打つ手
あの事件から、もう一月近く経つことになる。
北上した蒼凌達は、もう国境近くに到達している筈だ。順調にいっているなら、今頃は既に「釣られた」碧軍が昏軍と戦闘に入っているだろう。
その隙に蒼凌達が逃げられればいいのだけれど、そうは問屋が下ろすまい。何とかして戦況をひっくり返せる決め手を作り出さないことには。
私はまだ思うように動けない身体に淡い焦燥を覚えつつ、檄琅のもふもふの毛並と戯れていた。
なにを暢気な、と言うなかれ。何しろ動けないのだから、目下の気晴らしはそれくらいしかないのだ。
おまけに檄琅の毛並は本当に驚くほど気持ちいい。
「哀のお腹といい勝負だ……」
私が檄琅の背中の毛に顔を埋めながら思わず呟いた言葉を聞いて、傍に居た漣瑛が首を傾げる。
「そういえば、姿を見ませんね。いつもいち早く情報をもたらしてくれるのに」
私は少し黙った。そう。これだけの事件が起こったにも関わらず、哀は一度も私達の前に現れていない。
「……事情があるんだろう」
便利な言葉で漣瑛の疑問を流し、私は脇に置いていた報告書を拾った。
予想された通りの昏の侵攻と、太子の追撃。北方では三つ巴の戦闘が始まったらしい。手勢の少ない蒼凌達が持ちこたえてくれることを祈るのみだ。
「都の連中から書簡だよ」
入口の簾を巻き上げた恵玲の言葉とともに、小さな影が走りこんできた。書簡を口にくわえた子狼だ。
「待て!」
勢いのままに私に飛びついてこようとしていた子狼がぴたりと止まる。
「おすわり!」
続く私の言葉に従って、ちょこんと腰を下ろす。
「よし、書簡を」
書簡を受け取ろうと手を差し出すと、掌にてしっと軽い感触。
何ともいえない沈黙が流れた。
「……鴻氏」
呆れ果てたような漣瑛の呼びかけが痛い。
私は空いた手で子狼の額を軽く小突いた。
「お手、とは言ってない」
「わう……」
すごすごと前足を引っ込めて書簡を私の掌に載せる子狼の頭を撫でてから、私は受け取った書簡を開いた。尉匡や範蔵達を都に向かわせてもう半月ほどだ。そろそろ連絡が来るころだとは思っていた。
「……何やってんだい、あんたら」
恵玲が胡乱げな目で私と子狼を見比べる。
「いや、つい」
「ついって何さ。大体このちびども、あたしの言うことは碌に聴かないくせに!」
不満げな恵玲が小言を言っても、子狼は知らん顔だ。何事も無かったように私の膝に顎をのせている。
「昔から動物には懐かれる質でね」
「そういう問題なのかい?こいつら犬扱いされるのを一番嫌うってのに」
ぶつぶつ言う恵玲をよそに、私は書簡を紐解いた。
報告には、私の指示を順調にこなし、目標を達成しつつあると書いてあった。さすがは尉匡だ。仕事が早い。
報告のほかに、付け加えられた情報もあった。それを見て、私の頭の中で一つ疑問が解ける。
「それ」が誰かはわからないが、報告によると司冦府は嗅ぎつけているようだ。ならばこちらも動きようはある。
「あいつら何だって?」
読み終えた書簡を漣瑛に渡す私に、恵玲が問いかける。私は手を伸ばして筆を取りながら答えた。
「順調だそうだ。そろそろ次の手配に移ろうと思う」
私は木簡を手に取り、筆に墨をつける。
さて、どう書き出したものか。やっぱり、最初は詫びの言葉かな。心配も迷惑もこれでもかというほどかけたわけだし。今度会ったら拳骨の一つや二つは覚悟しておかないといけないかもしれない。
「なあ、あんた」
恵玲がその場に座って頬杖を突きながら私に声をかける。
「何?女の子が胡坐をかくのはあまり感心しないよ」
「余計なお世話だ。そもそも男の格好してるあんたに言われたくないね!」
注意したら怒られた。相変わらず気が短い。
「落ち着きなさい、恵玲。男装するのとお行儀が悪いのは別の話よ」
さすがに恵玲を扱い慣れている檄琅が冷静に窘める。恵玲はふんと鼻を鳴らして座りなおした。
「そんなことはどうでもいい。あんた何を企んでるんだい?」
いきなり随分人聞きの悪い物言いをされて、私は困惑に眉を寄せた。
「企んでるなんて。まるで悪事を働いてるみたいじゃないか」
「あんたの考えがさっぱり読めないんだよ」
恵玲がむすっとした顔で言う。私は木簡に筆を滑らせ始めた。
「あんた、都の状況はわかってるんだよね。王は太子を厭い、群臣は迷い、恐らくは昏の息のかかった奴らが王の太子への不信を更に煽って碧の臣下を王派と太子派に二分して争わせようとしてる」
「勿論、把握しているよ」
一枚目の木簡に文字を書き終え、二枚目を手に取る。
「その状況で、あんたがしたことは対立を煽るだけじゃないのかい。そりゃあんたとしては太子の立場を向上させたいのはわかるけどさ」
私はぴたりと手を止めた。一度筆を置き、書きかけの木簡も置く。
「恵玲は、私が私情で家臣達に指示を出したと思うのか?」
都に戻った尉匡達には、狼の仲間を使者として主だった重臣達の説得を行って貰っている。それが順調だということは、今頃王の下には大量の諫言が届いているに違いない。
「そうは思わない。思わないからこそわからないのさ」
恵玲は不機嫌そうに言った。
「対立を煽って何の益があるのさ」
彼女の詰問を受けて、私は苦笑した。恵玲の認識には、一つ大きな誤りがある。
「対立は煽られないよ。寧ろ鎮静化した筈だ」
「は?」
情報だけ聞いて実際に碧の現状を見たことのない恵玲には、考えにくいのかも知れないけれど。
「考えて御覧、恵玲」
私はとん、と指で床を叩いた。
「仮にもそれなりに国に貢献してきた重臣を証拠不十分の状態で誰にも諮問せず殺し、自分の息子すら信じられずに過剰な兵力を差し向ける王に、忠誠を尽くせる人間がどれだけいる?」
誰もが、次は自分ではないかと怯える。王を信じられなくなる。
信じられない相手に、どこまで忠誠を尽くせるだろう。
「そして私は王を裏切れなんて一言も言っていない。ただ今回の太子に対する処置を考え直すよう、王に進言する、王の行動を止める、この一点に於いて団結を促したんだ。本当の忠臣ならそうする筈だ、と」
「でも、それでも国は割れる」
「普通はね」
王の権力にすり寄り、どこまでもその意志に迎合する者もいれば、太子亡き後の権力闘争を考えて打算から太子を亡き者にしようとする者もいるだろう。
「けれどこの場合、碧王の後継者が他に居ないということが大きい」
詠翠が無事であれば、群臣は太子派と詠翠派で割れることになっただろう。しかし詠翠は何者かに襲撃されて行方知れず。都の群臣たちの間では生存をほぼ絶望視されている。
「そもそも碧王は病弱で、実務をほぼ太子に任せていた。病弱で年老いた上に後継者もおらず、執務もこなせない王と、長年実務を取り仕切ってきた若い太子。さて、どちらに付くのが正解か」
その上、碧王の性格にも大きな理由がある。
「碧王は今、猜疑心の塊になっている筈だ。加えて、元来が病弱で外出を好まない」
そういう性格から私が推測した王の行動がほぼ正しいことを、尉匡達の報告は教えてくれた。
「碧王は引きこもる。どうやら朝会に顔を出すことすら稀になっているようだ」
恵玲は唖然として私の説明を聞いていた。それから、首を傾げる。
「それって……碧王には全く人望が無かったように聞こえるけど」
「いや、人望はあったさ。若い頃は英主だったそうだし」
ただ、近年は実務を太子に任せていた分、握っている実権は実はあまり大きくなかったのではないかと思う。それが、猜疑心に蝕まれてからの行動で人望を失い、太子という実権の代行者を失ったことで現状のようになっているのだ。
「でも、それってさ……」
腕を組んだ恵玲が、眉を寄せる。
「太子が実権を握りながら一応権威を持った傀儡として表に立ててただけのように聞こえるんだけど」
「まさかそんな……」
笑い飛ばしかけて、私はちょっと硬直した。
あれ、おかしいな、否定できない気がしてきた。
「穿った見方をすればそうとも取れますが、負担を肩代わりしつつ王の顔を立てておられたのでしょう。野心があるなら、それこそ実権を盾に簒奪することも不可能ではなかったでしょうから」
漣瑛ありがとう!
でも蒼凌の性格を知っていると、なんだか王に気を使ったというよりは、単に国が欲しいという野心が無かったからそのままにしておいただけのような気がしなくもないけど。
「ふうん。で、群臣をそうして団結させて、あんたはどうしようってんだい」
団結させるだけで、昏に付け込まれる隙は減らせる。けれど王が考えを変えない限り、隙を完全になくすことはできない。それがわかっているから恵玲はこう言っているのだろう。
その疑問に、私は端的に答えた。
「炙り出し」
この状況下で、まだ反太子に固執し、王の猜疑心を煽って他の重臣達にも反太子の動きを広めようとする者がいれば、それは昏の回し者か本物の馬鹿だ。
「昏の回し者を一掃する為にかい」
「そう。それに、もう一つ意味ができたようだ」
「もう一つ?」
首を傾げる恵玲に頷いて見せた私は、漣瑛に目を向けた。漣瑛は尉匡からの書簡を手に、難しい顔をしている。
「……この書簡にある人物が、出てくると」
私の視線に気づいた漣瑛が、呟くように言う。
「その通り」
この状況下で動かない筈がない。反太子の動きが完全に封殺されてしまう前に手を打たないと、彼らが表に出てくる機会は無くなってしまうのだから。
「しかし、まさかこんなことが……」
「信じられないか?私は疑問が氷解したけれど」
これまで解けなかった疑問。誰が、何の為に、詠翠を襲撃したのか。
「その一派だけじゃない。恐らく、私を陥れた人間も動く」
少しだけ寂しさを感じながら、私は言った。それから、筆を取り上げて書簡の続きを書く。
「これを都にいる私の家宰に届けてくれ」
省烈が司冦府に保護されていることは、恵玲の配下の狼達が教えてくれた。省烈を救ってくれたことに関しては至鶯に感謝する他ないが、司冦府で保護してくれているという事実が今回は大きな利点になる。
「今打てる手は打ったけれど……司冦は間に合うかな」
書簡を狼に渡しながら、私は小さく呟いた。




