追っ手
時は少し遡る。
蒼浪を出て北へ向かった函朔と秋伊は、極力人里を避け、山林を縫うようにして移動を続けていた。身を隠しながら敢えて悪路を行く行程は、まだ十を過ぎたばかりの秋伊の体力を気遣わねばならないのもあって遅々として捗らない。碧と昏の国境までは、まだ数日かかるだろう。
「今夜はこの辺りで休みましょう」
森の少しだけ開けた場所を見つけて、函朔は秋伊に声をかけた。秋伊は気丈にはっきりと返事をしたが、滲む疲労は隠せない。そんな秋伊に手を貸して馬から下ろし、函朔はてきぱきと薪を集めて火を点けた。
火を熾して秋伊に休息を取らせながら、函朔は背負っていた荷物を解き、食料の残量を確かめた。当然だが、既にそれなりの日数を重ねた行程の中で、頼奉が持たせてくれた食料はだいぶ目減りしている。函朔と秋伊の二人で携行できる荷物の量には限りがあるので、食料がすぐに底をつくのは仕方のないことだった。その辺りを考慮して、頼奉は嵩張らない路銀もかなりの額持たせてくれた。食料の残りと現在位置を脳裏で対照して、函朔は決意する。
「若、明日辺り、一度付近の街へ下りましょう」
公子、と呼びかけるのはいくら人目が無くとも危険なので、道中函朔は秋伊を若と呼ぶことに決めていた。そうした気遣いを必要とする立場である。街へ下りるとなれば、危険は当然ある。万一身元が露見するようなことがあれば、当地の兵士との戦闘は避けられないだろう。しかし秋伊や函朔の顔はあまり知られていないし、碧の朝廷は彼らの生存を知らないので、さほど警戒はされていない筈だ。
「うむ」
函朔の考えがある程度理解できるのか、或いは全幅の信頼を置いている故か、秋伊はすんなりと頷いた。その眼前に、函朔は干した餅を差し出す。
「街へ出たら何か温かいものでも食べましょう。ひとまず今夜はこれで辛抱してください」
ここまでの行程で秋伊は不満一つ漏らしていないが、幼いのに加え野営の経験も乏しい彼にとってこの旅がかなり辛いものであろうことは、函朔にはわかっていた。せめてひと時だけでも安らぐ時間を作って、少しでも負担を軽減したい。
「……すまぬ」
そんな気遣いのわかる秋伊は、小さく謝意を示して食料を口にした。
翌朝、二人は進路を少しだけ南へずらし、山を下った。この峰を下りきれば、小さいながら碧の邑がある筈である。そこで補給と休憩を行うつもりでいた。
異変を感じたのは、山地を半ばまで下った頃である。ほとんど習慣で周囲の様子に気を配っていた函朔は、所々木々の枝が折られ、土が踏み固められているのに気づいた。明らかな人為の痕である。それもごく最近、恐らくは数日以内のものだ。
「若、少しお待ちを」
声をかけ、秋伊に足を止めさせる。
「どうしたのだ」
素直に手綱を引きながら、秋伊が問う。その袖口が、近くの枝を引っ掛けた。途端に、がらがらと耳障りな音が鳴り響く。
鳴子だ。
瞬時に危険と判断した函朔は、馬首を返すと秋伊の馬の手綱を掴み、半ば強引に反転させる。
「引き返します!」
函朔の緊迫した声が秋伊の耳に届くのと、傍らの木の幹に矢が突き立つのと、ほぼ同時だった。多数の人間の気配と、林をかき分ける音が急速に迫ってくる。函朔は秋伊の馬の尻を棒で叩き、とにかく走り出させた。自身もそれに続いて後退しながら、飛んでくる矢を叩き落とす。ちらりと見えた矢柄は碧軍のものだ。野盗の類いではない。
何故だ、と、函朔は内心舌打ちしつつ考えた。何故、碧軍がこんなところに網を張っているのか。
逃避行の合間を縫って函朔が情報を集めた限りでは、太子や覇姫は碧政府の目の届かないところには逃げていない。鴻家の家臣団は南へ逃げたという情報が広まっている。ここまでして碧軍が追う相手など今はいない筈だ。
嫌な予感がする。
やがて木々の間から現れた兵士達に向かって、函朔は声をかけた。既に兵士達の視界からは脱している秋伊が少しでも遠くへ逃げられるよう、時間を稼ぐつもりである。
「碧の兵が何の用だ。我々はただの旅人だ」
彼らの標的が別にあるならば、逃げられる余地はある。彼らは函朔の顔も、存在すら知らない筈だった。函朔は家督を継いでいないし、父の在世中ほとんど流れ者として過ごしていたのだ。白の函家の生き残りだと知られている可能性は低い。
函朔の言葉を浴びた兵士達は、しかし退く様子を見せない。後方から指揮官らしき男が叫んだ。
「間違いない、函家の長男だ。人相書きと合致する」
「人相書き?」
素性を知られていたことよりも、その言葉に函朔は引っかかる。
「どういうことだ。わざわざ兵を割いて追われるようなことをした覚えはないぞ」
そう怒鳴り返すが、殺気立った兵士達に聞く耳があろう筈もない。向かってきた歩兵を、函朔は舌打ちまじりに弾き飛ばした。
「手をかけすぎるな!両翼は迂回しろ!」
指揮官らしき男の指示に従って、兵が分かれる。一隊が函朔に向かってくる間に、別の隊が林をかき分けて移動を始めた。その狙いがわからないほど、函朔の血の巡りは悪くない。
「させるか!」
自分に向かってくる兵士も、飛来する矢も無視して、函朔は迂回しようとする兵士達に突貫をかけた。函朔が手配されている以上、彼らは函朔が背後に庇っているものも知っている筈だ。いや、目的の主たるものはそちらに違いない。
「退くな!この先に逃げたに違いない!」
乱戦の中、指揮官のがなる声が函朔の耳に突き刺さる。
「白の公子秋伊だ!逃がすな!逆賊鴻宵の叛意の証拠だ!」
その一言が、函朔の憤激を一気に引き上げる。
函朔は吼えた。この木々の中では小回りの利かない馬から飛び降り、縦横に棒を振るう。彼の背後へ抜けようとした兵士から、脳天を割られ、或いは内臓に響く一撃を受けて沈んでゆく。
「お前らが、鴻宵を語るな」
考えなかったわけではない。函朔と秋伊の存在は、万一露見すれば鴻宵に致命傷を与えかねない地雷だ。現状も、鴻宵から無理にでも離れなかった自分の招いた禍なのかも知れない。
それでも。我慢ならない。
「あいつの功績の上に胡座をかいてきたお前らが、したり顔であいつの罪を語るな!」
血を吐くような叫びが、憤怒の咆哮が、碧兵の足を竦ませる。函朔は棒を地面に突き立てた。
いくら碧兵を罵っても、碧王を憎んでも、この怒りは晴れない。何より我慢がならないのは、最後に鴻宵を助けられなかった自分なのだから。
だからせめて。鴻宵が自分に望むであろう務めを。
「ここから先は、一歩も通さねえ」
秋伊を守るという務めを、果たしてみせる。
山中を縫うようにして南東へと急ぐ黒零は、鳥の羽ばたく音を耳にして顔を上げた。巣でもあるのか木の枝から飛び立った尾の長い鳥が、警戒するように黒零の頭上を旋回している。
また、違った。
落胆を胸に、黒零は視線を落とす。
蕃旋と別れて数日。暫くは烏達が時折飛んできてそれとなく方角を教えてくれたのに、ここのところその姿を見かけない。蕃旋の速度からすればもう碧の都に到達している筈なのに、その消息も伝わってこない。一人で出歩いたことの殆どない黒零にとって、この状況は少々厳しかった。
端的に言えば、彼は道に迷っていた。
木々の間から時折太陽の位置を確かめているので大まかな方向は合っている筈だが、そもそもが道無き道を進むような行程である。街の場所もわからないのでは、食料の心配もしなければならない。しかたなく、黒零は途中で見つけた清流で水を汲み、木の枝になっていた実を恐る恐る食べた。
「何かあったのか、蕃旋……」
烏を連絡役にできる彼の友人が何の報せも寄越さないのは異常である。友の身を案じながら、黒零はとにかく歩を進めるほかなかった。
そうして、更に数日が過ぎた頃であった。
ばさり、と聞きなれた羽音にはっと顔を上げた黒零の前に、大柄な烏が舞い降りる。足には布の包みを抱えていた。
「遅くなって悪い」
「蕃旋……」
黒零はほっと息を吐いた。食料の供給が得られないこと以上に、蕃旋の消息が不明だという不安が黒零の精神を絶えず蝕んでいたのだ。
「ふらふらだな。ほれ、食糧だ」
「ありがたい」
蕃旋の差し出した包みを受け取り、中に入っていた保存食を口に含む。決して旨いものではないが、空腹には何よりの馳走に感じられた。
「……なあ、黒零」
噛み締めるようにゆっくりと食料を口に運ぶ黒零に、蕃旋が声をかける。黒零は手を止め、珍しく俯いている友人に目を向けた。
「どうした、蕃旋」
食事を中断して、体ごと蕃旋に向き直る。
「先刻からやけにおとなしいではないか。何かあったのか」
黒零の問いに、蕃旋は何度か言いよどむように嘴を開閉させた。一度翼を震わせてから、ようやく小さく言葉をこぼす。
「もう、来れないんだ」
「え?」
首を傾げる黒零の方を見ないまま、足元に視線を落として、蕃旋は続ける。
「もう、来られない。これが最後だ」
黒零は目を丸くした。これまで黒零のそばを離れずにいた友人の、突然の言葉に混乱する頭の中で、一つだけはっきりとわかった。なにか、やむを得ない事情が、蕃旋の身に起こったのだ。そしてそれは多分、赤鴉の頭領としての立場に関係する。
「……何故だ?」
黒零は静かに問いかけた。
「朱雀が」
果たして、蕃旋の口から、赤鴉にとっての絶対者の名が出る。
「朱雀が、敵対してる。……鴻宵に」
「なに?」
その言葉は、黒零の混乱に拍車をかけた。
蕃旋の口ぶりからしてどうやら鴻宵が生きているらしいことはこの際置いておこう。黒零にとっては喜ばしいことでありこそすれ、問題のある情報ではない。しかし、それと朱雀、ひいては蕃旋が敵対状態に陥っていることは大問題だ。何故、どうして、と疑問の言葉を際限なく湧き上がらせてから、ふ、と考える。
朱雀と鴻宵の関係。それは黒零にはいくら考えてもわかるはずのない事情だ。黒零が目を向けなければならないことは、他にある。
「……行かねばならぬのだな」
黒零が言うと、蕃旋は押し黙り、ただ頷いた。
黒零は目を閉じる。脳裏に、蕃旋と鴻宵と、三人で過ごした頃の風景が浮かんだ。
「そうか」
小さく呟いて、目を開く。眼前の蕃旋は、項垂れたままだ。
望まないことなのだ、とは、すぐにわかった。それでも赤鴉の頭領として、蕃旋は朱雀の意に反することはできない。それが一族の頭領としての責任だからだ。
「わかった」
黒零は貰った食料を包み直し、背に負った。俯いたままの蕃旋に、言葉を投げる。
「では吾が止めよう」
「は?」
蕃旋が思わずといった風に顔を上げる。黒零は当たり前のことのように、淡々と言った。
「お前は鴻宵を傷つけたくないのだろう。友人だから。だがやらねばならぬ。それが頭領の責務だから。――ならば、吾がそれを妨害してやろう」
望まぬことでもやらねばならないなら、するといい。止めてやるから。
黒零はそう言っているのである。友人としての感情も、頭領としての責任も、どちらも投げ出さなくていいのだと。
「黒零、それは……」
「お前はお前の義務を果たせばよい。その結果が望まぬものになることは、吾が防いでやろう」
躊躇いもなくそう言い切った黒零は、最後に微かに笑んで言う。
「友人だからな」
ぽかんと嘴を開いて、蕃旋は黒零の顔を見上げた。その目元が、じわじわと呆れを滲ませて弛んでゆく。
「ま、た、お前は突拍子もないことを」
「ふむ。鴻宵の無茶がうつったのやも知れぬな」
涼しい顔で言う黒零に、蕃旋は思わず噴き出した。それから、翼を広げて上空へと羽ばたく。
「お蔭で迷わず行けそうだ。ありがとな、相棒」
「相棒?」
宮中で過ごしてきた箱入りにはなじみのない言葉なのか、黒零が首を傾げる。蕃旋はその頭上を大きく旋回した。
「おう。お互い背中を預けられる仲間のことだ」
本来の意味は違うかもしれないが、構うまい。蕃旋自身の心情からすると、この説明がしっくりくるのだから。
「相棒、か」
黒零の目元が僅かに緩む。
「悪くない」
木々の梢を揺らす風が去った後、黒い羽毛を纏った烏の姿は遥か彼方へと見えなくなっていた。
よろけかけた体を、棒を地面に突き立てることで支える。口中に広がる鉄錆の味に顔を顰め、自分の物か他人の物かも判然としない血を地面へと吐き捨てた。
三十はいた兵士の大半を叩き伏せられた時点で、函朔の鬼気に恐れをなしたのか碧兵は撤退していった。だが居場所が露見した以上、更に兵力を加えて遠からず追ってくるだろう。ちくしょう、と小さく吐き捨てて、函朔は離れた場所をうろうろしていた馬の手綱を取った。
すぐに秋伊と合流して、できるだけ遠くへ逃げなければならない。次に追いつかれたときに、函朔一人で秋伊を守り切れるかは甚だ疑問だ。なんとか手を考えなければならない。
「たった三十相手取っただけでこのざまだもんな……」
呟いて唇を噛む函朔の傷は、深手ではないが浅くもなかった。浅い切り傷や打撲は至る所に負っているし、右肩と脇腹の矢傷は少々深い。逃避行であることを考慮して軽装でいたのが痛かった。僅かな革製の籠手や胸当てだけの装備で多数の訓練された兵士を相手取るのは、いくら荒事に慣れた函朔でも無理がある。次に囲まれるようなことがあれば、間違いなくお終いだろう。
「函朔!」
秋伊が逃げたであろう方向に歩き出した函朔の上に、幼い声が降ってきた。視線を上げてみると、木の梢から秋伊が顔を出している。
「若、そんなところに……」
「うむ。ただ逃げるよりはこの方が安全かと思うてな」
そう言って身軽に降りてくる秋伊の姿に、函朔はどこかほっとした。秋伊も、ただ守られているだけの甘い坊ちゃんではない。自分で考え、自分の身を守るための行動を考えられるのだ。それだけで、護衛の負担は大きく軽減される。
「馬は?」
「あちらの陰に隠しておいた。それより傷の手当てを……」
「不要です。深い傷はありませんし、馬上でできます。一刻も早くここを離れましょう」
函朔の負傷を気遣う秋伊にきっぱりと言って、函朔は秋伊を馬に乗せた。自分も馬に跨り、四方へ目を走らせる。
「とにかく、北へ奔りましょう。国境を越えれば碧兵は追って来られない筈です」
彼らが国境を越えるのが早いか、追っ手に追いつかれるのが早いか。分の悪い賭けだと知りつつも、函朔は馬腹を蹴った。




