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水鏡五国志[第三部 朧月の巻]  作者: 子志
章之壱 闘争
21/71

策謀の影

 碧の都では、王の手勢が城門を封鎖し、都中に警戒網が敷かれるという異例の事態に陥っていた。幽閉されていた東宮から闇夜密かに抜け出し、行方をくらませた太子紀蒼凌及びその従妹紀春覇の捜索、捕縛の為である。

「都の外には出ていないのだな」

「はっ、その筈ですが」

 念を押すように尋ねる碧王の前に、近衛を率いる将は汗顔を伏せた。

 事実、今回の近衛の行動の速さからして、いかに太子の逃走が迅速でも、都の城門からは脱出できていない筈なのである。故に太子も覇姫も未だ都にいるはずなのだが、その行方が杳として掴めない。

「あれらを匿いそうな場所は」

「はっ、めぼしい大夫の屋敷など、全て調べておるのですが……」

 しどろもどろに言い訳を述べる近衛の将を、嘲笑った者がいた。今回、鴻宵が朱宿であると告発した功により一躍王の側近へとなり上がった互贅という大夫である。

「王よ、近衛が未だ調べておらぬ場所がございますぞ」

「ほう」

 一体何を言い出すつもりか、と訝しげな目を向けてくる近衛の将に一瞥をくれ、互贅は高らかに言った。

「狐狼の居住区にございます。あの連中であれば、喜んで太子や覇姫を匿うでしょう」




 庶民と同じ粗衣を纏い、髪を無造作に束ねた紀蒼凌は、他の青年達に混じって武器や糧食を運びながら、要所要所で指示を出していた。


「ここが見つかるのも時間の問題でしょう」

 同じく粗衣を纏った紀春覇が言う。蒼凌は馬の数を数えながら頷いた。

「想定の内だ。寧ろ未だ気づかれていない辺り、近衛の質もたかが知れている」

「しかし兄上、本気でこの寡兵で戦うおつもりですか」


 狐狼の居住区には、目下数百に上る狐狼が保護されている。しかしその中から女性と子ども、それに傷病者を除いた者の数は、せいぜい二百程度に留まるはずだ。蒼凌もよもや正面から戦うつもりは無いだろうが、撤退戦を選ぶとしてもこの兵力では到底一国の軍を把握している王側に太刀打ちできるとは思えなかった。

 そう考えた時に、この居住区は元来丈夫な壁に囲まれているし、並の屋敷よりよほど広々とした内部には畑もあれば工房もある。立てこもるにはうってつけの場所であると言って差し支えなく、一見この場に籠城して抗戦する方が有効とも思える。


 しかし、同時に春覇には、蒼凌が絶対にそうしないであろうことも薄々予測できた。


 ここに留まって防戦に徹するなら、それは十数年前の時と何ら変わりはない。大きな傷を負って生き残ることになったあの時の二の轍を蒼凌が踏もうとするとは思えない。

 第一籠城は本来、事態の好転を齎す要因がいつか来ることがわかっているからこそ有効な策である。今の彼らには、そうした希望は存在していない。籠城は緩やかな滅びしか意味しないであろう。


「時に精鋭の寡兵は烏合の大軍に勝る。もっとも、難しい状況であるには違いないが」

 蒼凌もまた、決して楽観はしていない。しかし、彼は兵を率いる者として、仲間達の前に悲観的な態度を晒すわけにはいかなかった。春覇はそれを理解しつつも、輔佐する者として現実的な問題に切り込まざるを得ない。

「しかし今回の出兵はあまりにも急です。補給は確保できるのですか」

「ああ」

 頷いた蒼凌は、傍らに控えている章軌に目をやった。章軌が一つ頷いて、居住区の中心部に並ぶ蔵を指差す。

「居住区内の全員が一年間生きていけるだけの食料、武器と物資の備蓄、それらを運ぶ荷駄と馬の準備、全て万端だ。道中で水を補給できるよう進路を考えれば、少なくとも数か月は戦い続けられる」

「なっ……」

 春覇は絶句した。いつの間に、と思う。


 居住区の管理者は春覇の名義になっている筈だ。その実務は章軌に任せていたとはいえ、そんな、あたかもこの都で孤立し、戦闘になることを見据えたかのような蓄えを普段から行っていようとは。

 そう考えて、春覇は背筋が寒くなった。


 そう、戦闘を見据えた準備を、普段から行っていたのだ、章軌は。そして先程のやり取りからして、それは全て蒼凌の指示であったに違いない。

 つまり、この紀蒼凌という太子は、十数年前と同じような事態に陥った場合を見越して、政府に対抗するための力、場所、物資を常備していたということになる。俗に備えあれば憂いなしとは言うが、これはあまりにも十全な備えではないか。更に想像を重ねれば、居住区のすぐそばに彼の最も信頼する将軍である鴻宵が居を構えていたのも、決して偶然ではないのかもしれない。


 春覇は理解した。

 蒼凌は、十数年前のあの日から、一度たりとも父王を全面的に信用してはいなかったのだ。


「非戦闘員には我々が出た後、工房内に立て籠もるよう言ってある。残りの約二百人が我々の兵力だ」

 淡々と言って、章軌は蒼凌に冊子を渡した。どうやら、戦闘に参加できる人員の名簿であるらしい。受け取った蒼凌は、一言、「悪いな」と詫びた。

「結局狐狼を巻き込んでしまった」

「構わない。どのみち、お前と春覇がいなくなればこの国で生きていけなくなる者達だ」

 狐狼達はそもそも、春覇とその理解者である蒼凌の庇護があって初めて碧国内での居住を保証されているのだ。彼らが失脚すれば、ここにいる狐狼達もまた明日をも知れぬ身になる。故に、共に戦うことに異存は無いのだと、章軌は言う。


「蒼凌様、覇姫様」

 工房から何かを担いでやってきた狐狼達が、彼らに声をかける。普通身分が下の者は貴人の名を直接呼ばないものだが、蒼凌を太子と呼ばないのは、彼らの一種の気遣いであった。

「お二人の鎧です。以前よりこの日の為に拵えておりました。お使いください」

 がしゃり、と音を立てて、貴人の鎧にしては簡素ながら質の良いことの伺える鎧が箱から出される。二人は顔を見合わせ、同時に章軌を見た。

「恩返し、というものだ」

 寡黙な彼らの友人は、そう一言だけ言うと、黙って二人の前に鎧を置いた。




 とある屋敷の回廊を、一人の少年が歩いている。洗練された所作で歩を進めた少年は、目的の部屋に辿り着くと、そこに控えていた侍臣に顔を見せた。侍臣が声を上げ、中へと取り次ぐ。


「通せ」

 部屋の主の返事を待って、少年は部屋の戸口を潜った。室内にいた初老の男に向かい、綺麗に一礼してみせる。

「ただいま戻りました」

 男はすぐに椅子から立ち上がると、年若い少年に対するには幾分過剰とも思えるような丁寧な答礼をし、少年に椅子を勧めた。

「ようこそお戻りで。今、茶を用意させます」

 どこまでも腰の低い男である。しかしその目は決して従順な者のそれではなく、野心を秘めた鋭さが覗いていた。

「いえ、どうぞお構いなく」

 少年もまた丁寧に言って頭を下げ、それから目を上げて言った。

「少々礼儀が過ぎるのではありませんか。私はあなたの『息子』なのですよ、『父上』」


 少年の言葉に、男は笑った。

「心得ておりますとも。ご心配なさらずとも、ここに余人の目はございません」

 そんな答えを返して、少年の前に茶器を置く。

「上機嫌ですね」

「それはもちろん」

 少年の問いを強く肯定した男は、口の端にどこか狡猾な笑みを浮かべた。

「何者か存じませんが、鴻宵を排除してくれたのは大変都合が良い。太子と王の不仲は決定的になり、今や次代の王座に就くべき者は消え去りました」

「何をおっしゃるか。まだ詠公子が……」

 反論しかけて、少年ははたと言葉を止める。軽く目を瞠って男を凝視し、やがて徐に口を開いた。


「まさか……詠公子に、何をしたのですか」

 男は答えない。ただ、静かに笑っている。少年はほんの少し眉を寄せた。

「早まったことはなさらないようにと申し上げたはずです。」

「なに、この混乱の中、我らに辿り着く者などおりますまい。却ってあれを放置すれば、太子の擁護に回ったでしょう」

 男は含み笑いとともに言うと、少年の向かいに座った。

「これで無事、王が太子を排除してくだされば万々歳というものです」

「自ら血筋を絶やすような愚を、王が犯すでしょうか」


 いくら蒼凌が憎くても、詠翠がいなくなってしまえば、王の血を引く者は彼だけになってしまう。今後更に息子が生まれる保証も無いというのに、彼を殺すだろうか。


 少年の至極真っ当な意見に、男はそれでも笑みを崩さなかった。

「詠公子のお命が無いとわかってしまえばそうでしょう。しかし公子は現在行方知れずです」

 男の表情に、初めて苦みが混じる。

「もともと、公子には太子が片付くまでの間、表向き行方をくらませていただくつもりでいたのですが」


 その核心をぼかした言い方の真意を、少年は正確に読み取った。目の前の男は大胆にも、公子詠翠を殺害したうえでその遺体を隠匿し、生死不明の状況を作り出すつもりだったのである。


「ところが、邪魔が入りまして」

「ほう」

 少年の目が興味深げに光る。しかしその、目の前の男の思惑に完全に沿うものではない態度は、瞬き一つで無表情の奥に隠され、対面する人物に悟られることはなかった。


「邪魔、とは。あなたの様子を見るに、深刻な事態ではなさそうですが」

「ええ、現状は私の目論見の通りに動いていると言ってよろしいでしょう」

 男は頷くと、どこか困惑げに腕を組んだ。

「しかし我が手勢を退けて、公子を横から攫って行った者が居るのですよ」

「攫った……」

 少年は目を伏せ、思考を巡らせた。


 現状が男の目論み通りということは、公子詠翠の行方は未だ誰にもわからず、その生死も不明という状況なのは間違いない。つまりその相手は、公子詠翠を暗殺の手勢から救ったというのに、その無事を誰にも知らせることなく秘匿しているということになる。


「太子が斃れるのを待って公子を擁立し、甘い汁を吸うつもりでしょうか」

「利が薄いですな。王が血眼で公子の行方を探しているのにそれを隠し続けたとあれば、王の心証が悪くなりすぎる」

「無論、その場合、その者は公子を即座に王位につけるつもりでしょうね」


 言い方は婉曲だが、要するに詠翠を攫った者は詠翠を大義名分として現王への弑逆を企んでいるということである。そう企む者がいないとは言い切れない。太子が斃れ、王を弑し、詠翠を王位につけることに成功すれば、即位の立役者となった人物は一躍新王に恩を売った腹心になり上がることができる。それが普通の考え方なのである。しかしその目論みが成り立たないだろうことは、少年にもわかっていた。


「もしそう企む者が居れば、それは詠公子の性格をまるで理解していない者でしょうが」

「仰る通りです」

 少年の結論に、男は満足そうに頷く。

「そして、此度公子を救い出した者は、そうした企みを持った者ではまずあり得ませぬ。故にこちらも少々困惑しているのですが」

「正体が割れているのですか」

「ええ」

 男は頷くが、すぐにはその相手の名を口にしようとはしない。その持って回った態度に、少年は事態が単純な政争の枠に収まらない次元で推移していることを感じた。


「何者です」

「狂人ですよ」

 端的な答え。少年は眉を寄せた。

「狂人、というと」

「そのまま、文字通りでございます」

 男の声は幾分投げやりに聞こえた。彼自身、その狂人の思惑を測り切れていないということである。

「本物の狂人となって神殿に収容されていた筈の炎狂依爾焔が、公子を攫って行きおったのです」

「炎狂が……?」

 少年は目を瞬かせた。これはさすがに予想外の事態である。

「あの狂態は偽りですか。しかし一体何のために……」

「それがわからぬのが不気味ですな」

 そのまま、二人の間には沈黙が降りた。


 炎狂が公子を攫うのに、利点など無い。祖国を滅ぼした碧への復讐というのなら、内争によって混乱している王城を焼き払えばいい。丸ごと燃やすのは無理としても、朝廷の機能を麻痺させこの国を実質的な滅びに追い込むだけの力が依爾焔にはあり、それを許すだけの隙が今の碧にはある筈だった。公子を攫って混乱を深めるというのも、手段としてはいかにも迂遠であり、彼らしくない。


 黙りこくった少年の思念には、涯氏邸を焼き払った炎が浮かんでいた。あれは人の力でなされたものではない。だが炎狂の仕業ではないことは神殿に詰めていた役人たちと覇姫の証言により証明されている。


 何より、あれは炎狂の声ではなかった。

 そう考えた時、彼の脳裏にもう一つの炎が浮かんだ。そしてその炎を齎した人物を思い出す。そののびやかで明るい声も。


「――ああ、そうか」

「どうなさいました」

 未だ、炎狂の目的も、詠翠の行方もわかりはしない。ただ一つだけ、少年にはわかったことがあった。

 一連の騒動の引き金を引いたのは、危うい均衡の中でそれでも表面上の安定を保っていた碧の情勢、その積み石の上にそれを崩す最後の一つを乗せたのは。


「何でもありません」

 少年は男の訝しげな問いに微笑で答えて、ゆっくりとその思考を閉じた。


 今は彼が考えても意味のないことである。今の状況に絡む思惑は決して一つではあるまい。

 その一つが誰かの主君に対する裏切りであったとしても、彼には関わりのないことなのだ。


「何にせよ、状況はあなたの目論み通りなのでしょう。ならば私が心配すべきことは何もありますまい」

 少年が言うと、男は頷いた。その得意げな笑みの気配を感じながら、少年は渦中の太子に思いを馳せる。


 王とその近臣は、血眼で太子を探している。詠翠の死亡が確認されていない以上、殺す気で探している筈だ。太子はさぞかし不快なことだろう、と、少年は内心少しだけ同情した。何しろ、十数年前、前太子が乱を起こした時と同様、これは骨肉の争いである。太子の胸中に、あの時の辛い思いが蘇らないわけがない。

 またそれ故に、太子がこのままみすみす討たれるとは、少年には思えなかった。あの男は、周囲の者が思うよりもずっとしたたかである。父王と対立した時に身を守るに足るくらいの備えは、している筈だと少年は見ていた。


 もっとも、少年はそれを口に出しはしない。目の前にいる男にそれを告げたところで、今の様子では用心のし過ぎだと一笑に付される可能性も高いし、本気にしたところで、現状打てる手があるとは思えない。

 何より、少年は心のどこかで期待しているのだった。この絶望的な状況を、あの男がどのようにひっくり返して見せるのか。彼がそれを成し遂げられる男であるなら、彼を追い落とそうと画策する者達こそ愚かなのだろう。

 少年は見極めたいのだ。これまで自分を育て、利用してきた者達に、彼は心を許しているわけではなかった。今はどこまでも冷静に、どちらに与するべきかを見極めるべき時だと思っている。


「お疲れのようですな。まずはお休みを」

 男が礼をするのを片目で見遣って、少年はゆっくりと目を閉じた。


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