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逃避行

南方を回って西へ抜けようとした鴻家の家臣達の旅路は、難航していた。

馬車の中に座したまま、尉匡は頭の中で日数を計算する。


現在、彼らは馬車一乗と馬三頭を移動手段としていた。出発時にはもう二乗馬車を連れていたが、途中の邑で三人の使用人達ともども置いてきた。

使用人達は顔を知られていない上に公的な家臣というわけではないので、追われる可能性は低い。都さえ脱してしまえば、尉匡達重臣の巻き添えを食って追われる必要など無いのだ。

馬車に積んでいた荷も、大半は彼らと共に残してきた。この先馬車を連ねていては追っ手を撒くのが難しい。


必要最低限の食料を積んだだけで、たった一乗の馬車はほぼいっぱいになってしまう。あとは省烈の妻子と尉匡を載せるのが精々であった。


その後、重臣達は南を目指したが、街道の警戒が思ったより厳しく、しばしば検問を避けて迂回することを余儀なくされる。

数日もすれば、出発時に十分な準備が出来なかったこともあって彼らの前に避けられない問題が立ちふさがった。食料の不足である。


「尉匡様」

尉匡とともに馬車に乗っている省烈の妻が、思いつめたような顔をして二人の子を抱き寄せた。

「どうか、私達を下ろしてくださいませ。三人減れば、少しは足しになるでしょう」

「馬鹿を言ってはいけません」

尉匡は敢えて厳しい口調で言った。

「あなた方を見捨てるようなことをすれば、私達は省烈殿に合わせる顔がありません」

「でも」

「今、範蔵が邑に入って買い出しができないか様子を見に行っています。心配いりませんよ」

安心させるようにそう言いながらも、事態が楽観を許さないことを、尉匡は承知していた。


「駄目だ」

果たして、戻ってきた範蔵は首を横に振る。

「城門に検問を敷いていやがる。手配が回ってると思った方がいい」

「やはり、そうですか」

さしもの尉匡も、眉を寄せ瞑目する。


「尉匡様」

省烈の二人の子どものうち、年長の斤が口を挟んだ。

「母上の言う通り、我々を下ろしてください。私達が足を引っ張って皆様を危険に晒すようなことは、父も望まないと思います」

弟を抱き締めながら、毅然と言うその姿に、尉匡は思わず言葉を詰まらせた。御者台から顔をのぞかせていた嶺琥も目を潤ませる。

「尉匡、様。僕の顔を知っているものはあまりいない筈です。一か八か、僕が行ってみます」

「嶺琥……」

嶺琥の申し出に、尉匡は考え込む。確かに、平時ほとんど厩から出てこない嶺琥を見知っている者は多くない。検問を掻い潜れる可能性が一番高いのは彼だろう。

しかし、万一露見した場合、戦闘力を持たない彼では為す術もなく捕らえられてしまう。危険な賭けであった。


「尉匡殿!」

沈黙の中に、衙桐の切迫した叫びが響く。

「邑の兵がこちらへ来ます!」

「ちっ、まずったか」

一番に反応したのは範蔵だった。先程偵察に出た際に見咎められたのかもしれない。

「嶺琥、すぐに馬車を出せ!衙の兄弟が先導しろ。俺が殿(しんがり)をやる」

嶺琥が鞭を振るって馬車を急発進させる。衙の兄弟が馬車を挟むように走り出した。範蔵もその後ろについて馬を走らせる。


「待て――」

追っ手の声が届いた時、範蔵は馬首を返した。兵士の進路に立ちふさがる。

「範蔵殿!」

範蔵が足を止めたことに気付いた衙楠が叫ぶ。範蔵は手を振った。

「お前らは馬車の護衛に専念しろ。省烈の妻子に怪我でもさせたらただじゃおかないからな」


一人、追ってくる兵士達に正対する。

怒号が聞こえた。矢を弓に番える兵も居る。


思えば随分遠くへ来た、と、緊迫した状況に似合わぬ回顧が範蔵の頭に過る。

学も無く身寄りも無く、ずっと一兵士のまま終わる筈だった彼が、如何なる運命の悪戯か国内で三指に入る将軍の直臣となり、仲間達と騒いだり笑ったりする貴重な日々を過ごすことができた。


十分じゃないか、と笑みが漏れる。数奇な人生を、十分に楽しんだ。

いくら鴻宵の直臣として鍛えられたといっても、押し寄せてくる兵士達を相手に勝てるなどとは、範蔵は思っていない。

だが今は、時間が稼げればいいのだ。

少しでも遠くへ、仲間達が逃げるまでの時間が。


「悪いな、鴻宵」

今は亡き主君に、小さく詫びる。

彼の主君が最も嫌い、唯一絶対に許さない行為。

「後でいくらでも殴られてやるから、今回は勘弁しろ」

敵兵はもう間近に迫っている。すぐ傍らの樹の幹に矢が突き立った。

「あいつらの逃げる時間を稼げるんだ。犬死じゃないんだからよ」


苦笑交じりに弁解を口にして、彼は武器を構えた。

刃先が、振り下ろされた刃を受け止める。正面からの攻撃を受け流し、側面に回った敵に柄を叩きこんだ。

乱戦が始まる。

その中で力尽きるまで戦い抜いて、そしていずれ無数の白刃の下に骸を晒す。

それが、範蔵の最期となる。


筈だった。


乱戦が始まって間もなく、どこからともなく奇妙な集団が乱入してこなければ。




「邪魔だー」

どこか間延びした掛け声とともに、碧の騎兵達が算を乱す。馬が怯えて暴れ始めたのである。

落馬する者が続出する中に、それは突進してきた。


「お、狼!?」


碧兵が叫んだように、それは三頭の狼だった。普通の狼よりもやや大きい。軽々と馬の喉元を噛み切れるだけの体格と敏捷性を持った灰色の狼達は、刹那の間に碧兵の集団を混乱の極みに叩き込んだ。


「ひ、退け!」

こうなると、もはや捕り物どころではない。

辺境の邑に詰めている役所の兵など、中央の政争に関連するあれこれよりも己の命が惜しいのが実際のところである。退却の指示を聞くや否や、兵士達は蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。


後に残ったのは、乱入してきた割に碧兵が退いてゆくとおとなしくなった狼達と、事態がよく呑み込めないまま呆気にとられている範蔵であった。

一応弁解しておくと、範蔵とて己が狼に食われる危険を認識していなかったわけではない。しかし危険な相手ならばなおのこと、仲間達が進んだこの道の先へ通すわけにはいかなかったのである。

それに気になるのは、狼たちの乱入に先駆けて聞こえた、あの掛け声だ。

あれは間違いなく人間の言葉だった。まさか偶然あの瞬間に聞こえた無関係の声というわけもあるまい。となれば、声の主は狼を嗾けたのだろうか。一体、何のために。


ぐるぐると思考を巡らす範蔵の前に、木の陰からひょっこりと人影が出てきた。露わになった人影は、小柄な青年の姿をしている。

「やあ、どうも。やっと見つけたと思ったら役人に追われてるんだから、焦っちゃったよ」

場違いに明るい笑顔で言われて、範蔵は眉を寄せた。

「誰だお前」

「だよね。でも名乗るなら一度に済ませたいな。まずはあんたの仲間を追おう」

そう言った青年は、ひょいと狼の背に跨った。手綱も無いのにどう意思を疎通しているのか、狼を前進させ範蔵に転身を促す。

しかし範蔵は動かなかった。動けるはずがない。どこの誰とも知れない相手を、仲間達のもとへ誘導できるはずが無かった。


「お前達が何者かもわからないのにはいそうですかということを聞くわけないだろ」

身構える範蔵を見て、青年は肩を竦めると懐から何かを取り出して投げ渡してきた。

「じゃあとりあえずそれを持って仲間のところへ行きなよ。それを見てから俺達を信じるかどうか決めて返事をしに来い。ここで待ってるから」

反射的に受け取ったのは、小さな袋だった。口の封や感触からして、中身は木簡に書かれた書状の類だろう。


寸時躊躇った範蔵は、言葉通りに狼の背から下りて狼達と戯れ始めた青年を見て踵を返した。


元来、考えるのは範蔵の役割ではないのだ。

判断を下すのに最も適任の人物のもとへ、これを届けなければなるまい。


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