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夢の中で

数千年ぶりの眠りの中で見る夢は、とろりとした灰色をしていた。

 これまで生きてきた長すぎる時間の残骸を煮溶かしたようなその夢の中を、朔夜はゆっくりと彷徨う。


 出会いがあった。

 別れがあった。

 苦しくて気が狂いそうだった。

 それでも安らぐ時間もあった。


 そんな朔夜の夢に、ゆるりと異物が現れる。

 灰色を侵食するようにして徐々に形を成したそれは、水面だった。覗いてみれば、どこまでも青く透き通り、底が見えない。そしてその水面は、覗き込んだ朔夜の顔を一切映さなかった。

 普通の水面ならば、異常なことである。しかしこの水面がただの水面でないことを知っている朔夜は、驚きも騒ぎもせずただじっとそれを眺めていた。


 やがて、水面に変化が訪れる。何も映さなかったそれが、徐々に白く染まってゆき、やがて真っ白な空間を映しだした。朔夜は白く染まった水面に、そっと手を触れる。

「久しぶりだね、神凪さん」

 次の瞬間、朔夜の意識は水鏡の向こう側に引き込まれていた。


 そこは水面越しに見た通り、真っ白な空間だった。

 天も無ければ、地も無い。

 ただただ白いだけのその空間を見渡した朔夜は、そこに横たわる人の姿を見て目を細めた。


 眠るように瞳を閉じて横たわる彼女は、朔夜の記憶にあるよりもいくらか大人びている。彼女の時が進んでいることを見出して、朔夜は少しだけ複雑な心境になった。

 彼女の時は進んでいるのに、朔夜の時は止まったまま。彼の方は、以前彼女と会った時と寸分たがわぬ姿なのである。慣れてはいても、改めて突き付けられると愉快な感覚ではなかった。


「神凪さん」

 声をかけてみるが、彼女が目覚める気配はない。

 宗也から話は聞いていたが、夢の中ですら意識を活動させられないくらいに弱っているのだろうか。そう考えて彼女に手を触れようとした時、それに待ったをかけた存在がいた。


「彼女は今、夢を見ているの。そっとしておいてくれないかな」

 朔夜が振り向くと、声の主が姿を現す。朔夜は軽く首を傾げた。

「夢を?夢の中でか」

 その響きの不思議さに目を瞬かせながら、眠っている彼女を見る。


 顔色は青白く、血の気が失せて見えた。傷を負わされて瀕死だと聞いた、その前情報を裏付けるような様子である。

 そう感じた朔夜は、思わず呟いていた。

「走馬灯じゃないだろうね」

「うん、ひょっとしたら近いものかもね」

 冗談のつもりの一言にそう返されて、朔夜は眉を上げる。

 人が死に瀕した時、脳裏にこれまでの人生が走馬灯のように駆け巡るという。それを見ているとなれば、話は穏やかでない。


「彼女が見ているのは人生だよ。もっとも、彼女自身のものではないけれど」

 朔夜に語りかける存在は、そう言って肩を竦めた。高い位置で一つに束ねられた黒髪が、さらりと零れる。

 朔夜は小さく頷いた。

「つまり、彼女は今あなたの人生を見ているわけだ」

「ご名答」

 朔夜の目の前に立って、その人物はにこりと笑った。


 そこに横たわる人物と、瓜二つの顔で。


「変わっているね。あなたと彼女、二つの意識が共存しているのか」

 朔夜の言葉に、彼女は一つ頷く。

「私も驚いた。確かに私は彼女で彼女は私なのだけれど、彼女と私の辿ってきた道筋は当然違うし、彼女は意志の強い人だから、私とすんなり同化できなくてこんな不思議なことになったようだよ」

 そう説明した彼女は、何もない空間にふわりと座った。

「いずれ、彼女がこの記憶を消化する時が来れば、私の存在は彼女の一部になって消えていくんだろうね」

「そうだね。それが世の理だ。もっとも、君の方が自我が強ければ、全く逆の結果になる可能性もまた、否定はできないけどね」

 朔夜がそう補足すると、彼女は肩を竦める。

「よくわかってる。さすがは太古の神候補」

「そんな大層な者じゃないよ」

 苦笑交じりに首を振る朔夜の前に、彼女はすっと腕を伸ばす。その指先は、眠っている彼女を指し示していた。


「何なら、一緒に見てきたら。これからこの世界に関わるなら、知っておくべきことが幾つもあると思うよ」

 夢の中の、更に夢の中へ、潜る。

 確かに、朔夜にならばできないことではなかった。

 しかし、彼は首を横に振る。

「それより、あなたと話をすべきだろうね」

「私と?」

 首を傾げる彼女に、朔夜は微笑みかけた。

「天帝が俺を彼女の夢の中ではなくここへ導いたというのはつまり、そういうことなんだろうから」

 水鏡の繋いだ先はこの場所だった。ならばそれに従うべきだと、朔夜は言うのである。


「でも、何を話せば……」

 彼女は困惑気味に朔夜を見た。朔夜は目を細める。

「そうだね」

 たとえば、と言って、彼はいつも屋敷にやってくる客人達にかける言葉を口にした。


「あなたの願いは、何かな」



 一通り話を終えると、朔夜は未だ眠っている人影に歩み寄った。

 青ざめた頬に手を当て、そっと額を合わせる。

「これから、幾つもの困難があるだろう。苦しい選択を迫られることもあるかもしれない。全ての清算が君に回ってしまうことになる」

 彼女に聞こえていないことは承知の上で、否、聞こえていないからこそ包み隠さず、朔夜は囁いた。

「その肩に負うものはあまりに重いけれど、それに敗れることのないように」

 嘗てこちらの世界にいた頃の言葉で、祈りと祝福を口にして、軽く額に口づける。ふわりと暖かい光が彼女の全身を包み、青ざめた頬に血の色が差した。


「今回の俺の役目はこれで終わり」

 そう言った朔夜は、振り返ってもう一人の彼女に笑いかけると、水鏡へと足を向けた。そうして背を向けたまま、語りだす。

「あなたのしたことは、そちらの世界への反逆行為。当然、相応の軋轢を生む。最悪、守護神達を二つに割っての大戦にもなりかねない」

「……わかってるよ」

 彼女は苦笑交じりに答えた。

「覚悟はしている。あの時の選択を後悔はしていないけれど、これから大変になるのはわかっている」

 朔夜は背を向けたまま聞いている。その目の前で、水鏡はじわりじわりと濃灰色を映し始めていた。


「責任を持って収拾するつもりだよ。今の私の、精一杯で」


 朔夜は肩を竦め、ちょっと呆れたように笑った。

「恐ろしく前向きだね。神凪さんそっくりだ」

「それは違うでしょう」

 朔夜の言葉を聞いた彼女は、思わずといった風に苦笑を漏らす。

「あの子が私に似ているの」

「あ、そうか」

 朔夜はくすりと笑った。どこか暖かな声だった。

「だったら、この先のことも、耐えられるかな」

「うん、きっと」

 彼女が頷くのを肩越しに見て、朔夜は片手を上げた。

「それじゃ、俺はこれでお暇するよ。幸運を」

「うん」

 軽く挨拶を交わして、朔夜は水鏡に踏み込む。ぐるりと視界が回って、彼は自分の夢の中、とろりと濃い灰色の空間へと戻ってきた。


「清算、ね」

 ぽつり、と、先程自分で彼女に言った言葉を呟く。

「俺も、色々清算しておかないといけないかな……」

 その言葉は誰の耳にも届くことなく、灰色の夢の中にぽとりと落ちて、溶け込んでいった。


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