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水鏡五国志[第三部 朧月の巻]  作者: 子志
章之壱 闘争
30/71

そして——

 疾駆する光が、山林を飛び出して地面を踏みしめる。

「包囲されてるわよ。どうするの」

「左軍の側へ回ろう」

 僅かに速度を緩めたそれは、一頭の大きな狼であった。白銀の艶やかな毛並が、その姿を一筋の光のように見せていたのである。

 その背に、一つの人影があった。簡単な鎧の上に大きな布を巻きつけるように纏ったその人物は、首元の布地に手をかけ、半ば顔を隠すように引き上げる。そうしながら、駆け続ける狼に声をかけた。

「左軍のど真ん中を一息に突っ切れるか」

「お安いご用よ。落ちないでよ!」

 女性の鋭い声と共に、狼は一際高く跳躍した。



 碧の左軍にいた兵士は、突如として背後から飛び出してきた何かに驚いて隊形を崩した。

「な、何だ!?」

「え、なに、何があった?」

 驚き騒ぐ彼らの頭上を、白銀の影が飛び越える。身軽に体を捻って着地したそれを目にした兵士が叫んだ。

「狼だ!銀色の……」

「銀狼!?絶滅したんじゃなかったのか」

 立ち騒ぐ兵士達には構わず、狼は更に跳躍を続けて林の方へと進んでいった。



 所かわって、前線にほど近い位置である。

 背後の兵士達の混乱に気付いた将は、訝しげに振り向いた。この兵を率いているのは左軍の佐将、騰藍である。叙寧はもともと気の進まない出兵である所へ持って来て後方攪乱という裏方に主将が出張ることも無いと、本陣に留まっている。できることなら騰藍もこの場は部下に任せて引っ込みたいくらいであった。

「どうした」

「はっ、混乱しているようで状況がよく……」

 兵士に問うても、要領を得ない。

「見て来い」

「はっ」


「騰将軍!」

 後方に使いを出すのと入れ替わるようにして、前方から早馬が駆け込んできた。

「太子の手勢に感づかれたようです。こちらへ来ます!」

「ちっ、面倒な……」

 騰藍は舌打ちしたくなった。

「迎撃態勢を取れ!」

 彼が叫ぶのとほぼ時を同じくして、前方の林から一隊の騎馬が飛び出してきた。先陣の兵士達が身構え、衝突に備える。そんな、緊迫した状況の中。


「その戦、待った!」

 叫び声が両者を制止する。同時に、騰藍の頭上を軽々と飛び越えた影が両軍の間に着地した。しなやかに体を捻り、くるりとこちらへ向き直る。それは、白銀の毛並をした巨大な狼だった。

その背に、人を乗せている。口を開いたのは、その人物だった。


「碧軍に問う。今、お前達は何をすべきか」

「なんだと……?」

 騰藍は困惑した。一体これは何者で、何を意図してこの場に割って入ってきたのか。

「ここは碧の北辺、そして昏軍の目の前だ。外患が目の前にあるというのに、自国の太子に戈矛を向けている暇があるのか」

 狼の背から身軽に飛び降り、その場に仁王立ちになった人物は呆れたように腕を組んだ。太子側の軍勢も困惑を露わにしているが、ひとまず馬を止めて様子を窺っているようだ。


「……我らは王命に従っているのだ。どこの馬の骨とも知れぬ者が口を出すことではない」

「いいや、口出しさせていただこう」

 その人物は高らかに言った。

「敢えて断言する。このまま大勢から目を逸らし続ければ、碧は滅ぶ」

「無礼な!」

 騰藍が怒鳴り、碧の兵士達が一斉に武器を構えるが、相手は怯まない。

「紅の滅びを思い出せ。白の過ちを考えてみろ。碧の辿っている道は、彼らと重なりつつあるぞ」

「何を……」

「叙将軍もわかっていない筈はないと思うがな。気が進まないからこそ、この場を部下に任せて自分は引っ込んでおられるのだろう」

 痛いところを衝かれて、騰藍は一瞬言葉に詰まった。

「叙将軍に伝えるがいい。今、この時が、大きな分岐点だ。選択を誤ればこのまま昏に押し潰されるぞ」

「貴様、いったい……」

 騰藍にはわからなくなった。この人物の言うことは、概ね正しい。それが理解できてしまうからこそ、困惑は深い。一体何者が、大軍を前に単身立ちはだかる危険を冒して、この国の将来を語るというのか?


 騰藍は漸く、その人物を詳しく観察してみる気になった。そうして視線を動かして、一驚する。その人物は、簡素な鎧の上に大きな布を巻きつけるように纏い、砂埃を避けるためであろうか、首元に巻いた部分を引き上げて顔の半ばを覆っている。その布が体の大半を隠している為体格はよくわからないが、随分と小柄だ。身じろぐたびにちらちらと金属の光が見えることから鎧を身に着けているらしいが、肩幅も随分と華奢だ。


「いったい、何者だ」

 困惑した騰藍が正面から誰何すると、その人物は軽く目を細めた。

「何者、とは冷たい物言いだな」

 顔を覆う布に、手をかける。

「もう私の顔を忘れたのか、騰将軍?」


 布が引き下ろされた時、騰藍は思わず絶句した。

「な、な……」

「もう一度、忠告するぞ」

 その人物は、高らかに言った。

「今すぐ馬鹿げた争いをやめて昏軍に立ち向かえ」

「鴻宵――!?」

 騰藍の叫びを、当人は片耳で聞き流した。

「時が無い。早く叙将軍と話をしてくることだ」

「し、死んだはずでは……いや」

 驚愕を収めた騰藍が、剣呑な目つきになって腰の剣を抜く。

「王命により誅殺された者が生きていてはならん。討て――」

 彼の号令に従って、左軍が動く。それに呼応するように、太子の手勢も動こうとした。独り当の鴻宵のみが、些かも動揺せずに左軍の後方を指差す。


「こちらに集中している暇があるのか?」

 振り向いた騰藍は、左軍の後方から襲い掛かる狼の群れを目にした。




 背後から奇襲を受けた左軍が算を乱すのを尻目に、鴻宵は林に馬を立てたまま呆然と事態を見ていた騎馬隊を顧みた。

「鴻宵……」

 騎馬隊を率いていた蒼凌が、呟くように彼女の名を呼ぶ。様々な感情が渦巻き、複雑に混混じり合った結果、却って平坦になってしまった、そんな声音だった。

 鴻宵はにこりと笑う。


「さあ、始めようか」

 白銀の狼と共に歩み寄りながら、彼女は言った。

「私達は、漸く始まりの地点に立ったに過ぎないのだから」


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