覇姫の逆鱗
宗伯府の執務室にて。
紀春覇は王命に従って、宗伯の職務を行いつつ待機していた。
扉の外には衛兵が控えている。彼女を守る為ではない。見張る為である。
それを理解している春覇は、敢えて個人の執務室ではなく、部下達も働いている宗伯府全体の執務室に居ることを選んだ。逃走の意思の無いことを明示する為である。
現状、自分にできる事は無い。太子も動けない今、頼みの綱は彼らに同情的な詠翠と、未だ拘束を受けていない鴻宵だ。
そう割り切っているつもりでも、時に歯痒さに耐えきれなくなりそうだった。
そんな時、章軌はいつも静かに彼女の肩に手を置く。それだけで、春覇は冷静な自分を取り戻すことができた。
「暦監、次の祭祀の――」
やる方無い思いを抑えて、春覇が職務に集中しようとした時。
神殿が、鳴動した。
「なん――」
かつてない異変に宗伯府の者達が立ち騒ぎ、春覇も立ち上がる。
「落ち着け!暦監、私は動けない。代わりに様子を……」
「それには及ばない」
春覇の指示を遮って、温度の無い声が響く。はっと顔を上げた春覇の前に、燐光が蟠り、砕けた。
宗伯府の役人達が、或いは目を見開いたまま硬直し、或いはへたり込んで慌てて平伏する。
彼らの祀るべき神、青龍がそこに居た。人の姿を取り、中空に立っている。
「青龍……」
「何が起こったか教えよう、大宗伯紀春覇よ」
青龍が口を開く。春覇はさっと片膝をつき、託宣を聞く姿勢を取った。
「この国は過ちを犯した。俺はこの国の加護を放棄する」
「なっ……」
役人達が騒ぎかけるのを制して、春覇が青龍に理由を問う。しかし青龍は静かに首を振るだけだった。
「土地の守護は続ける。民を傷つけるのはあいつの本意ではないからな」
青龍は半ば一方的にそう告げると、春覇に背を向けた。温厚な彼のぞんざいな所作に、抑えきれない激情が覗いていることを知る者は少ない。
「朱雀は怒るだろう。白虎もこの国を離れる。……この国に、もはや神の加護は無い」
そう言い残して、青龍は姿を消した。春覇は半ば呆然と、彼の言ったことを反芻する。
この国の過ち。
一体、何が起こったのか。
宗伯府の驚惑の冷めやらぬ間に、次の来客が扉を叩いた。
「覇姫様」
武器を携えた衛兵が数人、隊長らしき武人に率いられて入ってくる。
「王命にございます。東宮にお移り願いたい」
「……わかった」
頷いた春覇は、暦監に目礼して後を託してから、衛兵の長に申し出た。
「ただ、つい先程神殿に異常があった。深刻な事態なので、前宗伯である鴻将軍に処置をお願いしたいのだが」
春覇の申し出に対する衛兵の反応は、彼女の想像を絶するものだった。
鼻で笑ったのである。
「生憎、それは叶いませんな」
さも愉快そうに、その男は言った。
「何しろ鴻将軍、否、鴻宵は、絽涯二氏殺害の罪により既に誅殺されておるのだから」
春覇は耳を疑った。
普段冷静な彼女には珍しく、頭の中が真っ白になる。
「誅、殺……?」
「いかにも。妻である覇姫様にとっては、お気の毒でしたな」
嫌味ったらしく言い放ち、にやにやと笑っていた衛兵の長は、次の瞬間横ざまに吹き飛んでいた。
「春覇!」
章軌が即座に春覇の腕を掴んで二撃目を止める。春覇は拳を振り上げたまま、肩を震わせていた。
「ふざけるな!」
それは春覇が感情のままに発した、その場の誰もが聞いたこともない悲痛な声だった。
「あやつが何を望んで戦い続けてきたか、貴様は知っているのか!どんな思いで、どれほどの無茶をして……!」
どんな難局も乗り越えて、生き残ってきたのに。
「それを……殺したというのか。鴻宵に救われてきた、この国が……」
春覇は理解した。
青龍の言っていた、この国の過ちを。
朱雀を救い、白虎の要請に応えた鴻宵を殺したとあれば、守護神達が離れるのも当然である。
春覇自身、絶望したくなった。この国は、どこまで堕ちてゆくのか。
「っ……いかに覇姫様といえど、近衛への攻撃は謀反と見なしますぞ!」
春覇に殴り飛ばされた衛兵の長が怒鳴る。なおも怒りの冷めない様子の春覇に、章軌がそっと囁いた。
「落ち着け。今感情に飲まれればあちらの思う壺だ。東宮には蒼凌が居る。合流しておいた方が良い」
春覇は拳を下げ、力無く頷いた。そのまま、衛兵達に囲まれて宗伯府を後にする。
後に残された暦監は、慌てて役人の一人の背中を押した。
「大変なことになった……将軍のお屋敷へお知らせするのじゃ。急げ!」