膠着、のち
それからしばらくの間、碧を取り巻いた情勢は膠着の二文字に尽きる。
北では三つ巴の睨みあいと小競り合いが続き。
西では侵攻してきた橙軍が轟狼と戦姫の一騎打ちにより完全に足止めを食い。
都では、少なくとも表向き、公子詠翠を襲った犯人も、詠翠の行方も、手がかりを掴むに至っていない。
そんな中で、大司冦至鶯は一つの重大な情報に接した。
「それは真実か」
情報を齎した部下に、重厚な問いかけが投げられる。
「未だ噂の域を出ません。しかし事実とすれば、大変なことです」
「無論」
一考した至鶯は、部下に厳命した。
「調査せよ。確実な情報を齎せ」
「はっ」
敬礼して下がった部下と入れ違いに、別の部下が進み出る。
「最近急速に王座に近づいている者達の背後関係についてですが」
声を潜めて、部下は調査結果を至鶯に伝える。至鶯の目が光った。
「確かか」
「はっ。しかし動機の点が少々……」
「調査を待て」
簡潔な指示を受けて、部下はさっと引き下がった。至鶯は一人腕を組み、沈思する。
「容易ならぬ事態になってきた、か……」
低い呟きが、ぽつりと落とされた。
王宮の奥で、碧王は苛立ちを隠せずにいた。
北の戦場では、未だに膠着状態が続いているという。わずか数百の兵に二万の軍を差し向けたというのに、太子の首一つ取れないとはどういうことか。いくら覇姫が味方しているとはいえ、限度というものが有ろう。
その上、都の重臣達の動きが、彼の不満を募らせていた。
「王よ……」
王の不機嫌を理解している侍臣が、遠慮がちに声をかけてくる。
「また、上奏文が……」
「捨て置け」
これまで比較的よく臣下の意見を聞き入れてきた碧王が、文面を見もせずに吐き捨てる。
「また同じ内容であろう。誰の上奏文であろうと、鴻宵や太子についてどうこう言うものは読まぬ」
王の厳しい言葉を受けて、侍臣が肩を竦めて立ち去ってゆく。ここのところ、王を諫める文書が都の重臣達から次々と届けられているのであった。朝会でも、諫言を吐く者が増えている。まるで王を除いた全ての重臣達が皆こぞって太子の擁護を始めたかのようにすら思える。その煩さを嫌った王は、朝会を欠席することも多くなった。
「陛下……」
「今度は何だ」
再び現れた侍臣に、苛立ちそのままの声をぶつける。侍臣は慌てて頭を下げた。
「謁見をお望みの方が」
「また諫言か」
「いえ、互氏にございます」
互贅か、と、碧王は気色を緩めた。互贅は鴻宵の正体を暴くことに貢献した男であり、王の所業にうるさく口を出してくることもない。
「通せ」
王が言うと、侍臣はほっと安堵の息を吐いて小走りに退出した。
「中大夫互贅、王に拝謁致します」
「互贅。何用か」
王の問いに、互贅はにやりと笑った。
「北の戦場における膠着を解消する策を献上に参りました」
「なに」
まさに、碧王はそのことを考えていたのである。勢い、聴き方に熱が入る。
「その策とは」
互贅の言葉を聞いた碧王は、即座に宗伯府に使者を派遣した。
宗伯府で王の使者を迎えたのは暦監である。宗伯の任にあった紀春覇が太子と共に逃走した今、副官である彼が宗伯府の一切を取り仕切っているのだ。その暦監と周囲の部下達は、王からの命令を聞いて一様に蒼白になった。
「お、王は……」
暦監が何とか言葉を絞り出す。
「王は一体あれを、どうなさるおつもりなのか」
「決まっておろう」
使者は呆れたように言った。
「反逆者を討つために使うのだ」
「しかしあれはそもそも人に用いる物では……」
「控えよ」
使者は傲岸に言い放つ。
「王に意見するというのか」
暦監は言葉に詰まった。しかし宗伯府の一切を背負っているという責任感が、彼の口を再び開かせる。
「守護神が人を救う為に与え給うた物です。朱雀様にお伺いも立てず、人の争いに用いてはなりません」
「ならば今すぐ朱雀様にお伺いを立てよ」
そう簡単に言ってくれるな、と宗伯府の誰もが心中で叫んだ。守護神の意思を問うには、当然ながら守護神を呼び出さねばならない。偶然神殿に滞在中であればともかく、霊山にいる守護神を呼び出すことなどなかなかできることではない。少なくとも暦監は、それができる人物を一人しか知らなかった。
「儀式には時を要します」
「待ってはおれん。衛兵!」
煩そうに手を振った使者が、兵士を呼ぶ。
「探し出せ。宗伯府のどこかにあるはずだ」
「無体をなさるおつもりか!?」
「王命を聴かぬそなたらが悪い」
宗伯府の役人達と使者の間に、ただならぬ緊張感が漂う。使者の命を受けた兵士達が動き出し、それを止めようと役人達が口を開いた時。
「朱雀玉ならここにあるよ」
不意に響いた声に、誰もが視線を神殿に通じる回廊へと移した。そして目を見開く。
「え、炎狂!?」
「何故神殿から……いや狂ったのではなかったのか!?」
立ち騒ぐ者達を無感動に眺めながら、依爾焔は掌に載せた玉を揺らした。
「これが欲しいんだろう?持って行くと良い」
ついとこちらへ来た彼の手から、呆然としている使者に朱雀玉が手渡される。
「朱雀から伝言がある」
袂を翻して出口へ向かいながら、依爾焔は感情の読めない笑顔のまま言った。
「それは好きに使って構わないとのことだよ」
暦監は思わず小さく呻いた。他ならぬ朱雀の言葉によって、朱雀玉を引き渡さずにおく為の言い分が無くなってしまった。もはや朱雀玉が太子達への攻撃に使われることは避けられないのか。
「ま、待て!」
用件を告げ終わるとさっさと立ち去ろうとした依爾焔を、我に返った兵士が呼び止める。
「どこへ行くつもりだ。正気を取り戻した以上……」
「私はここを去るよ。止めたければ止めてみるといい」
そう嘯いて、依爾焔は兵士の顔を覗き込んだ。
「覇姫もいない、鴻宵もいない、青龍の加護すらない君達に、私が止められると思うかな?」
兵士は気圧されたように口を噤んだ。事実、今の碧には五国方士を力ずくで引き留める力を持つ者などいないのだ。
黙り込んだ者達を見渡して、依爾焔は薄く笑った。
「引き際を弁えているのはいいことだよ」
その言葉が終わるか終らないかのうちに、依爾焔と兵士達の間に炎が巻き起こる。咄嗟に目を閉じた兵士達が再び目を開いた時、依爾焔の姿は既にどこにも無かった。
碧の宰相荏規は、方々に人を派遣してとある人物の行方を探させていた。彼の脳裏にあるのは、碧王家の安泰な存続である。その為に必要なのは、安定した後嗣の確保であった。
「荏宰相。大司冦至氏がお見えです」
そう報告を受けた荏規は、即座に彼を通すよう命じた。先日朝会の席で伝え損ねたことを相談しなければならない。しかし荏規の前に姿を現した至鶯は、荏規が口を開く前にずばりと切り込んできた。
「十二年。何故隠してこられた」
その一言で、荏規は至鶯が「その事」を探り当てたことを知った。
「無用の混乱を招きかねんからじゃ。存在が明らかになれば蒼太子に殺されるやも知れぬ」
「蒼太子がそこまでなさると?」
「なさらぬという保証もありますまい。己の兄上を手にかけたお方ですぞ」
荏規の脳裏に過るのは、あの時初めて群臣の前に姿を現した少年の冷たい瞳である。今の彼からはほとんど想像もつかないが、あの頃の太子蒼凌は誰をも信用できぬという冷めきった目をしていた。
「それで、どこに」
「とにかく目につかぬよう隠れよと言い含めて逃がしたのじゃが、その後の行方はわしも把握しておらん」
何しろ当時の都は混乱の極致にあった。荏規自身も保身と後処理に追われて、人のことまで構っていられなかったというのが実情である。
「どうじゃ、司冦殿。なにか手がかりでも見つかりませぬか」
荏規の問いに、至鶯は僅かに眉を動かした。
「心当たりは、無くもありません」
「まことか」
荏規は身を乗り出す。しかし至鶯はその心当たりを語ることなく、真っ直ぐに荏規を見据えた。
「貴方の立ち位置をはっきりさせていただきたい」
至鶯が重厚な問いを発する。荏規は背筋が緊張するのを感じた。この目は、同僚を見る高官の目ではない。罪人を見極める法官の目だ。
「事は反逆罪に関わる。貴方の立ち位置は何処か。場合によっては、法に服していただく」
「わしは反逆など考えておらぬぞ!」
「判断するのは貴方ではなく、法です」
至鶯の視線は、いささかも揺らがない。荏規は観念した。こうなったら至鶯は、相手が洗いざらい真実を話すまで梃子でも動かない。
「わしは王家の血筋が絶えるのを恐れただけじゃ。他意など無い」
「行方はご存じないと」
「先程言った通りじゃ」
荏規が答えると、至鶯はじっと荏規の目を見た。
「見つかればどうなさる」
「王宮にお戻りいただくのがよかろう」
「詠公子がご無事であるとわかった時に混乱を生ずるのでは?」
荏規は寸時言葉に詰まった。正直、詠翠がまだ生きているという可能性はあまり期待できないと、荏規は考えている。しかしそれを口に出すことは、あまりに不謹慎であった。咄嗟に言うべきことを思いつけない荏規に、至鶯が畳み掛ける。
「詠公子は王の御子ではあるが、末子です。年齢も、乱の後の御生まれですから年下ということになる。荏宰相」
感情の見えない瞳が、荏規の顔を覗き込んだ。
「貴方は、どちらを立てるおつもりですか」
「……王の御意思に従う」
漸く、荏規は返答を口にした。
「詠公子を亡き者にして功を立てようとは」
「思うわけが無かろう!」
思わず、荏規は声を荒げた。
「詠公子はわしと至氏とで育ててきたお方ではないか!わしとて公子がご無事であると信じたいが、状況がそれを許さぬからこそ……!」
感情のままにそこまで口にしてから、荏規は口を噤んだ。その様子をじっと見ていた至鶯が、一つ頷く。
「安心しました。ならば今後の調査にご協力いただけますね」
「……そなたはどうなのだ、至氏」
荏規は至鶯に反問した。
「わしと同じく、詠公子を立てるか」
至鶯が感情で動かないことを、荏規は知っている。しかし現状正当性を持っているのは詠翠の方だろうと考えて、そう問うたのだった。だから、至鶯の答えは彼の意表を突いた。
「いいえ」
「なに!?」
荏規が目を剥く。
「直系を立てるべきだと仰るか」
「いいえ」
至鶯が再び首を振る。荏規は至鶯の考えがわからなくなった。
「ならば一体……」
「法に照らせば」
実に彼らしい一言と共に、至鶯は己の考えを述べた。
「蒼太子は、未だ廃されておられません」
荏規は唖然とした。王も、家臣達も、誰もが蒼凌が既に廃嫡されたものとして動いている中で、この男は今何と言ったのか。
「私は法に従います」
法と公正の権化と呼ばれる男は、何のてらいも無く淡々と言いきった。




