出撃
王暦一二八四年三月晦日。
碧王の兵は狐狼居住区に紀蒼凌、紀春覇両名が匿われていることを発見、二人の身柄引き渡しを要求する。狐狼側はこれを断固拒否、徹底抗戦の構えを見せ、近衛の兵と睨みあいになった。
そこへ、昏軍が都を発したらしいという噂が届く。それでも太子側勢力へ攻撃の姿勢を崩さない近衛の兵団を前に、居住区の北門が突如開け放たれた。
居住区で養われていた馬が軍馬に仕立てられ、二百の兵士達が武器を手にする。緊迫した空気を片隅で見詰めていた詠翠は、兄の呼び声に振り向いた。詠翠の傍に歩み寄ってきた蒼凌は、既に鎧を身に着けている。
「詠翠。従者の傷も動けるくらいには癒えただろう。お前はここから帰って構わない」
常は穏やかだった灰色の瞳が、鋭利な刃物のようだ、と詠翠は感じた。
「兄上」
詠翠は、思い切って言った。
「私は、足手まといですか」
蒼凌が弟を見下ろす。それから、小さく息を吐いた。
「有体に言えばな」
予想できた答えでも、はっきり言われるとやはり堪える。唇を噛み締めた詠翠は、震える声で訴えた。
「しかし、私にはこのまま兄上を送り出すことはできません。目覚ましい働きはできずとも、戦うことならできます」
それに、と続けた詠翠は、俯いて拳を握り締める。
「戻ったところで、いつ殺されるかわからないことに変わりはないのです」
蒼凌は沈黙した。
詠翠の言葉は、残念ながら真実である。都で詠翠を狙ってきた兵士達、その背後に居るのが何者なのか突き止めない限り、詠翠は常にどこかから向けられる刃を警戒しなければならない。加えて、そうした悪意から詠翠を守るとのできる信頼できる力は現状存在しない。詠翠の命を守る為の保険として用意されていた炎狂という切り札は、前回の襲撃で既に切られてしまった。
「司寇を頼れば、恐らく問題ないと思うが……」
呟いて、蒼凌は腕を組む。至鶯は間違いなく信用のおける高官であり、司寇府は犯罪を取り締まる必要上ある程度の武力を有してもいる。
しかし、至鶯は良くも悪くも公正を貫く人だ。詠翠の存在を王に秘匿しておくことはできないだろうし、王に知れれば詠翠を司寇府にとどめておくというわけにはいかなくなる。王宮に戻れば王の庇護は受けられるが、どこから魔の手が伸びてくるかわからない。権力の中枢にある王宮は常に気の抜けない伏魔殿なのだ。
「兄上、棟氏を頼っては……」
控えめに口を挟んだ春覇の意見に、蒼凌は首を振ることで答えた。
「棟将軍は、確かにお前や俺の味方だ」
素のままで話す蒼凌は、少しだけ困ったような苦笑を滲ませながら、柔らかい目でこの「陰謀向きでない」従妹を見遣った。
「だからこそ、この場合絶対に頼れない相手なんだ」
春覇の眉宇に、怪訝そうな色が漂う。
「あの人はお前や俺の味方だ。故に」
もう一度前提を繰り返し、蒼凌は詠翠の頭に掌を置く。
棟凱は蒼凌が太子になって以降、一貫して蒼凌とその与党である春覇を支持してきた。それは棟凱の武将としての洞察力が二人の資質を見込んだということとともに、蒼凌の実母が棟氏の末端に連なる人であったことに基づくであろう。
「あの人は詠翠を殺すぞ」
詠翠が身を強張らせるのを掌で感じながら、蒼凌は絶句している春覇を見た。
「何しろ俺を立てたいあの人にとって、今の騒ぎは詠翠さえ消してしまえば終わる話だ。そしてあの人は懐に飛び込んできた窮鳥を温情で見逃すほど甘くはない」
「まさか、公子の襲撃は……」
「それはない」
息を呑んだ春覇が恐る恐る口にした推測を、蒼凌は言下に否定した。
「表立って反逆の罪に問われるような真似をするほど愚かではないさ。棟氏がその気になればもっとうまく、策謀の痕跡すら見せずにやってのけるだろう」
流石に怯えた目つきを隠せない詠翠の頭を宥めるように撫でて、蒼凌は再び思案を始めた。
「そうなると、同行させるほかはないか……決して安全な場所ではないが」
「どうか、ここに居させてください」
詠翠が懇願を口にし、蒼凌を見上げる。
「兄上達の戦う戦場を、私は見ておかねばならないと思うのです」
「……わかった」
嘆息混じりに頷いた蒼凌は、視線をやや遠くに投げた。その視界に捉えた少年の名を呼ぶ。
「藤備!」
呼ばれた狐狼の少年が走ってくる。彼は総華より二つほど年上の、鴻氏邸に出入りしていた子ども達の中では最年長の少年だった。今回は前線にこそ出ないものの、物資の運輸を担う兵士達の一員として蒼凌達と行動を共にすることになっている。
「詠翠を頼む。お前の傍に置いて働かせてくれ」
「わかりました」
藤備が背筋を伸ばして返答する。弟を彼の手に預けた蒼凌は、遅れて藤備の隣に並んだ総華に目を向けた。
「後を頼む」
「はい」
力強く頷く総華は、居住区に残った非戦闘員達の取りまとめ役を担う。それぞれが決意を胸に、真っ直ぐに顔を上げた。
「門を開け!」
馬上に我が身を押し上げながら、蒼凌が叫ぶ。
「出陣だ。目先の利害に踊らされる者達に、今すべきことを見せてやれ!」
応、と鋭く呼応した兵士達が、居住区の門扉を押し開く。
一路、北へ。
走り出した兵士達は、突然の事態に立ち騒ぐ近衛兵を置き去りに、真っ直ぐに進んでゆく。まばらに飛んできた矢は、狐狼達の掲げた革の盾に防がれた。
包囲を抜け、暫し走ったところで、ばらばらとどこからか飛び出してきて並走を始めた者達がいた。そのいずれもが、同一の家の紋章を身に着け、敵ではないことを示しながら共に走り始める。
「やはり、来たか」
走り続けながら呟いた蒼凌の隣に、初老の男が馬を並べる。
「当然のことでございましょう。それとも、我らを除け者になさるおつもりで?」
鋭い目つきを緩めながら問いかけてくる男に、蒼凌は苦笑を見せた。それは常の彼にしては随分と幼い、少年のような表情だった。
「いや……実は期待していた」
「そうこなくては」
にんまりと笑った男の手勢であろう兵士が、なおも三々五々合流してくる。政府に感知されることを警戒して兵を少人数ずつ分けて潜ませていたものらしい。
「何人集めた」
「何しろ時間がございませんでしたので、三百ほどですが」
十分だ、と返して、蒼凌は何かの痛みを堪えるように目を細めた。
「済まないな。俺が狛麓を死なせたのに」
「今更何を仰いますことやら」
男は飄々と笑う。
「倅が命を懸けて守ろうとしたお方を、我らが守らずにどうします」
集まってくる狛家の兵士達を吸収して、疾駆する集団は倍以上の人数に膨れ上がってゆく。
「我ら狛家は、どこまでもあなた様のお味方です」
蒼凌が太子である間、決して表に出てこず、栄達を求めることもせず、ただじっと蒼凌が彼らを必要とする時を待っていた人々。嘗て隣にいた従者であり友であった存在の大きさを思って、蒼凌は静かに瞑目した。
紀蒼凌、紀春覇は近衛の包囲に目もくれず、狐狼の兵を率いて真っ直ぐに北方を目指して逃走を開始した。その意図を汲みかねた碧政府は翌四月朔日、彼らへの攻撃命令を左右両軍に下した。
狐狼の居住区より出た軍勢を殲滅せよという命令が下された時、左軍の将、叙寧は、人知れず顔を顰めた。
左右両軍の兵力を合わせれば、その数は二万に上るのである。対する狐狼達は約二百。明らかに過剰な兵力であった。どう見ても損得の釣り合わない出兵である。近衛の兵でも使えばいいのに、と内心毒づいた彼は、更にその後内内に下された命令に溜息を吐きたくなった。
右軍に妙な動きが無いか、左軍にてよく監視しておくこと。
要するに、実質この出兵は主将を喪った右軍への踏み絵的な目的を持ったものであり、左軍は彼らの目付け役ということなのだろう。
「近衛をお付けになった方が得策では?左右両軍は相互不干渉。下手に干渉すれば却って怪しまれよう」
さすがにこれにはそう反論せずにいられなかった。
第一、代わりの将も決めずに一軍の将をあっさり誅殺したやり口に、叙寧ですら釈然としないものを感じている。中軍の棟凱などは病と称して門を鎖してしまった。まして自分達の大将を突如殺された右軍の将兵が動揺するのは当たり前である。その鎮静化を左軍に押し付けられたのではたまったものではなかった。
「無論、近衛からも監視はつけておる。しかし右軍に妙な動きがあった場合、近衛のみで抑えるには兵力不足だ」
王からの使者はそう言って、叙寧に兵符を受け取らせた。
やむなく命を呑んだ叙寧は、すぐに配下を右軍府に遣わし、様子を見させる。
帰ってきた兵士は、狐につままれたような顔で報告した。
「右軍に怪しい動きはありません。寧ろ積極的に出兵の準備を行っております」
少々意外な報告である。自分達の将を誅殺されたというのに、右軍の動揺は小さく、今は檄渓がほぼ完全に掌握しているという。その意図を把握しかねた叙寧は、兵を率いて北へ向かう道すがら、自ら檄渓に接触することにした。
「檄将軍」
「これは叙将軍。ご苦労様です」
檄渓が如才なく頭を下げる。
今は二人ともそれぞれ一軍を統率しているので権限はほぼ同等だが、身分は叙寧の方が上である。檄渓の対応は丁寧なものだった。確かに、叛意は無さそうである。だが油断は禁物、と自らを戒めた叙寧は、直球で問いかけて反応を見ようと試みた。
「将を失ったというのに右軍は乱れませんな。頼もしいことだ」
聞きようによっては、皮肉にも聞こえる一言である。事実、叙寧の内心は少々複雑だ。将を誅殺されても全く乱れの無い軍。それがもし、自分の配下であったなら。
それはつまり、将である自分は不要であると、そう突きつけられているような気分にならないだろうか。
叙寧の言葉に、檄渓は動揺も見せずににこりと笑った。
「あらゆる不測の事態に耐えられてこそ有能な軍であると私は考えておりますので」
さあ参りましょう、と馬を進める檄渓の態度に迷いはない。
どことなく背筋に寒いものを感じながら、叙寧はその横に馬を並べた。
四月二日、北上を続ける太子の軍勢は都の北門を方士である紀春覇の力を借りて突破。
左右両軍はその後を追う形で出動したが、兵が多くては身の軽い太子達に追いつけない。止む無く右軍佐将檄渓、左軍大将軍叙寧の合意のもと、左右両軍から選抜した五百騎が先駆し、残りの兵はその後を追う形で進軍することとなった。
表向きはそういうことだが、実際には先駆の五百騎は殆どが右軍の騎兵で構成され、檄渓自らそれを率いる。目付け役として近衛の兵がそれに同行し、残りの兵力を率いて後を追う叙寧が万一右軍に叛意が見えた時の為の保険となるのである。
そこまで右軍が信用できないのならばいっそ一度潰してしまえばいいのに、という内心を抑え込み、叙寧は溜息を吐いて馬の腹を蹴った。
碧の都、翠の上空を、羽ばたく黒い影がある。黒零と別れ、一足先に碧へ向かっていた蕃旋である。彼は城壁の近くで旋回しながら、近隣の烏たちを集めた。間もなく幾つもの羽音が重なり、多数の烏が近くの木の枝や城壁の端に留まる。蕃旋は彼らの中心に位置し、情報を集めた。その結果、奇妙な事実が判明する。
王城に近づいた烏たちは、揃って圧倒的な力を感じ、恐慌状態に陥っていた。赤鴉から情報収集を命じられていた烏もその威圧感に射すくめられてとても偵察どころではなく、戻って現状を報告しようにもその力の持つ奇妙な圧力に惹かれて都を離れられずにいたのだと言う。
――いったいなんだってんだよ、これは。
胸中で呟いた蕃旋は、自ら王城へ向かって飛んだ。
城壁を越えようとしたところで、聞いていた通り、強い威圧を感じる。だがそれに射すくめられるよりも前に、その気配の正体に気づいて愕然とした。ただの烏たちや赤鴉の中でも力ない者達にわからなかったのも無理はないが、蕃旋はこの気配を知っている。
だからこそ、困惑した。なんで、という疑問で、頭の中が混乱する。
城壁の側から呼びかける声がしたのは、その時だった。
「そこの烏君、ただの烏じゃないよね」
その視線が真っ直ぐに蕃旋を捉えているのに気付いて、蕃旋は警戒を強めた。近くを飛んでいた姉が旋回し、相手の背後へと回り込む。
「そう警戒しないでよ」
蕃旋に声をかけた男は肩を竦めると、敵意のないことを示すように両手を上げて振って見せた。
「降りてきて話をしようよ。このままじゃちょっと遠いし」
城壁に背を預けるようにして座り込んだ男は、腰に提げていた袋を膝の上に置いた。
「知りたいだろ?なんで朱雀の気配が君たちを威圧するのか」
笑顔でそう言われた瞬間、蕃旋は急降下していた。同時に、男の肩に降り立った姉がその首筋に嘴を突きつける。
「怖い怖い。そう威嚇しなくても俺は君らの敵じゃないってば」
人を食ったような態度を崩さないまま、男は言う。目の前に降り立った蕃旋に、袋の口を解いて見せた。
「それは……」
「碧の宗伯府が用意した、朱雀の力を籠めた宝玉。通称朱雀玉って呼ばれてるね」
その赤く輝く宝玉が、妖怪の脅威から都を、もっと言えば太子を守るために鴻宵が朱雀に頼み込んで作って貰った物であることを、蕃旋は知っている。結局それが役目を果たすことは無かったのだが、そのことは今問題ではない。
今論ずるべきは、何故目の前の男がそれを持っているのか、そして何より朱雀が、己の眷族である烏たちに異常をきたすような力をこの玉に与えているという事実だ。
「君にはわかるだろ?」
依然蕃旋の姉が威嚇しているのを歯牙にもかけず、男は蕃旋に問いかける。
「君には感じ取れるはずだ。朱雀の意志が」
宝玉が赤く輝く。そこから発して碧の王城を覆う威圧感の中に、蕃旋は哀しみと、そして強い憤りを感じた。
「朱雀が……敵対してる?この国に……いや……」
伝わってくる感情を辿って、蕃旋は困惑に瞳を揺らした。
「鴻宵……に?」
「さすがは赤鴉の頭領だね」
男は小さく笑うと、宝玉を蕃旋の目の前に突き付けた。
「眷属は朱雀の意志に従わないといけない……違うかい?」
一族を背負う頭領、という名が、再び蕃旋の双肩にのしかかった瞬間だった。




