零れたもの
明かされた裏事情に私が衝撃を受けていると、不意に檄琅の耳がぴくりと動いた。同時に檄渓の瞳が少しだけ横に走る。
「漠埜か」
「おう」
檄渓の声に返答しながら戸口の筵を持ち上げて入ってきたのは、四十がらみの大柄な男だった。
「お前そろそろ戻らなくていいのか?あまり空けるとまずいんだろう」
「ああ、そうだね。そろそろ時間切れかな」
高い位置に設けられた明り取りの窓にちらりと目をやって、檄渓が頷く。それから私に目を戻して、口角を上げた。
「それじゃ、俺はこの辺りで。今翠は混乱の最中ですからね。仮とはいえ右軍の指揮官があまり長く留守にするわけにもいきません」
右軍の指揮官。つまり、私が抜けた穴は、そのまま補佐官だった檄渓が埋めているということだ。それは、現在他に適任者がいない故の暫定的な処置なのか、それとも。
「まあ、今は難しいことは考えずにゆっくり休むことです。一日も早く、戦えるようにね」
そう告げて、檄渓は足早に去って行った。漠埜という男はその背中を見送ると、もう一度こちらに目を戻す。
「で、そいつの目が覚めたんなら、従者をここへ入れてもいいか?将軍に会わせろって聞かねえんだよ、優男のくせに強情な奴だ」
漠埜が呆れ交じりに言う。私は思わず頭を持ち上げた。
「漣瑛も無事なのか」
「ちょっと、動いちゃ駄目だってば」
檄琅の尻尾に軽く叩かれる。
今回は起き上がろうとはしていないよ。
「仕方ないわね、漠埜、一度連れてきて。見ての通り、この子も心配性みたい」
「ああわかった、この主君にしてあの従者ありってか。おとなしくしてろ、すぐ会わせてやる」
そう言って背を向けようとした漠埜は、ふと思い出したようにこちらを振り向いて言った。
「但し、上着を着た方がいいと思うぞ。気にならないならいいが」
え。
言われて気づいてみれば、私の上半身を隠しているのはいつもの晒と、腹部を覆う包帯だけだった。檄渓や漠埜の態度が普通すぎて気づかなかった。
そういうことは是非、檄渓を呼ぶ前に教えてくれないかな、檄琅。
少しだけ気まずくなりながら檄琅に上着をかぶせて貰った私は、何とか四苦八苦しながらそれに袖を通し、前を掻き合わせて留め金を止めた。
「もう一人世話係が要るわね。でも私以外に人型が取れるのは殆ど男だし……」
檄琅がぶつぶつ言いながら、体を丸めて私の体勢を居心地がいいように整えてくれる。それと同時に、聞きなれた声が律儀に「失礼します」と断るのが聞こえて、不覚にも目尻に熱いものが滲みそうになった。
死にかけて、追われて、碧で築いたすべてを失って、それでもここに残ってくれている、日常の欠片。
筵を持ち上げて入ってきた漣瑛は、私と目が合うとほっとしたように眉を下げ、即座に駆け寄ってきた。
「お加減はいかがですか、将軍」
「漣瑛……」
あまりにもいつも通りの彼の様子に、思わず笑みが漏れる。
そして、するりと、無意識に、弱音まで零れてしまった。
「もう、将軍じゃない」
漣瑛の褐色の瞳が、はっと私を見る。私は笑った。笑みに自嘲が混じってしまったのは仕方がない。
「もう将軍ではない。お前の主君ですらない。ただのお尋ね者だ」
そうだ。私の碧での立場は崩壊した。漣瑛はもう、私の従者でいる必要はないのだ。
無事が確認できて、よかった。
「お前の傷はもういいのか。だったら私のもとは離れた方がいい。満足な退職金も用意してやれず済まないが、私の装身具にはそれなりの価値はあるはずだ。追っ手がかからないうちに家族とともに逃げろ」
「は?あの、将軍?」
「だから、もう将軍ではないんだ、私は」
このまま私についてきていたら、漣瑛もお尋ね者のままだ。最悪、碧政府から家族に危害が加えられる可能性も有り得る。今のうちに家族とともに逃げてしまうに越したことは無い。
私は普段から媒体にしやすい珠玉の類を多めに身に着けているから、比較的換金しやすい装身具が多い筈だ。漣氏一家の路銀くらいは捻出できる。
そういったことを、私は漣瑛に言い含めた。戸惑いを露わにした漣瑛と、それに檄琅からも、何度か制止の声がかかった気がするが、無視する。
とにかく巻き込まないように、急いで帰らせないと、と、そればかりが頭にあった。
「失礼するよ」
そんな時だった。
何とも剣呑な声が響き、一人の少女が部屋に入ってきたのは。
小柄なその少女は、声と同様に険しい表情をして部屋に踏み込んでくると、真っ直ぐに私の目の前に来た。
それから、私の目を真っ直ぐに見据え、一言。
「失礼」
「え?」
訊き返すよりも、彼女の平手の方が速かった。
ぱしん、と小気味よい音と同時に私の頬に衝撃が走り、一拍遅れてじわじわと痛みが湧いてくる。
「おい!」
「ちょっと、恵玲!?」
漣瑛と檄琅が驚いて声を上げるが、少女はぶれなかった。呆然としている私に、びしっと指を突きつける。
「馬鹿かい、あんたは!ここまで命がけでついてきた従者が、今更我が身かわいさにのこのこ帰郷するとでも思ってんのかい!人の上に立つなら、下の者を巻き込む覚悟くらいきっちりしときなってんだ!」
返す言葉も無かった。漣瑛の方を見ると、困ったような微笑を見せられる。
ああ、そうか。
私はまた、怯えてしまっていたんだ。
「……済まない、漣瑛。少し、混乱していたようだ」
「いえ、とんでもない。ただ、一つだけ」
漣瑛は少し躊躇ってから、そっと私の手を取った。
「あなたが将軍でなくなっても、あなたが私を首にしない限り、あなたが私の主君であることには変わりありません」
まだ傷の残る顔で、漣瑛は珍しく優しい笑みを浮かべた。その暖かさに、うっかり涙が出そうになる。
「暫く、給金は払えないぞ」
「後払いで構いません」
漣瑛はそう言うと、いつもの真面目くさった顔に戻った。
「家族の事はご心配なく。当家の兄はどうしようもない飲んだくれですが、いざという時には頼りになる家族思いの長男です」
「……そうだな」
私はふっと笑った。それから、黙って私達のやり取りを見守っていた少女に視線を向ける。
「済まなかった。ありがとう、目を覚ましてくれて」
「ふん、わかればいいのさ」
腕を組んで威勢よく言った少女の頭にはしかし、次の瞬間拳骨が落下していた。
「いったあ!何すんのさ、漠埜!」
「何すんのさじゃない、お前が何してんだ。怪我人の顔面引っ叩く奴があるか」
いや、まあ、確かにびっくりしたけど。でもあの平手より、今の拳骨の方がよほど痛そうだ。
「だって見てらんないじゃないか、あんな風にうじうじされたら!あの函朔が助けようとした奴だっていうからどんなのかと思えば!」
「函朔?」
予想外の名前が出たので、私は思わず復唱した。漠埜が振り向いて、一つ頷く。
「おう。死にかけて倒れてたのを拾ってきてな。暫くここで世話してたことがある」
「こいつは昔から何かと拾い癖があるのさ」
一言多い少女はまた拳骨を食らいそうになって、さっと檄琅の後ろに隠れた。
「そういえば」
漠埜がくるりと視線を巡らし、漣瑛と目を合わせた。
「うちのちびがお前とよく似た酔っ払いを拾ってきたこともあったな」
「……物凄く思い当たる節があるんだが、考えないことにしておく」
漣瑛は斜め下に目を逸らし、低い声でそう言った。
うん、それは高確率で漣璋だな。
「まあなんにせよ」
檄琅の背中からひょいと顔を出した少女が、私を見下ろしながら言う。
「将軍さん……じゃあないんだっけ、じゃあもう鴻宵でいいだろ、あんたはとっとと傷を治すことだね。あまりのんびりしてると碧は潰れちまうよ」
「恵玲」
檄琅が名を呼んで窘めるが、恵玲は聞かない。私も彼女から目をそらさず、その言葉を受け止めた。
「静養中、知りたいことがあれば言いな。あたしが調べてきてやる。ここの頭領は銀の兄妹だ。あいつがあんたの護衛を降りるまでは、あたしらはあんたの味方だと思っていい」
銀の兄妹、というのは聞き覚えがないが、恐らくは白銀の毛並を持つ檄渓、檄琅の兄妹(或いは姉弟か)のことだろう。ありがたい申し出には違いないので、了承を示しておく。それに満足したらしく立ち去りかけた恵玲を、檄琅が呼び止めた。
「恵玲、あんたもこの人のお世話手伝ってちょうだいな。私のほかに人型を取れる女の子っていないのよ」
檄琅が申し出ると、恵玲はちょっと嫌そうな顔をしたが、はっきりと頷いた。
「わかったよ。寝台役を漠埜に代わらせるわけにもいかないしね」
「俺は別にかまわんぞ」
「従者に刺されるよ」
恵玲と漠埜が軽口の応酬を始めるのを見ながら、私はこれから打つべき手について考えていた。
檄渓の言っていた通り、碧の朝廷は今混乱の最中に違いない。
王が独断で卿の一人を誅殺した。私の容疑である絽涯二氏の殺害についてどれほど調べられているのかはわからないが、今回の件で王の疑いを決定的にした訴え――私が朱宿であるということ――は、あまりにも時宜を得すぎていた。
誰かが意図的に私を陥れたのだとすれば、昏が一枚噛んでいるのは確実だ。目的は私の排除か、それとも太子の追い落としまで考えていたのか。いずれにせよ碧の内乱を助長し、仕掛けてくるはずだ。
「将軍」
「……その呼び方は何とかしてくれ」
漣瑛に声をかけられて、そう指摘すると、彼は戸惑ったように眉を寄せた。
「……鴻氏」
「……まあ、いいか」
名前で呼び捨てにしてもらう方が気が楽だけれど、まだ私を主君として扱っているこの生真面目な男には無理な相談だろう。不毛な言い合いになることが目に見えている話題は避けて、私は先を促した。
「今は無理をして何かを考えるべき時ではありません。少しお休みになった方が良いでしょう」
漣瑛はそう言って、私の目元に掌を載せた。
「常に近くに控えております。何かあれば、すぐにお呼びください」
自身も傷が完治していないだろうに、律儀な従者はどこまでも献身的だ。
ありがとう、と呟くように口にしながら、私は引きずられるように眠りの中に落ちて行った。




