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戦姫の沈黙

 碧に起こった政変の報せは、橙にも大きな衝撃を伴って届いた。

 復帰した外軍を引き連れて妖魔討伐に向かっていた(ぼく)黎翡(れいひ)の耳にも、その情報は届けられる。


「鴻宵が……?」

 都からの早馬がそれを告げた時、黎翡は目の前が真っ白になるような、そんな感覚に襲われた。怒りとも哀しみともつかぬ激情が、一瞬で彼女の胸の内を駆け抜けていく。


 暖かな人だった。

 がむしゃらに前へ進もうとしているくせに、ついでに周囲の手を引くことも忘れないような、そんな人物だった。それが欲得ずくの政争で王の側近を暗殺したなどと、冗談にしてももっと気の利いた話が作れようというものである。


 思わず喚きそうになる衝動を、しかし黎翡はすんでのところで抑えた。自分は飽くまで橙の将なのだ。個人的な感情で騒ぎ立てるような、そんな醜態を部下の前でさらしてはならない。それが重要な局面であればなおさらである。


「それで」

 手にした鉞を地面に突き立てる動作に激情を逃がし、黎翡は平静な声で使者に問うた。

「我が国はどうするべきと、父上はお考えなのかしら?」

 翡翠色の瞳が、鋭く使者を見据える。使者は一瞬たじろぎそうになりながらも、王命を背負っているという立場に背中を押されてか、しっかりとした声で問いに答えた。

「戦姫様には即時外軍を率いてお戻りいただきたく。混乱に乗じて碧を伐つまたとない機会ですゆえ」

 碧を伐つ、と使者は言う。それはすなわち橙王の意向なのだろう。黎翡は片眉を上げた。

「つまり父上は、碧を見放して昏に付くおつもりなのですわね」

 今の時勢に、橙が独力で生き残れるという甘い考えは、王ももはや持ってはいないだろう。黎翡が確認の言葉を放つと、使者はそれをどう取ったか、深々と頭を下げた。

「少しでも強き者に与するのが、乱世を生き延びる術にございますれば」

「わかっていますわ」

 黎翡は煩わしげに手を振った。彼女は一軍の将としての自覚を忘れたことはない。故に、ここで感情的に橙王の裏切り行為を糾弾するつもりなど毛頭無かった。橙が国として存続するために、今昏の手を掴むことは、方針としては間違っていないのだから。

 ただ、一つだけ予想外のことがあるとすれば。


「父上は……燕玉(えんぎょく)のことは、どうするおつもりかしら」


 父は燕玉のことを、黎翡などよりよほど可愛がっていた。それに何より、燕玉を碧に質として送ることにすら反対した重臣達が黙っているとも思えない。そう考えて探りを入れた黎翡に、使者は深々と頭を下げた。

「何分、国の一大事にございますので、和姫様にはご忍耐を頂くことに……」


 黎翡は目を眇める。碧に橙の寝返りが知れれば、燕玉の命は容易く消されるであろう。忍耐がどうのという次元の話ではない。そもそも燕玉は太子と親しくしていたために、ただでさえ今回の件においては風当たりが強い筈だ。


「殺されますわよ、あの子」

 冷たく言い放った黎翡に、使者は声を潜めて告げた。

「この出兵、ひとまず碧には救援の軍ということで説明を致します。また、腕利きの者を数名派遣し、碧の混乱に乗じて和姫様をお救いするよう命じてあります。こちらまで逃げおおせた折には、戦姫様に保護していただきたく」

「……そう」

 その程度で大国の追及を逃れられるものか、甚だ疑問に思いつつも、黎翡は口を閉ざした。彼女の役目はそこにはない。外軍を把握する彼女の力には、もっと喫緊の用があるはずだった。

「それで、私に外軍を率いて碧を伐て、と?」

「はい、そういうことになります」

 どこか曖昧な使者の返答に、黎翡は軽く目を眇めた。使者の視線が、ちらりと左右に走る。黎翡は徐に手を挙げた。左右の者達が下がり、素早い人払いがなされる。

「それで、真実の用件は?」

 黎翡が促すと、使者は声を潜めて答えた。

「昏より要求が参りました」

「昏が?」

 眉を顰めた黎翡の脳裏に過ったのは、早すぎる、という感想だった。


 碧に起こった事件の情報を入手し、橙の出方を予測し、使者を出す。そういう当たり前の手順を辿ったにしては、昏の橙への接触は早すぎた。そしてその一事から、黎翡は事件の裏側を推測する。

 鴻宵の一件も恐らく、昏が手を回したのに違いない。鴻宵を誅し、太子を疑い、内乱を引き起こした碧は踊らされているのだ。

 昏の掌の上で、哀れな操り人形のように。


「それで、要求とは?」

 この状況下で、昏から橙へなされた要求。それを達成できなければ、恐らく橙は一捻りに潰されるに違いない。碧相手のように小細工を弄する必要すら無く、蟻でも踏みつぶすようにあっさりと。今の昏と橙の国力にはそれだけの差があった。

 そうした苦い判断のもとに黎翡が発した問いへの答えはしかし、彼女の予想からは少々外れたものだった。

「轟狼を探し出して捕えよ、とのことです」

「轟狼を?」

 怪訝そうな声が出てしまうのも無理は無い。これまで、轟狼と昏との関わりはほぼ皆無である。わざわざ指名してくる理由がわからなかった。

「昏はそこまで方士集めに凝っている印象はありませんでしたけれど」


 轟狼の存在に固執していたのはむしろ橙のほうだ。

 昏は元来抱えていた璃黒零に逃げられているが、彼を逃した損失は寧ろ彼が大陸王家の血胤であったことによるのであって、その方士としての力については副次的要素とされてきた感がある。絡嬰と束憐を辺地より呼び戻してからこちら、軍が十分に力を蓄えている昏にとってはそもそも、方士に頼らなければならない理由が希薄なのである。


「は、しかし何故かこのたびはそのような要求を……」

 そう言った使者は、人払いがなされているにも関わらず周囲を慮るように声を潜めた。

「どうやら、五国方士を集めようとしているようだとの報告もございます」

「五国方士を……」

 黎翡は軽く眉を上げた。その目的は不明ながら、どことなく不穏な気配を感じる。

「……わかりましたわ。つまり父上はその要求に答えたい、よって私に碧方面へ軍を進めつつ轟狼を探し、見つけ次第捕らえよと仰っているのですね」

「ご明察です」

 使者は深々と礼をした。黎翡は息を吐き、会話の終了を告げる。

「承知しましたわ。お下がりなさい」

 いずれにせよ、今の黎翡にできることは少ない。

 昏の狙いもわからなければ、碧の詳しい内部事情も不透明である。轟狼を捕らえることは鴻宵との友誼に反するかもしれないが、橙王がそう決定した以上、黎翡がいかに抵抗しようと橙政府はそのように動くだろう。

 それならば、当面は王の意向に従い、現場で動くこちらの手に選択権を残しておいた方が良い。


 軍中で一人腕を組み、黎翡は当面の沈黙を選んだ。


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