表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/71

狐狼の述懐

 指示を受けた者達が走り回り、蔵から武器や食料を引き出して、戦闘準備を整えてゆく。自身もその中で指揮を執りながら、章軌は彼らの先頭に立つ二人の人物を目で追った。

 一人は十数年来の友。もう一人は最愛の人。

 王城を脱した彼らは、今狐狼達の手を借りて、生き延びる道を開くための作業を進めているのだった。酷く傷つき疲弊しているに違いないのに、二人ともそんな様子をおくびにも出さずに的確な指示を発している。


 思えば、彼らは章軌と出会った頃から、耐えることに長けていた。

 あれはもう、十五年ほども前のことになるだろうか。

 章軌はあの二人に救われて、生きる場所と希望を得た。今ここで働いている同胞達も同じだろう。だからこそ、彼らが苦境に立たされている今、この身を擲ってでも彼らを守りたいと思うのだ。



 二人と出会ったのは、よく晴れた、爽やかな風の吹く日だったと記憶している。明るく暖かな景色も、その時の章軌にとっては灰色の曇天と何ら変わりは無かった。背の高い草に覆われた野の一角に身を隠した章軌は、傷の痛みと疲労に空腹で動けなくなっていた。


 山裾で一家四人、息を潜めるようにひそやかに暮らしていた彼らを襲った、人間たちの迫害。両親は幼い娘を逃がすために自ら囮になった。彼らの遺志を胸に刻みつけ、妹を守ることを己の使命と思い定めていたのに、章軌自身、追われて逃げる途中、崖から足を踏み外し、妹ともはぐれてしまった。その後妹がどうなったのかはわからないが、成年前の狐狼の子どもが一人で生きていくには、この世の中は厳しすぎる。

 絶望の闇が纏わりつくのに、章軌の目は乾いていた。

 五百年、迫害にさらされて加速度的に数を減らしてきた狐狼に、もはや流す涙など残っていないのかもしれない。

 このままここで、動けないままに朽ちてゆく。それが自分に残された運命なのだと思えた。


 遠くから、子どもの声が聞こえる。それを聞くともなしに聞いていると、不意に目の前の茂みが揺れた。

 ひょっこりと顔を出したのは、まだ幼い女の子である。章軌と遭遇してひゃっとばかりに逃げていく精霊達を不思議そうに目で追っているのを見るに、方士としての才能を持ち合わせているのだろう。頭の動きに合わせて揺れる柔らかそうな髪はほんの少し緑がかった青灰色だから、木の加護が強いのかも知れない。

 愛らしい少女だった。あと十年もすれば、さぞや美しい女性に育つだろう。


 彼女は章軌の姿を見ると、小さく首を傾げた。章軌の枷が目に入っている筈なのに、動じていない。まだ狐狼という存在を知らないか、知っていても理解していないのだろう、と章軌は思った。どのみち、関わってもお互いに良い事はない。

 このまま素通りして、できれば狐狼を見たことを誰にも告げないでいてくれればいい。そんな章軌の願いとは裏腹に、少女が口を開く。


「まいご?」

「違う」

 思わず否定の言葉が出た。関わるまいと思っていたのに、あまりに惚けた一言につい反応してしまったのだ。


「春覇?どうした?」

 そこへもう一人、今度は少年が現れた。少女より幾分年嵩であろう少年は、章軌の姿を認めるとはっと表情を引き締めて少女の前に出た。その挙動を、章軌は眩しげに眺める。彼はその薄い肩で、少女を守ってきたのだろう。その姿が妹を守りきれなかった自分に重なって、胸が鈍く傷んだ。


「春覇。知らない相手に無闇に近づくなと言ったろう」

「ごめんなさい」

 少年に叱られて、少女が首を竦める。しかしその瞳から章軌への興味が消えることはなかった。

「それで、そちらはこんなところで何をしている。動けないのか」

 少年が章軌に声をかける。

 章軌は内心苦笑した。しっかりしているようだが、所詮十やそこらの少年だ。彼も狐狼のことは知らないのだろう。人間に正面から言葉を投げかけられたのなど、本当に久しぶりのことだった。

「関わらない方がいい」

 章軌は低木に凭れたまま言った。

「俺は狐狼。人間に疎まれるものだ」

 そう教えれば、頭の回転の鈍いわけではなさそうな二人の子どもは危険を悟って離れてゆくだろう、と章軌は思っていた。理解できないようなら、少し脅かしてやればいい。それで終わる。


 しかし少年の返答は、そんな予測を軽々と裏切った。

「そんなことは知っている」

「……なに?」

 意表を突かれた章軌が問い返すと、少年は腕を組んだ。

「狐狼のことは史学の初歩で習う。お前は枷を隠してすらいないんだ。わからないわけがないだろう」

 当たり前のように述べられて、章軌は混乱する。

 ならば、何故言葉をかけたのか。人間にとって、狐狼は忌むべき存在の筈なのに。

「お前が怪我をしている理由もおおかた見当はつく。俺が知りたいのは、お前に害意があるのかどうかだ」

 少年の言葉を、章軌はぽかんとしたまま聞いた。目を見開いて少年を見詰めているうちに、じわじわと彼の言葉の持つ意味が染みてくる。

 彼は章軌を警戒しながらも、害意が無いならば対立する意思の無いことを表明している。

 すなわちこれは、対等なやりとりなのだ。


「兄上」

 二人の対峙に割り込むように、少女が少年の袖を引いた。振り向いた少年は、少女が手にしている物を見て軽く眉を上げる。

「それは……」

「怪我、してる。薬草を摘んできました」

 少女はもともと抱えていた花に加えて、傷薬となる薬草を手に入れてきていた。その迷い無い行動に、少年は少し面食らったようだった。

「春覇、まだこいつが無害かどうか……」

「大丈夫」

 窘めようとする少年に、少女は何故か断言する。少年は困惑げに眉を寄せた。

「精霊が何か言ったのか」

「いいえ、精霊は近づこうとしない。でも、ほら」

 少女は章軌の方を指し示した。

「あんなに傷だらけなのに、返り血を少しも浴びてない」

 章軌の肌や衣服を斑に染める赤黒い血が全て彼自身のものであることが、彼女にはわかったらしい。

「虐げられながら反撃していない。善良でしょう」

「……一理ある」

 少年は頷くと、章軌の目をじっと見据えた。澄み渡る灰色の瞳に、全てを見透かされるような錯覚を覚える。しかし、章軌は不思議とそれを不快には思わなかった。


「わかった。春覇、治療してやれ」

「はい」

 少女が歩み寄って来て、章軌の傷に布を当てる。久しぶりに触れる、暖かな指先だった。

「……同情なら、よせ」

 温かさを感じながらも、章軌は突き放す言を吐く。

「今一時救われても、我々狐狼に行く場所など無い」

「知っている」

 章軌の苦言は、またもや少年のあっさりとした言葉に遮られた。

「生憎だが俺達は同情や憐れみでお前に治療を施すわけじゃない」

 ならばどういうつもりだ、と少年を見返した章軌は、少女が真っ直ぐにこちらを見ていることに気付いた。

「私も、皆に忌み嫌われている」

 ぽつり、と少女が呟く。

「でも、きっと。謂れのない蔑みは、跳ね返せるから」


「お前には俺達と一緒に来てもらう」

 少女の言ったことには何も触れず、少年は宣言した。


 二人に連れられて彼らの住居へと同行した章軌は呆れ返った。やけに道なき道を進むと思ったら辿り着いた先は王城の裏手だったのである。

 いきなり王城に迷い人、それも狐狼など連れてきたものだから、蒼凌と名乗った少年の身辺はそれはもう大変な騒ぎになった。しかし彼が問題行動を起こすのはさして珍しい事でもないらしく、当人は落ち着いたものである。


 彼の堂々とした態度に気圧されたのか、弁明の為走り回った侍従がよほど優秀なのか、数日も経つと章軌の存在は諦めとともに黙認されたようだった。


「貴方が章軌殿ですか」

 狐狼の体は傷の治りが早い。数日の間に殆どの傷口が閉じた章軌に、声をかけた者が居た。歳の頃なら十代後半であろう、実直そうな青年である。

「初めまして、狛麓(はくろく)と申します。蒼公子の侍従を務めております」

 綺麗に一礼する狛麓に、章軌は戸惑いながらも目礼を返した。穏やかに微笑んだ狛麓が、じっと章軌の瞳を見詰める。

「なるほど、邪心の無さそうな方だ」

 小さく呟いて、章軌に笑いかける。章軌はただその目を見返すことしかできなかった。


 そんな時、章軌の滞在する小部屋の扉が開く。

「狛麓。ここに居たのか」

 入ってきたのは、蒼凌であった。それを認めた瞬間、狛麓の目がきらりと光る。

「公子」

 穏やかに呼び掛けた狛麓の次の行動に、章軌は目を瞠った。

「まったくあなたという人は!どれだけ厄介を積み上げれば気が済むのですか!」

 落ち着いていた狛麓の様子が一変し、蒼凌に不平をぶつける。蒼凌は驚いた風も無く、耳を塞ぐ仕草をした。

「うるさいぞ。小言は聞き飽きた」

「飽きるほど小言を聞かなければならないような事をなさっているのはどこのどなたですかねぇ!?」

 狛麓が嘆くが、蒼凌はどこ吹く風である。章軌の傷の具合を確かめると、一つ頷いて言った。

「傷は粗方塞がってきたな。動けるようになったら春覇の側に行け。狛麓、手配を頼むぞ」

「またそんな無茶を言う!」

 溜息を吐いた狛麓はしかし、すっと表情を引き締めた。

「周囲が黙っていないでしょう」

「遠ざけろ」

 蒼凌の指示は簡潔だ。その一言で全て悟ったかのように、狛麓は恭しく一礼した。

「畏まりました。侍従の仕事を教えます」

「頼む」

 一連のやり取りを見ていた章軌は、話題の当事者であるにも関わらず何が何だかわからない。


 怪訝そうにしている章軌に気づくと、狛麓は微笑した。

「お聞きの通り、貴方には公主にお仕えしていただきます。あんな可愛らしい方の側仕えなど、羨ましい限りです」

 軽口を叩く狛麓を、蒼凌がじと目で見遣る。

「ならお前も春覇の方へ行くか」

「ご冗談を。私がいなければ、誰が公子を捕獲しに走るのです」

 主従の親しげなやり取りに、章軌は目を瞬かせる。恐らく、好き勝手やっているようでいて年齢不相応に思慮深いところのある蒼凌にとって、狛麓は気の許せる臣下なのだろう。


「公子、稽古のお時間ですよ」

 狛麓が水盤を覗き込んで告げる。蒼凌はちらりと章軌に視線を投げてから、狛麓に向き直った。

「行ってくる。後を頼む」

「心得ました」

 蒼凌が立ち去ると、狛麓は小さく息を吐いた。

「まったく、無茶を仰る」

 呟いて、章軌に歩み寄ってくる。章軌は思わず言った。

「お前達、正気か」

 先程のやり取りを聞くと、そうとしか思えない。

「俺は狐狼だ。それを王族の姫の側にだと?」

 疑問をぶつけられた狛麓は、肩を竦めた。

「肝要なのは人か狐狼かではなく、信用に値するか否かなのですよ」

 さらりといった彼の眉宇が、ふと曇る。

「いずれあなたにもわかるときが来るでしょう」

 その時から狛麓は章軌に侍従の仕事を教え始め、やがて彼を春覇の側に付けた。同時に春覇の身辺に居た者達をさりげなく遠ざけてゆく。


 彼の行動と言葉を章軌が本当の意味で理解したのは、春覇の身が危難にさらされた時だった。

 後に言う、前太子の乱である。


 太子が兵を王族達に向けたと聞いた時、春覇の身辺に居た者達は、春覇の身を守ろうとはしなかった。あまつさえ春覇を捕らえて差し出そうとした者すら居たのである。

 章軌は幼い春覇を抱えて走った。他に春覇を手助けした者といえば、侍女の一人が抜け道に通じる扉をこっそり開いてくれたくらいであった。

 大司馬の屋敷に逃げ込んだ春覇は、ひたすらに蒼凌の安否を気にしていた。その姿を見て、章軌は理解する。


 権謀渦巻く宮中で、彼らは二人きりだったのだ。

 父親も兄弟も、誰一人として彼らを助けてはくれない。

 そんな中で、まだしも蒼凌には狛麓が居た。乳兄弟だと聞いたから、それこそ産まれた時からの付き合いなのだろう、信頼できる侍従だ。

 対して、春覇にはそういう存在が居なかった。侍女の中に春覇に同情的な者がいないではないが、いざという時に春覇を守るには力不足だ。


 だから、蒼凌は章軌を春覇に仕えさせた。

 彼女の心身を守る為に。


「章軌」

 蒼凌が王城を脱し、狛家の屋敷に立て籠もって抗戦を始めたと聞いた時、春覇は言った。

「行って。兄上を守って」

 自分は司馬邸に居る限り、少なくとも王が明確な敵となるまでは安全だから、と。この時、蒼凌の生存が春覇にとっても命綱であることを察した章軌は、深く頷いて蒼凌のもとへ向かった。


 章軌から春覇の無事を聞いた蒼凌は、そうか、と呟いて沈思し始めた。その様子を眺めていた章軌は、ふと、蒼凌の体が思っていたよりも小柄で華奢であることに気付いた。当たり前と言えば当たり前である。相手はまだ体の出来上がっていない十二の少年なのだ。けれどもその細い肩には今、命の重みがのしかかっている。


「明朝、屋敷を出る」

 決意を籠めた口調で、蒼凌が言う。周囲の者達はそれを逃亡の意志と受け取ったようだが、章軌は違うと直感した。

 蒼凌は逃げない。

 彼はたとえ行く先に絶望しかないと知っていても、最後の瞬間まで信じた道を走り続けられる少年だ。


 彼の決意を受け取って、章軌は周囲を見渡した。多くはないが統制のとれた者達が抗戦を続けている。

 此処は狛氏邸だ。彼らの中には狛氏の家の者も少なくは無い筈。

 なのに。

 なのに、そこに狛麓は居なかった。


 章軌は何も訊かなかったし、蒼凌も何も言わなかったが、想像はつく。

 蒼凌が王城を脱する際、誰か時間稼ぎをする者が必要だった筈だ。誰かが残って、蒼凌を逃がした。

 章軌は直接その場面に接したわけではないにも関わらず、狛麓に蒼凌を託されたような気がしてならなかった。


 そうして、決戦の朝は訪れる。


 戦いが終わった後、春覇は涙を流した。兄上に全て背負わせてしまった、と、静かに泣いた。

 それ以来、彼女は泣かなくなった。それまでの泣き虫が嘘のように、冷静で厳格な武将に成長した。

 そしてその時から十数年を隔てた今に至るまで、蒼凌はただの一度も、狛麓の名を口にしていない。



 慌ただしく動く人々によって、戦いの準備が整えられてゆく。

 彼らはもう子どもではない。あの時逃げることしかできなかった春覇も、人並み以上に戦える力を持っている。


 戦が始まる。一つの国の中、骨肉相争うことを選択した碧王。

 まるでその争いを予見したかのように――否、事実そうなのだろう――都を発った昏軍。

 四面楚歌の苦境の中、蒼凌は一体何を選択するのか。


 出会った頃より遥かに逞しくなった背中を見詰めながら、章軌は独り沈思していた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ