という声色で問いながら、至鶯が手を伸ばす。書簡を捧げ持ちながら、省烈は深く息を吐いた。

「この命尽きるまで、我が主は、鴻将軍お一人でございます」

至鶯の手が、彼らしくない性急さで書簡を奪い取った。封を引きちぎり、革紐で綴られた木簡を音を立てて広げる。常に静かな瞳が忙しなく動いて文面を辿ると、少しだけ見開かれてから閉じられた。


至鶯が読み終えた書簡を省烈に渡す。

「出立する。あなたも同行するといい」

言うなり、至鶯は歩き出した。省烈もその後を追う。

「司冦様、これは……」

「目を通したら処分を。何人の目にも触れぬよう」

省烈は頷き、歩きながら人目に触れぬよう素早く文面を追う。


「迅速に確保に向かう」

至鶯は既に部下達への指示を終え、支度を整えている。書簡の内容を一通り頭に入れた省烈も、至鶯の乗った車の脇についた。号令一下、司冦府の兵が動き出す。省烈は背筋を緊張させて前を見据えた。


主君からの書簡には、司冦府が把握している人物について、迅速に確保してほしいという旨の事が書かれていた。主君自身はそれが何者か詳しいことは知らないようだったが、その人物の確保に出遅れれば恐らく面倒なことになると示唆していた。今漸く群臣の意思が部分的にせよ纏まりつつある情勢の中に、それが投げ込まれれば大きな波紋を呼ぶと。


「司冦である!開門せよ!」

どうか間に合ってくれ、と祈る彼の前で、大夫雪氏の邸の門が開いた。


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