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水鏡の波紋・上——ひとつの終わり

 え、と少年を見返した宗也は、さっと顔を赤くした。はぐらかされたか騙されたか、とにかく自分の望むものとは違うと思ったのである。

「夢、って……俺は灯宵の幻影に会いたいわけじゃなくて……!」

「うん、わかっているよ。誤解しないでほしいのだけれど」

 宗也の抗議を柔らかく受け流して、少年は微笑んだ。

「俺は貴方に彼女の幻に会わせようなんて思ってはいない。今の彼女に会わせてあげたいと思っているよ。ただ、彼女のいる場所はこの世界ではないんだ」


 少年は縁側から立ち上がると、宗也を手招いて池の畔に立たせた。

「水鏡を利用して彼方とこちらを繋げることは、俺にもできる」

 でも、と断って、少年は眉を下げた。

「たとえ世界が繋げても、移動できるのはもう一方の世界に縁を持つ者だけ。だから俺には、貴方を通してあげることは出来ない」

 それを証明するかのように、少年はばらりと扇子を広げ、水面に翳した。それまで星空を映していた水面が揺らぎ、見知らぬ風景を映し出す。

「……これは?」

「彼女のいる場所、の筈だよ。俺も彼方からは拒絶されているから、縁のある場所しか映せない筈だし」

 灯宵の、居る場所。

 宗也は緊張を胸に水面を覗き込んで、言葉を失った。


 そこは、鬱蒼とした森だった。木々の間に切り立った斜面が見えるから、山なのかも知れない。そこには淀んだ霧が立ち込め、妙な寒々しさが漂っていた。

 こんな場所に、灯宵はいるのだろうか。濁った空気の充ちたこの場所で、彼女は生きているのだろうか。


「……妙だな」

 宗也と同じく水面を覗き込んでいた少年が、眉を寄せた。

「ここは彼女の居場所じゃない。これは……」

 彼の言葉が終わる前に、霧が動いた。黒い巨大な影が滲むように現れ、赤い目を光らせる。

「うわ……!?」

 本能的な恐怖を感じて思わず後ずさった宗也を追うように、影が(あぎと)を伸ばす。

 食い付かれる、と身を縮めた瞬間、湖面が割れた。高く水飛沫が上がる。水面が乱れ水鏡が消失すると同時に、得体の知れない怪物もまた姿を消したようだ。


 宗也は怖々と目を上げた。

 水面を割ったのは、繊細な装飾の施された青龍刀であった。

「助かったよ、玄玲(げんれい)

 あのような目に遭ったにも関わらず涼しげな顔をした少年が青龍刀の持ち主に礼を言う。

「大した事ではない」

 平静な声で答えたのは、黒衣の女性だ。青龍刀を手元に引き戻した彼女が水面を覗き込むも、そこには常と変わらぬ星空を映す池があるだけであった。


「さ、さっきのは、一体……」

 声の震えを抑えられないままに、宗也は少年に問いかけた。少年は何やら考え込むように顎に手を当てる。

「無縁の場所には繋がらない筈だ。となれば……」

 縁が無い場所には繋がらない、だからこそ、ここで開く水鏡は灯宵のいる場所に繋がる筈だった。

 ならば何故、違う場所を映したのか。

 宗也には、灯宵以外にあちらとの接点など無い。

 ということは。


「俺と関わりが有るということか」

 呟いた少年の表情からは、当初の穏やかな余裕が抜け落ちていた。

朔夜(さくや)

 青龍刀を携えたままの女性が少年を呼ぶ。

「先程の化け物は何だ?妖怪にしては自我が無いように見えたが」

 彼女の指摘に、少年、朔夜は頷いた。

「そうだね。自我はなくしているようだった。俺もああいったものを見たことがあるわけではないから確言はできないけれど、恐らくは加護の得られない土地で凝り固まった、何らかの邪気に憑かれたものだろう」

 加護、邪気、と宗也には馴染みのない言葉が飛び交っているが、彼らの言うことを疑う気にはなれなかった。常識の中で判断を下すには、今日の宗也は不思議な目に遇いすぎている。


「問題は、何故それが水鏡の向こうに現れたのかというところだね」

 襲い掛かってきたのは、自我無きが故の本能だろう。

 そう結論付けながら、朔夜は真剣な顔で再び池を覗きこんだ。つい、と水面に指を走らせる。

「……俺もあの手の化け物と同じ、負の存在ということかな」

「朔夜」

 自嘲気味に呟かれた言葉に、玄玲が咎めるように呼びかける。朔夜は軽く手を振って立ち上がると、宗也に向き直った。


「済まなかったね、妙なことになって。夢はうまく繋がる筈だ。どうする?俺を信じられそうかな?」

 宗也は朔夜を見詰めた。宗也よりずっと年下の筈の彼は、内心の読めないやけに老成した微笑みを湛えて宗也を見返してくる。


「……頼むよ」

 決断まで、そう時間はかからなかった。

 灯宵に会うための、恐らくこれは最初で最後の機会なのだ。たとえリスクがあったとしても、逃したくなかった。

「承知したよ。玉藤、準備を」

 朔夜が表情を変えないまま、家の方に呼びかける。すっと誰かが動く気配がした。


「では、中へどうぞ」

 朔夜が宗也を促す。

「眠って貰わなくては、夢は繋げないからね」



 通された部屋には、何とも言えず安らぐ香りの香が焚かれていた。若い女性が布団を敷くのを見て、何となく居心地の悪さに襲われる。視線を彷徨わせた宗也は、ふと女性の頭に目を留めて驚愕した。

「あの、さ……ここの人達って……」

 何と言ってよいものかわからず、言葉を濁しながら朔夜に問いかける。朔夜はああ、と頷いて、微笑んだ。

「世間一般に言う、妖怪というやつだね。因みに人間は俺だけだよ」


 人間は朔夜だけ。

 告げられた事実に、宗也は唖然とした。


「え、と、じゃああの人の耳は……」

「本物だよ。玉藤は妖狐だからね」

 どうやら知らず知らずのうちに、とんでもなく非日常な場所に踏み込んでしまっていたようだ。

「あの占い師も、人間じゃないのか」

「甲玄の事かい?あれは庭の池に住んでる亀だよ」

 くらりとした。つまり宗也は、亀に酒をせびられたわけだ。

「じゃあ、さっきの女の人も?」

 物騒な青龍刀など抱えていたから、普通の人ではないとは思っていたけれど。

「玄玲は龍神。ここに居る中で一番格上だから、怒らせないことをお勧めするよ」

 悪戯っぽく言われるが、正直それどころではない。龍神ともなれば、妖怪というよりはれっきとした神ではないか。

 宗也は思わず額を押さえた。


「まあ、あまり難しく考えないことだ」

 朔夜が笑って、手にした扇子の先を宗也の額に当てる。

「そろそろ頃合いかな。――行ってらっしゃい」

 その言葉を耳にしたのを最後に、宗也の意識は途切れた。



 気が付いた時、宗也は実家の物置に居た。

 いや、物置ではない。失われた記憶の中で、そこは灯宵の部屋だった筈だ。

 埃避けの布がかぶせられた机をそっと撫でる。

 灯宵はここで勉強していた。休みの日ともなると宗也達一家の団欒を邪魔すまいと部屋に籠りがちになる灯宵を案じて、宗也はしばしばちょっかいをかけに行ったものだ。その度に迷惑そうな顔をしながらも、宗也が笑い話をすれば灯宵はほんの少しだけ笑ってくれた。


 いつからだろう。

 その僅かな笑顔を見るのが堪らなく嬉しくなったのは。


 思い出にふけっていた宗也の視界の隅で、何かが動いた。そちらに焦点を合わせると、いつも空だった筈の金魚鉢に水が張られ、その水が波打っているのだった。水面を覗き込んでみると、徐々に映る景色が変化していく。

 ――ここから、渡るってことか。

 幾分緊張している自分に気付いて深呼吸しながら、宗也は水面を見詰めた。やがて、ふいにそれがぐっと近づくような感覚と共に、冷たい水の中に放り込まれる。


「ぷはっ」

 水に包まれたのは一瞬だった。すぐにどこか別の空間に投げ出される。掌で顔を拭うと、既に体のどこも濡れてはいなかった。さすがは夢の中というべきか。理不尽だが便利なものである。


 そこは不自然なほどに真っ白な空間だった。周囲を見渡した宗也は、そこに座り込んでいる人影を見つける。

「あ……」

 立膝をして座り込み、ぐったりと俯いているように見えるその人物は、宗也の知らない格好をしていた。

 けれども、宗也は確信する。

「灯宵……」

 最後に会った時よりも、幾分大人びたようだ。それに、痩せただろうか?どうも男装しているらしいところも気にかかる。

 けれどもそれは確かに、会いたいと切望した人だった。


「灯宵!」

 宗也は彼女に駆け寄ると、座っている彼女の前に屈んだ。眠っているのだろうか、がっくりと俯いたまま微動だにしない彼女の肩を、遠慮がちに叩いてみる。

「灯宵」

 肩をゆすりながら呼び掛けると、垂れていた首がぴくりと反応を示した。俯いていた顔が緩慢に持ち上げられ、ぼんやりとした瞳が宗也を映す。

「灯宵、俺がわかるか」

 宗也の問いかけに、彼女は何度か目を瞬かせた。徐々に焦点がはっきりしてくる。

「宗、也……?」

「そう、そうだよ、灯宵!」

 覚えていてくれた。それだけのことに胸が躍る。

 訝しげに宗也を見上げていた灯宵は、ふっと笑った。

「夢、か……懐かしい。その呼び名……」

「夢じゃない!あ、いや、夢は夢なんだけど……なんていうか……」

 ただの夢だと片付けられたくない、その一心で言葉を探すが、うまく言い表せずに、宗也は頭を抱えた。

「その、俺は、本当に来たんだ。夢を渡って……水鏡を潜って!」

 苦し紛れの説明に、微睡むように微笑んでいた灯宵が目を開く。

「水鏡を……?」

「そうだ。不思議な少年に手助けしてもらって……」

 宗也が必死に言い募ると、灯宵は何やら考えるように目を伏せた。

「神代か……?神代朔夜……」

 灯宵の口から出た名前に、今度は宗也が驚く。

「そう、朔夜っていった……知ってるのか、灯宵」

 宗也の問いかけには答えず、灯宵は真っ直ぐに宗也を見詰めた。その真摯な眼差しに、一瞬胸が高鳴る。


 しかしすぐに、宗也は異変に気付いた。

 当初から灯宵はどこか眠そうというか気だるげであったが、よく見ると顔色が酷く悪い。その上、彼女の手は腹部を庇うように抱えていた。

「灯宵……腹、どうかしたのか」

 思わず尋ねると、灯宵は苦笑に似た表情を浮かべた。その足元、白かった筈の空間に、じわりと赤い色が滲み出る。

 ――血だ。


「灯宵!どうしたんだ」

 慌てる宗也を押し留めて、彼女は気丈に笑った。

「いいんだ。これは夢なんだから、宗也が慌てても何も変わらないよ」

「と言ったって……!」

 宗也はぎりっと奥歯を噛み締めると、灯宵の肩を掴んだ。

「灯宵、戻って来い」

 危険な目に遭っているのだろう。そんな場所に、置いておけるはずが無かった。

 しかし彼女はふわりと笑う。それは明白に、拒絶の笑みだった。


「急にいなくなって、ごめん」

 突如として、灯宵が当時の事を話題に出す。

「あれから、こっちで足掻いたり、戦ったり、辛いことも楽しいこともあって……」

 こほ、と力なく咳き込む灯宵を、宗也は支えることしかできない。

「大切なものも、結構たくさんできたんだ。まだまだ、やらなきゃいけないこともある」

「灯宵……」

「心配してくれてありがとう。でも」


 ――私は、ここで生きていくよ。


 宗也は黙り込んだ。

 あちらにいた頃、灯宵のこんな笑顔を、宗也は見たことが無い。たとえ危険であっても、今の方が灯宵には幸せなのかもしれない。だとしたら、宗也に一体何が言えるだろう。

 彼女が一番苦しんでいた時、救ってやれなかったどころか、追い打ちをかけるような真似までしてしまった宗也に。


「こっちこそ、ごめん、灯宵」

 彼女の手を取って、宗也は詫びた。

「灯宵が一番苦しい時、俺がしたことは最低だった。謝って済むことじゃないとはわかってるけど、ごめん」

 頭を下げた宗也の後頭部に、灯宵の手が触れた。

「顔を上げて、宗也」

 促されて、頭を持ち上げる。灯宵は、目元を緩めて微かに微笑んでいた。

「私も過剰反応してしまってごめん。色々なことが複雑に絡み合ってああなってしまったんだと思う。宗也も、それからみきも、恨んだりしてないよ」

「灯宵……」

 宗也は思わず手を伸ばして、彼女の頬に触れた。青ざめたその肌は、驚くほど冷たかった。


「来てくれて嬉しかった。お互い、これで清算したことにしよう」

 灯宵はそう言って、宗也の頭をぽんと叩いた。

「それぞれの世界の理の中で生きる以上、きっともう私達の人生は交わらないだろうから」

 宗也は何か言おうとして、結局何も言えずに唇を震わせるに留まった。

「あの家の中で、一番優しくしてくれたのは宗也だった。色々気遣いありがとう。感謝してる」

 灯宵がそう言った時、宗也の傍らに唐突に波紋が生じた。それは徐々に広がって、水面を形づくる。

 時間切れだ。


「灯宵……俺の方こそ、ありがとう」

 溢れる想いに対して、言葉はなんと無力だろう。結局言うべき言葉を見つけられず、宗也は半ば水面に呑みこまれながら手を伸ばした。

「さようなら」

「ああ……さようなら」

 別れの言葉と共に、彼女を引き寄せる。

 冷たい額に、そっと唇を落とした。




 目を覚ました宗也は、暫しぼんやりと天井の木目を見詰めていた。ふわりと漂ってくる香の煙に、徐々に状況を思い出す。


「伝えられたかな、彼女に」

 宗也が身を起こしたのに気付いて、傍らに座って何か書き物をしていた朔夜が問う。宗也は小さく頷いて、そっと目元を拭った。

 これは正真正銘、永遠の別れとなるのだろう。


「さて、それではお帰りいただく前に」

 朔夜がそんな風に切り出したものだから、宗也は思わず何らかの見返りを要求されるものと思って身構えてしまった。財布の中身が少々心配になる。

「え、と……いくら払えばいい?」

「うん?」

 しかし宗也の問いに対して、朔夜の反応は意外なものだった。

「ああ、金品を要求する気は無いよ。もとはと言えば俺が引き金になったことだし」

 それに、と続けて、朔夜はくすりと笑った。

「甲玄に酒をせびられたろう?お代はそれで十分さ」

「そう、か……」

 安堵したような、どことなく釈然としないような、そんな心地で宗也は息を吐いた。そんな彼の顔を、朔夜が覗き込む。


「俺が言いたかったのは、後始末のことだよ」

「後始末?」

 首を傾げる宗也に、朔夜はゆっくりと頷いた。

「つまり、君を世の理の中に戻す、という作業をしなければならない」

 世の理。

 幾度か耳にしたその響きと共に、宗也は思い出した。


 あの夏の日、朔夜に触れられた彼は、それまで思い出していた筈の灯宵の存在を再び忘れた。今度もまた、そのようにしなければならないのだろう。

 そして今度は、二度と思い出すことは無い。


「覚えていては、駄目なのか……」

「君の生活に差し支えるし、世の理に反する存在にはどんな事態が降りかかるかわからない。お勧めしないね」

 宗也は俯き、目を閉じた。


 ここで、振り切るべきなのだろう。

 思い出も、この想いも、何もかも。


「悲観的に捉えることはないよ」

 朔夜の柔らかな声が耳を打つ。

「忘却は人に与えられた権利だ。前を向くために、時には必要なこと。そうして人々は時を紡いでいくのだろう?」

 清算しよう、と灯宵は言った。つまりは、そういうことなのだろう。

「わかった」

 吐息と共に言葉を吐きだして、宗也は朔夜に向き直った。

「ただ、その前に一つ、教えて欲しい」

「何だい?」

 耳を傾けてくれる朔夜に、宗也は最も気になっていたことを告げた。

「夢の中で、灯宵はぐったりしていた。顔色も悪かったし、腹を庇って……血が滲んで、怪我をしているようだった」

 朔夜の表情が僅かに険しくなる。宗也は続けた。

「夢の中のことだ。現実とどのくらい対応しているのか、俺にはわからない。けど、ひょっとして灯宵は、危険な目に遭っているんじゃないだろうか」

 沈黙する朔夜に、宗也は真っ直ぐ視線を注ぐ。やがて小さく息を吐いた朔夜が、彼と目を合わせた。


「前回帰ってきたとき、彼女は向こうは乱世だと言っていた」

 乱世。ならば灯宵も、戦っているのだろうか?

「恐らく、危険は承知の上で戻って行ったのだと思うよ。俺にも詳しいことはわからないけれど」

 ふわり、と朔夜は笑みを浮かべた。

「彼女のことだ。支える人は多いに違いないし、俺もできるだけ目を配っておこう。心配いらない。彼女には呪いを施してあるし、そう簡単に死んだりはしないよ」

 朔夜の手がくるりと扇子を回し、その先端を宗也の額に当てた。


「そろそろ、いいかな」

「……ああ」

 頷いて、宗也は目を閉じた。額からするりと冷たい何かが流れ込んでくる。


 ――さようなら、灯宵。恐らくは、永遠に……。


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