太子の思惑
五百人程に増えた兵士達とともに駆けながら、詠翠は落ち着かない様子で周囲を見回していた。
「藤備、といったか」
不安を紛らわすように、傍らの少年に声をかける。詠翠よりは幾分年嵩に見える少年は、ほんの少し緊張を滲ませつつも人好きのする笑顔を浮かべて詠翠を見遣った。
「はい、何でしょう」
詠翠は少し躊躇った。行軍中にこんなことを訊いていいものかどうか、迷ったのである。それから意を決して口を開く。
「兄上は、どうするおつもりなのだろうか。昏軍と戦うのか?後ろからは碧軍が迫っているし……」
詠翠の戸惑いをぶつけられて、藤備はどこか困ったように眉を下げた。
「実のところ、僕にもよくはわかりません。僕なんかに蒼凌様のお考えは読めませんし」
「む」
詠翠は口を噤んだ。確かに、まだ少年であろう彼にこんな問いを投げかけるのは酷かもしれない。しかしその次の藤備の一言は、詠翠の想定とは違っていた。
「なので、僕の推測でよければお話ししますけど」
推測した答えなら持ち合わせていると、彼は言うのである。詠翠は一も二も無く頷いた。少しでも答えに近づけるのなら、推測でも何でも聞きたかった。
「今、客観的に見れば僕らは碧軍から逃げていますね」
「うむ」
詠翠は頷く。
「当然、碧軍は追ってきます。それも今の王様の精神状態からして、多分過剰な兵力で」
詠翠はほんの少し表情を歪めた。詠翠は父王と対立こそしたが、これまで自分を可愛がってくれた父のことが嫌いなわけではない。その父が正常な精神状態から踏み外しかけていることを指摘されて、暗澹とした気分になった。
「そんな顔をしないでください」
詠翠の感情を敏感に察したらしい藤備が苦笑を見せる。
「碧軍が過剰な兵力で追ってくることは、きっと蒼凌様の計算通りなのでしょうから」
「どういうことだ」
兄は何を狙っているのか。首を傾げる詠翠に、藤備は前方を指し示す。
「僕らは北に向かっています。その先に、何があるとお思いになりますか?」
「昏であろう。他国に逃げ込むしか道は無い」
今や百年以上続いた五国時代も終わりを告げ、二国が滅び橙の余命も風前の灯である。碧から逃げようと思えば、昏に逃げ込むほかはない。
「半分正解です」
「半分?」
訝しげな詠翠の声を聞きながら、藤備は前を見据える。
「この先に待っているのは、多分昏軍です」
詠翠は息を呑んだ。前方に昏軍、後方に碧軍となれば逃げ場は無くなる。そしてそれ以上に、脳裏に走った可能性が詠翠の胸を締め付けた。
「兄上は、昏軍に投降するおつもりなのか」
亡命ならば、まだよかった。生き延びるために他国に逃げ込むことを責める権利は詠翠には無い。
だが、率いてきた兵もろとも昏軍に投降するのであればそれは碧への明確な敵対行為であり、今後昏に仕えて碧と戦うという意思表示になる。それは、詠翠には容認しがたいことであった。
「まさか」
しかし藤備のあっさりとした声が、詠翠の不安を吹き払う。
「蒼凌様は碧の人間であることを捨ててはおられませんよ」
「しかし……」
昏の大軍と戦おうというのか、この寡兵で。それは自殺行為ではないか。そんな言葉を飲み込む詠翠に、藤備は前方を見据えながら言った。
「公子、出陣の際の太子のお言葉をお聞きになりましたか?」
籐備の問いに、詠翠は記憶を探る。確か、蒼凌はこう言った。
――目先の利害に踊らされる者達に、今すべきことを見せてやれ!
今、すべきこと。
それは何だろう、と考えた詠翠の耳に、昏軍接近の報を告げる伝令の声が響いた。
間もなく、碧の都に、昏軍が国境へ迫っているとの知らせが届いた。この時に至って、碧王の側近達は太子とその軍勢が昏軍を目指して進軍しているのではないかということに思い当る。彼らはそれを、昏に投降するための行動と捉えた。
当然、碧王は激怒する。
結果、太子の討伐をひとまず措いて昏軍を迎撃するようにとの命令が出るではという叙寧の期待とは裏腹に、政府は左右両軍への命令をそのまま据え置き、加えて中軍を昏軍への対策として派遣。相手が昏軍とあっては棟凱も拱手傍観しているわけにはゆかず、重い腰を上げた。
昏軍まで数里の距離に迫った時、碧軍の騎兵が蒼凌達率いる軍勢の後尾に喰らいついた。今は善戦して凌いでいるが、本隊に追いつかれれば万事休すである。春覇は、緊張に青ざめた顔を蒼凌に向ける。
「兄上、このままでは我々は腹背に敵を受けることに……」
正面の昏軍、背後の碧軍。まさしく前門の虎、後門の狼である。
春覇の胸に、まさか、という思いが去来した。まさか、蒼凌は自棄になっているのではなかろうか。このまま前後から攻撃を受けるようなことになれば、それはもはや自殺行為である。
しかし、そんな思いで見上げる春覇の目に映る蒼凌の横顔は、思いの外力強かった。
「無論わざわざ両者を相手取る義理は無いさ」
灰色の瞳は、一瞬たりとも揺らがずに前方を見据えている。
「そのために広い平地ではなく、ここを選んだ」
はっと周囲の地形を見渡した春覇は、蒼凌の言わんとすることを理解する。そこは兵を展開する広さこそあるものの、両側には丘陵が迫り、草木の陰に隠れて奇襲を行うことも、いよいよとなれば火を放って敵を足止めし逃走することもできようという場所だった。
「昏の将がこの地形の意味に気づかなかったわけはない。敢えて乗ってきたんだ」
追ってくる碧軍を振り切るように林へ兵を踏み込ませながら、蒼凌は北の大地を睨んだ。
「昏にとって、我々の存在は都合がいい。一息に潰すつもりは無いということだ。数日粘れば、棟将軍が来る」
棟凱率いる中軍が来れば、少なくとも昏軍から受ける圧力は大幅に軽減されるであろう。しかしいくら林を利用し衝突を避けたとしても、碧の左右両軍の攻撃にさらされることに変わりはない。粘ってもいつかは擦り切れてしまう時が来る。そう危惧する春覇の肩に、不意に温かい手が乗った。
「心配するな」
静かな声で言い切ったのは、章軌である。その声を聞いた瞬間、あれほど不安に揺らいでいた春覇の心は、嘘のように凪いだ。
「蒼凌のことだ。勝算ならある。暫しの辛抱だ」
信じろ、と言われた気がした。春覇は従兄の背中を見詰める。思えば、昔からあの背には守られてばかりだった。今は、自分が守る番だ。
五百そこそこの兵が、数万の大軍に前後から挟まれながら抵抗を試みる。どう考えても絶望的な状況に居るのに、不思議と悲壮感は薄い。また事実、大半が狐狼達で形成されたこの軍勢は、通常からは考えられないほどの働きを見せていた。
間もなく、日が暮れ始める。暗闇での戦闘を嫌った碧軍が一時退き、兵士達は森林の中に潜んでひと時の休息を得た。
詠翠と藤備も、その中に居る。隊列の中ほどに居た彼らは直接戦闘に参加してはいないが、初めて身近に感じた本物の戦いの気配に、詠翠は緊張を隠せなかった。藤備も少し疲れているようだ。
「話が、途中でしたね」
小さな火を起こして湯を沸かし、詠翠に温かい茶を差し出した藤備が口を開く。昼間の話は、昏軍接近の報とほぼ時を同じくして碧軍が追いついてきたことで戦闘の慌ただしさに紛れ中断したままだった。
「うむ」
頷いた詠翠は、もう一度出陣時の蒼凌の言葉を反芻する。
「今、すべきこと、か」
「ええ。碧人が今すべきこと。公子は何だと思われますか?」
「それは無論、昏軍の撃退であろう」
外患が迫っているというのに、内輪でもめている場合ではない。詠翠の答えに、藤備は頷いた。
「そうですね」
「つまり、兄上はご自身が昏軍と率先して戦うことによってそれを示そうとしておられるのか」
どこか安堵の滲む弾んだ声で、詠翠は言った。
父王と兄が対立してしまったことを憂えながらも、彼は兄に国を裏切って欲しくはなかったのだ。兄が未だ国の為を考えていてくれることを素直に喜ぶ詠翠だったが、藤備の笑顔はどこか曖昧である。
「実を言うと、その辺り、僕もあまり確信が持てないんです」
藤備は言って、どこか遠くを見るような、悲しげな眼をした。
「僕の知っているとある将軍様ならきっとそうなさると思うんですが、蒼凌様はあの方ほど無茶をなさる方とは思えませんし……」
何しろこの場合、先頭に立って戦う彼らの背後から届くのは援護でも声援でもなく敵意を持った刃である。それでもそれをやってのけそうな無茶な人間を、藤備は一人しか知らなかった。そしてその人物に、詠翠もまた思い当る。
「そなた……鴻将軍を知っているのか」
「……ええ、よくしていただきました」
両手で碗を持つ籐備の手が震えている。俯いた横顔は髪に隠され、表情はうかがえなかった。
「そうか……」
詠翠は呟くように言って、焚火に目を落とした。
何か大切なものが抜け落ちたような虚無感が、彼らの胸をじわじわと侵食していた。
同じ頃、兵を一度引き上げた右軍の幕舎の中で、檄渓は近衛兵を率いてきた将の小言を浴びていた。
官位からすれば檄渓の方がこの男よりも上の筈なのだが、近衛兵は常に王に近しい場所に居る分その実権は大きい。故に檄渓も、その傍らに控える汪帛も、甘んじてその小言を聞いていた。
「何故兵を退いたのだ。追いついたのなら一息に押し潰してしまえばよい」
「まあ、そう焦ることもないでしょう」
飽くまでにこやかに、檄渓は男を宥める。
「こちらの兵も走り通しで疲れていますし、本隊が到着していない今彼我の兵力はほぼ五分です。一息にというのは少々骨が折れますし、夜に戦闘を行えば闇に紛れて太子の逃走を許す危険もあります」
「今こうしている間に逃げられたらどうする」
口に出してから不安になったのか落ち着きなく外を窺う男に、檄渓は微笑して見せた。
「無論、抜かりなく警戒はしております。ご安心ください」
檄渓の言葉を証明するように、炬火を持った兵士達がこまめに哨戒しているのが見える。
「その言葉、信じるからな。抜かるなよ」
男は吐き捨てるように言うと、幕舎を出て行った。
それを見送ってからきっかり三十秒、檄渓は姿勢も表情も崩さずに耳を澄ましていた。間違いなく男が立ち去ったのを確認して、大きく息を吐く。
「まったく、肩が凝るね」
伸びをしながらぼやく檄渓に、汪帛は苦笑した。余談だが、襄斉は今回叙寧率いる本隊の方に残って右軍の指揮を執っている。
「近衛は必死ですね」
「功が欲しいのさ。またとない機会だからね」
檄渓は肩を竦めると、机上に広げられた地図を眺めた。その上には、昏軍に見立てた黒い板、碧軍に見立てた青い板、そして太子の兵に見立てた赤い板が置かれている。
「太子は昏軍と戦うつもりですかね」
「うん?」
汪帛の言葉に反応し、檄渓は視線だけを彼に向けた。
「自ら昏軍に挑むことで、王を諫めるつもりでしょうか」
彼らが知り得べくもないが、汪帛の推測は概ね藤備のそれと一致していた。太子が昏軍に投降することはないだろうと考える者達にとってはそれが最も穏当な考えなのである。しかしその考えを聞いた檄渓の反応は汪帛の予想を超えた。
「昏軍五万、碧軍二万を相手に、五百の兵で?」
地図上の勢力図を指で叩きながら、彼は鼻で笑ったのだ。
「冗談だろ?鴻将軍じゃあるまいし」
「鴻将軍ならなさりかねないんですね……」
呆れ気味に呟きながら、汪帛はもう一度脳内で状況を整理する。しかし都を脱し一路北へ向かった太子の意図は他に考えにくかった。
「だったら、太子は一体何を?」
「決まってるじゃないか」
檄渓は地図の上に置かれた赤い板を取り上げ、地図の外へ放った。
「生き延びるのさ」
汪帛は無意識に赤い板の行方を目で追い、それからその意味に気づいて目を瞠った。
「逃げる!?この状況から!?」
「この状況だから、逃げられる」
檄渓は再び地図を指で叩いた。
「あの人は自分を餌にしたんだよ」
檄渓の指が、碧の都、翠を示す。
「都は王の膝元。ここから普通に逃げようとしたところで普通は無理だ。多少の武力を持っていたところで、数に押し潰され磨滅させられる」
そう言って、彼はもう一方の手で黒い板を叩いた。
「一方で、昏軍が来ることは確実だ。鴻将軍の一件はあまりに唐突過ぎたからね。昏の絡嬰が一枚かんでいない筈がない」
そこでだ、と続けて、檄渓は赤い板を手に取った。
「軽兵を率いて都から北へ奔る。視野の狭くなっている碧王が過剰な追っ手を差し向けるのは当たり前」
汪帛は唖然とした。檄渓が青い板を持ち上げ、揺らして見せる。
「つまり俺達碧軍はまんまと釣られたわけ。そして行く手には昏軍がいる」
青い板と黒い板が向かい合う。その間に置いた赤い板を、檄渓は指で弾いた。
「ここで太子が消えても、碧軍は目の前の昏軍を無視するわけにはいかない。無論昏軍の方でも碧軍を放っておく筈はない。両者が戦闘している間に、太子は逃げおおせるというわけ」
敵を引き付け、もう一方の敵にぶつける。そういうことである。汪帛は額を押さえた。確かに、逃げようとするならこれは有効な作戦であろう。しかし、平時の誠実な太子を見慣れた彼らには、まず太子が国の危機を前に逃亡を図るということが想定しがたいのであった。
「なに、お前まだあの外面に騙されてたの」
「いえ……頭では分かっていたのですが実際にこうなってくると……」
呆れ交じりの檄渓の言葉に、汪帛は首を振る。もう一度事実を反芻して内心の整理をつけてから、顔を上げた。
「では……逃がすんですね」
周囲に誰の気配も無いことを確認して、低い声で問いかける。
「いや?」
あっさりとした檄渓の返答に、汪帛は愕然とした。
「な……」
「やだな汪帛。取り逃がしたりしたら厳罰に処されるじゃないか」
おどけた様子で肩を竦める檄渓だが、その目に冗談の気配は無かった。
「あんた……日和見する気か!」
声を潜めたまま、しかし語気は強く、詰問する。檄渓は目を細めた。
「随分『人間らしく』なったみたいだね、汪帛」
皮肉気なその響きに、汪帛ははっと目を見開く。
「もともと利害が一致するから手を組んでたんだ。あの人自身が危ない今、より利益の多い方を見極めようとするのは当然だろ?」
檄渓はこともなげに言って、地図を畳んだ。
「まあ、あの人もそのくらいはわかっているだろうさ」
微笑を残し、話は終わりとばかりに背を向ける。汪帛は暫し呆然とその場に佇んでいた。
夜が明ける。
朝日の白い光が地平を照らす前に、蒼凌は浅い眠りから目を覚まして周囲の様子を窺った。
「やはり駄目か」
小さく舌打ちが漏れる。昨日日が暮れてからずっと機会を伺っているのだが、碧軍の警戒が厳しく、逃走経路を確保することはできそうにない。できれば夜半にここから逃走し、あとは昏軍と碧軍に戦わせるというのが最も安全な策だったが、やはりそう甘くはない。
「なかなかに容赦ないですな、右軍の佐将は」
起き出してきた狛家の主人が、やはり碧軍の警戒が厳しいのを見て眉を寄せた。
「良くも悪くもぶれない男だからな。仕方ない」
蒼凌はそう評すると、木々の間から零れ始めた朝日の光に目を細めながら腕を組んだ。
「戦うほかないな。但し飽くまで昏軍と碧軍をぶつけながら、だ」
「承知しております」
狛家の主人は悠揚迫らぬ態度で頭を下げる。それに頷きを返し、蒼凌は一言付け加えた。
「中軍と左軍に密使を」
内容も理由も言わない。しかし狛家の主人は心得顔で、傍にいた家人に指示を出した。
「昏軍はこちらを本気で潰しには来ない。寧ろ場合によっては陰に陽にこちらを生き残らせるくらいのことはするだろう」
となれば、当面最も危険な敵は碧軍である。
「『その時』まで耐えきれるか、ここが正念場だな……」
小さな呟きは戦場の喧騒に紛れていった。




