水鏡の波紋・下
全てを忘れた宗也を見送った後、朔夜はその柔和な表情を険しいものに変えた。庭へ向かい、池を覗き込む。
「ここから覗いたところで、見えるわけでもないのだけれど……」
先程一度水鏡を開いて以来、道は閉ざされたままだ。どうやら朔夜は本格的にあちらから拒絶されてしまったようだった。
「気がかりか」
玄玲の問いに、朔夜は難しい顔をした。
「夢とはいえ、彼が入り込んだ場所は比較的明晰な深層意識の中の筈なんだ。そこで、ぐったりしていた。肉体の損傷と関わりの無い筈の夢の中で……」
考えを整理するように呟いて、朔夜は水面に触れる。
「つまり、彼女の意識もそれだけ弱ってしまっているということだ。恐らくは……」
その先を口にすべきか否か、躊躇うような間を開けて、朔夜は小さく息を吐き出した。
「生と死の狭間に、彼女はいる」
その言葉は、重い。玄玲も口を噤んだ。
その背後の空気が、音も無くゆらめく。ちりん、とどこかで鈴の音が鳴った。朔夜は物思いから意識を退き戻し、背後を顧みる。
「今日は何も、悪さはしていない筈だけど」
呟くように発せられた言葉に呼応するがごとく、二つの気配がそこに現れ、人の姿を取った。
「していないとも。この度は処罰に来たわけではない」
二つの気配のうち一方が、朔夜の言葉に答える。全身真っ赤な衣服を纏った男である。やや憮然とした面持ちだが、もう一人の人物があからさまに舌打ちしたのに比べればまだしも紳士的な態度といえよう。舌打ちの主は、片割れとは対照的に真っ白な衣服を身に纏っていた。
「こんなもの、本来我々の職掌ではない」
舌打ちに続いて零された言葉に、赤い着物の男は肩を竦めた。
「我々は平時何かとお前と接点があるのでな。押し付けられたに等しい」
そんな裏事情を口にする彼らをじっと見据えて、朔夜は苦笑した。何しろこの二人ときたら、本当に心底嫌そうなのである。随分嫌われたものだ、と内心感嘆しつつ、朔夜は話を前に進めるべく口を開く。
「それで、用件は何かな、北斗神君に南斗神君」
白い着物の男が北斗神君。北斗星の神にして死を司る者である。それと対になるのが、赤い着物の南斗神君。こちらは生を司る神。
朔夜の問いに、二人はそれぞれ懐から布きれのようなものを取り出した。そして、それぞれの持つそれの端と端をぴたりと合わせる。途端、二枚の布きれは溶けるように形を変え、一枚の絹布になった。その表面に、文字が浮かび上がる。
「天帝よりの詔勅である」
南斗神君が厳かに口を開いた。
「汝、これより死生あり」
朔夜が目を見開く。
これまで長い時を過ごし、大抵のことに動じなくなった筈の彼にとってすら、それはあまりにも唐突な一言であった。呆気にとられて硬直する彼の胸元に、北斗神君が詔勅の絹布を押し付ける。詔勅が僅かに光り、砕け散り光の粒と化して空気に溶けたと同時、朔夜はずしりと、失っていた何かが体に戻るのを感じた。
それは眠りであろう。
味覚であろう。
ぬくもりであろう。
生であろう。
死であろう。
「あ……」
「されど」
一瞬の出来事に言葉も無く呆然とする朔夜に、北斗神君の声が追い打ちをかけた。
「人たることを許さず」
朔夜は息を呑んだ。これより死生あり、ということは、朔夜に与えられた、不老不死のまま色の無い世界を彷徨い続けるという罰は解かれたということに他ならない。
それでいて、人であることは許されないとは、何を意味するのか。
「而して」
南斗神君が淡々と言葉を紡いだ。詔勅にはまだ続きがあるらしい。
「天帝の命を受けよ」
「……司法取引でもしようというのか、天帝は」
ようやくそれだけを言い返す。胸に手を触れてみると、心臓の鼓動が伝わってきた。
これまでだって、無論心臓は動いていた。しかしこれほどに温かみを感じるのは、何千年ぶりだろう。
今、ここに、命があるのだ。
「黙って最後まで聞け」
そう戒めた北斗神君の瞳に、微かな憐憫の光を見た気がした。
「勅」
南斗神君の声が夜気を切り裂く。
「夢を渡り水鏡を潜れ。今危うき命を救うのだ」
それは一見、漠然とした勅命であった。しかし朔夜にはすぐに、その意味が了解される。何故ならそれは今まさに、彼らが話題にしていたことだったからだ。
暫し思案していた朔夜が、ふっ、と笑みをこぼす。
「なるほどね……それにしても、天帝はよほど神凪さんを失いたくないのかな。永劫に渡る罪人の罰を解くことも辞さないとは」
探るように北斗神君を見ると、舌打ちが返ってきた。それ自体はいつもの事なのだが、どうも少し、様子が違う。北斗神君は、どこか苦々しげな顔をしているのである。その対象が自分ではないことを、朔夜は直感的に感じ取った。
「我々も初めて知ったが、貴様のそれはそもそも罰ではない」
「北斗」
南斗神君が咎めるように声をかけるが、北斗神君は一瞥をくれただけで無視した。
「罰ではない、ね……」
北斗神君の暴露した内容に驚くそぶりを見せず、朔夜は含むように笑う。その反応を見て、北斗神君は再び舌打ちをした。
「やはり貴様、薄々感づいていたようだな」
「そうだね……俺の考えが正しいかどうかはわからないけれど」
朔夜はほんの少し苦みを帯びた笑みを浮かべる。朔夜の罪に対する罰ではなく、天帝が朔夜から死を奪い、人間としてごく自然な欲求や感覚をも奪った理由。
「貴方が俺がこの事に気づいていると思った理由が俺の名前なら、多分正しいだろうね」
北斗神君が苦々しげな顔をする。何か言いたげに口を開いてから思い直したように黙り込み、やがて吐き出すように言う。
「……今、貴様が必要になるかも知れん事態に陥っているというわけだ。あちらは」
朔夜の考えが正しいのか否か、北斗神君は明言を避けた。ひょっとすると、真相については口止めされていたのかもしれない。しかし彼の与えてくれた情報だけで、十分朔夜には理解できた。
結局は自分も、天帝の掌の上で転がされる駒の一つにすぎなかったのだと。
「勅命に従うか」
南斗神君が確認の言をあげる。朔夜は苦笑した。
「従うほかないんだろう」
返ってくるのは無論、肯定である。朔夜はそっと目を閉じると、ゆっくりと頷いた。
神々の去った後、庭に立ち尽くす朔夜の傍らに、気遣わしげに寄り添う影があった。
「玄玲……」
俯いたまま、朔夜は低く言った。
「たぶん、別れの時が来る。近いうちに」
玄玲がはっと息を呑み、それから躊躇いがちに朔夜の腕を掴む。その肩を、朔夜は引き寄せ、抱き締めた。
「ようやく、君の暖かさを感じられるようになったのにね……」
寄り添う彼らを、見下ろすは月明かり。
遠く異界の者をも巻き込んで、ついに世界は収束を始める――。