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水鏡五国志[第三部 朧月の巻]  作者: 子志
章之壱 闘争
29/71

朱雀玉

 それから暫しの日にちを経て、朱雀玉を携えた数人の兵士が右軍の陣営に辿り着いた。彼らに幕舎を与えて休息を勧めた檄渓は、襄斉と汪帛しかいない幕舎の中で肩を竦めた。

「まさかあんなものまで持って来るとは思わなかったね」

「さすがにあれを使われては……」

 襄斉と汪帛が顔を見合わせる。朱雀玉は本来、妖怪対策用のものである。それを人間相手に使おうというのだから、火力過剰なのは間違いない。

 そうでなくても、数百の兵に対し二万の兵で臨むという異様な状況なのだ。覇姫は天才と呼ばれる方士であるとはいえ、人間である。狐狼達も、五百年以上前の万全な状態ならばいざ知らず、今となっては方術も使えなければ爪も牙も無く、やや身体能力や霊力に秀でているだけで人間と大差ない。それに対してこの扱いである。さすがに嫌気もさしてこようというものだ。


「そうだね。さすがにあの人でも、これは死ぬかな」

 何とも軽い口調で言い放って、檄渓は虚空に視線を流した。

「早くしないと、間に合わなくなっちゃいますよ……」

 小さな呟きは、どこへ届けられることも無く大気中に霧散した。




 衝突する昏軍と碧軍の間を縫うようにして、僅かな手勢しか持たない蒼凌達はしかし、未だ生き延びていた。

「林に入れ!弓!」

 戦況を見て指示を出しながら、蒼凌も疲労が滲むのを自覚せざるを得ない。

「一隊、こちらへ直進してきます!」

 息つく間もなく次々と兵士達からの報告が舞い込んでくる。

「私が」

 春覇が前に出て、突出してきた碧兵の一隊を引き受けた。彼女の顔にも、疲労の色が出ている。その背中を支えるように、章軌が寄り添っていた。

「きりの無い……しかし何だ、あの一隊は」

 舌打ちを零した蒼凌は目を凝らした。急に突出してきた一隊は右軍の中から出てきたが、旗幟を見るにどうも近衛兵のようだ。彼らは少数で隊列を組んだまま、こちらに突撃をかけるでもなく、春覇が出てきたのを見ると様子を窺うように速度を落とす。どっちつかずの妙な動きだ。


 それは、直感だった。嫌な予感がする。


「春覇!戻れ!」

 咄嗟に、蒼凌は叫んでいた。それとほぼ同時に、異変は起こった。


 碧軍の中から、突如として炎が立ち上る。それは見る間に一羽の鳥の形となって、猛然と春覇に向かって飛び出した。春覇が展開していた風と水の防壁が、炎の鳥に触れるや否や吹き払われ、蒸発していく。

「な……」

 息を呑む間もなかった。瞬きの間に春覇の眼前に迫った炎の鳥が、その鋭い嘴で春覇の胸を貫こうとする。


 春覇が感じたのは、衝撃だった。

 乗っていた馬ごと横ざまに弾かれて、驚いて棹立ちになった馬から振り落とされる。


「つ……」

 即座に起き上がった春覇はしかし、そのまま動きを止めた。見開いた目に映る光景が、信じられない。いや、信じたくなかったのかもしれない。


 彼女が見たのは、背中だった。いつも彼女の側にあって、普段は後ろに控えているのに、有事の際には彼女の前に立って彼女を守ってくれる、広い背中だ。その背中は今もまた、彼女の前に馬を立てて彼女を守っていた。

 その向こうに、炎が見える。炎は翼の形をして、もがくように羽ばたいていた。羽ばたきの度に火の粉が散って、いつも通りの青い着物の上に炎を広げてゆく。炎の鳥を形づくる炎精霊達が、懸命に留まろうとするものの果たせず、次々に悲鳴を上げて逃げ散ってゆく。それに従って、急速に炎の鳥はその形を崩していった。やがてそれが完全に消えた時、漸く馬上の人が振り返る。


「章、軌……?」

 春覇は己の声が掠れていることに気付いた。名を呼ばれた馬上の人が、ふ、と微笑む。

 そして、崩れるように馬から落ちた。


「章軌!」

 春覇はすぐ傍らに落ちてきたその体を抱きとめようとして、支えきれずに諸共に転がる。熱い、と思った。章軌の衣服はあちこちが焼け焦げ、特に胸元と両腕の布地は完全に燃え尽きてしまっていた。章軌の体も、酷いところは炭のようになってしまっている。それでも、彼にはまだ息があった。

「章軌……」

 春覇は震える声で彼の名を呼びながら、その体を掻き抱いた。弱弱しい心臓の音が、辛うじて彼の命がここに在ることを教えてくれる。


「今だ、畳み掛けよ!」

 近衛兵の一隊を率いていた男が叫び、騎馬隊が春覇に向かってくる。春覇は動けない。敵兵に一瞥すらくれず、ただ縋るように章軌の体を抱き締めていた。

「覇姫様をお守りせよ!」

 誰かが叫んで、春覇の周囲にいた兵士達が密集隊形を取る。一人の兵士が身軽に馬から飛び降りて、春覇の傍らに屈んだ。

「覇姫様、ひとまず退きましょう。章軌殿もすぐに手当てすれば何とかなるかも知れません。さあ、馬へ」

 動けずにいる春覇に手を貸そうとした時、猛然と駆けてきた一騎の騎兵がその傍で蹄を止めた。


「五騎、春覇を連れて林まで下がれ。動こうとしなければ荷台に放り込んで運んでも構わん。とにかく下がらせろ」

 馬上からそう指示したのは、蒼凌である。

「残りは俺について来い。連中を蹴散らしてから撤退する」

「はっ!」

 兵士達は迅速に反応した。五騎の兵士達が春覇と章軌を担ぎ上げて退却し、残りの兵士達が蒼凌の後ろにつく。蒼凌が馬の腹を蹴った。疾走が始まる。それに続く兵士達は、一見冷静に指示を下していた彼がその実激怒していることに気づいていた。その感情に染まったように、彼らも吶喊する。その勢いに触れた碧軍は、瞬く間に陣形を崩した。


「朱雀玉は!?」

 隊を率いていた男が叫ぶ。

「精霊を散らされたので今暫く使用できません!退却を!」

「くそ、退け!」

 撤退を叫んだ男は、すぐ背後に迫る馬蹄の音に気付いて慌てて振り向いた。否、振り向こうとした。


「誰が逃がすか」

 押し殺したような、蒼凌の呟き。それが、男の聞いた最後の言葉となった。



 碧軍を追い返して林の中の陣へ戻ってきた蒼凌は、地面に座り込んで章軌の頭を抱えるように抱き締めたまま動かない春覇の姿を見た。

 涙は、流していない。ただ、呆然とそうして座っている。涙も出ないのかもしれないな、と漠然と思いながら、蒼凌は二十年来の友の顔を見た。応急処置を施されたらしく胸や腕に布を巻いた章軌は、おぼろげながら意識があるのか、蒼凌と目が合うとほんの少し目元を緩めて見せる。

「章軌……」

「申し上げます!」

 もはや別れが近いのだろう友人と言葉を交わす暇も無く、兵士の声が耳を打つ。

「右軍が迫っています。左軍が回り込んで林に火を放とうとしている模様!」

 蒼凌は眉を寄せた。目を合わせていた章軌が、ゆっくりと瞬きをする。行け、と言われた気がした。


「……迎撃する。先に左軍を叩くぞ。態勢を整えろ」

「はっ」

 兵士の数も、ここ数日で目に見えて減ってきた。限界が近い。

 ――ここまで、なのか……?

 決して表に出さないながらも、そんな考えが脳裏をよぎるのを、さしもの蒼凌も止められなかった。




 同じ頃、山林の中をひた走る影があった。馬より遥かに早く疾駆する白銀のそれは、影、と呼ぶよりは、一筋の光に見えたかもしれない。


「間に合うかしらね」

 女性の声が、そう呟く。

「間に合ってくれないと困るよ。足には自信があるんだろう」

 中性的な声が答える。

「勿論よ」

 女性の声が請け合うと同時、光は速度を増して山林を縫って行った。




 朱雀玉によって覇姫を排除することはできなかったものの、大きな衝撃を与えた。そう判断した近衛兵にせっつかれて、檄渓は進軍を始めた。左軍が林に火を放ち、相手を炙り出す手はずになっている。今回こそは本物の殲滅戦になるだろう。


 そんな中で、彼の鋭敏な聴覚が微かな音を拾った。遠くから響いてくる、獣の遠吠え。

「やれやれ」

 檄渓は小さく息を吐いた。

「ぎりぎり、間に合ったかな」


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