従兄の疑念
庵覚によってもたらされた報せは、三人を凍りつかせた。
最初に我に返ったのは、他ならぬ鴻耀である。
「なんでだ」
簡潔な問い。庵覚もまた、端的に答えた。
「罪状は絽涯二氏暗殺。証拠はないも同然、ただ現場の屋敷が不自然に燃えて、折しも鴻宵が朱宿だと訴え出た者がいた」
「訴え出たのは」
「紅の旧臣、然利。手引きしたのは大夫の互贅。不確定だが、多分昏が糸を引いてるだろうね」
だん、と卓を叩く音がした。全員の視線がそちらに集まる。
黒零であった。
彼は俯き、肩を震わせている。
「何故だ……」
幽かな声が、彼の口から漏れ出た。
「何故だ、何故殺した。せっかく危地を脱したのに……吾はあやつの命を、味方に奪わせるために助けたわけではない……!」
絞り出すような声は、掠れて震えていた。沈痛な静けさが四人を包む。
「とりあえず、出るかい」
庵覚が立ち上がる。
「これ以上は、人目のある場所でする話でもないし……そっちのお二人さんも無関係じゃないようだ。ついて来な」
普段の彼とは結びつかないほど無表情に淡々とそう言った庵覚は、三人の反応を確かめることなく背を向けた。その後ろに、鴻耀も続く。黒零と蕃旋は暫しその場に俯いたまま留まっていたが、やがてどちらからともなく体を動かし、後を追った。
「姉さん」
店を出てすぐ、蕃旋が呟く。即座に応えるように、一羽の烏がその肩に舞い降りた。
「なんでうちの情報網に引っ掛からなかったんだ」
暗さを引きずったまま、蕃旋は烏に尋ねた。烏が数度喉を鳴らす。
「は?戻らない?」
蕃旋の声に、黒零が反応して振り返る。蕃旋は烏の嘴に耳を寄せ、その言葉に耳を傾けているようだった。
「烏を使って様子を見させていたところが、連絡が途絶えた……?わざわざ烏をどうこうする奴がいるかよ。事故か?」
蕃旋は納得いかないようで何やらぶつぶつ言っていたが、やがて三人に向き直ると、黒零に自身の刀を預けた。
「どうもきな臭い。俺が直接行って見てくる」
「だが……」
何が起こっているのかわからない以上、危険に飛び込むことになりかねない。不安げな表情を見せる黒零に、蕃旋は笑って見せた。
「心配すんな。俺はこれでも赤鴉の頭領だ。下手は打たねえよ」
じゃ、と軽く手を挙げて、身を翻す。その姿が一瞬で大柄な烏に変わり、空へと舞いあがった。
「身軽な奴だねえ」
庵覚がどこか呆れ交じりに言って、飛び去る蕃旋を見送る。それから旧友の顔に視線を戻し、目元に苦笑を滲ませた。
「翼の無い身じゃ飛んでいけないのは当たり前の事さ。そう険しい顔をするもんじゃないよ」
「……わかってる」
不機嫌そうに答えた鴻耀の声にはしかし、覇気がない。
冷静に見えて、彼もまたそれなりに動揺していた。もしも庵覚の持ってきた報せに間違いが無ければ、鴻宵は既に碧王に殺されている。そうだとしたら、鴻耀はそれこそ今すぐ碧へ飛んで行って碧王を締め上げてやりたいくらいだった。
今彼の理性をぎりぎりのところで引き留めているのは、同じく冷静さを保とうという努力の見え隠れする旧友と、自分以上に動揺している黒零の存在、そして精霊達の態度だった。
嘗て鴻宵が囚われの身になり命の危機にさらされた時、精霊達は泣き喚いた。しかし今、彼らにも動揺は見られるものの、以前のような大騒ぎにはなっていない。
つまり、鴻宵が生きている可能性は高い。
そう考えて、鴻耀は冷静な自分を繋ぎとめている。
そう信じていないと、怒りに任せてどういう行動に出るか、自分でもわからない。
「しかし赤鴉まで巻き込まれてるとなると、こいつはちょいとわからなくなってきたねえ」
庵覚が頭を掻きながら呟く。どういうことだ、と鴻耀が促すと、庵覚は親指で上空を示した。そこに、烏が一羽飛んでいる。
「赤鴉ってのははっきり言ってあんまり目立つ一族じゃないだろう。ただの烏とほとんど見分けなんざつかないし、諜報にはもってこいさ」
そもそも赤鴉は普通の烏を使役して情報を集めさせることもある。どんなところに潜り込んでも怪しまれないという利点は、確かに諜報向きだ。
「それがもし見つかって排除されたんなら、相手はただの人間じゃあない公算が大きい」
烏の姿から、その正体を見極めるということは、普通の人間にはまずできない。普段から蕃旋と行動を共にしている黒零でも、せいぜい蕃旋とその姉を見分けられる程度だ。
「けど考えてごらんよ。碧王とその周辺に、そんな存在がいると思うかい?」
鴻耀は碧の朝廷を思い浮かべた。
答えは否である。
碧でそれができそうな存在と言えば狐狼の章軌くらいであろうが、彼は春覇の側にいるはずなので明確に王とは対立しているし、赤鴉を排除する理由など持たない。
「糸を引いた昏の側の人間という可能性は」
鴻耀は、一応もう一つの可能性を示唆する。しかしこれには黒零が首を振った。
「恐らくなかろう。大体、そこまでして情報を隠す理由もない」
そう、ただ情報を集めるだけで手出ししてこない赤鴉までわざわざ排除する必要のある者などそうそういないのである。よほど内密にしたい事柄があるか、もしくは他にこちらの想像を超える特殊な事情でもあるとしか思えない。
「とにかく、続きはうちで話そう」
庵覚はそう言って、二人を庵氏の店舗に案内した。
店の奥に住宅が併設されており、その奥まった部屋で、今得られている情報を整理し、善後策を話し合う。といっても、現時点では大して情報があるわけでもなければ、これといって良策が浮かぶわけでもなかった。
「碧にいる連中にはまめに連絡を寄越すように言ってあるけど……今はどうも、様子見に徹するしかなさそうだね」
庵覚はそう言って、ちらりと鴻耀を見た。鴻耀は目を伏せ、黙りこくっている。その隣で、黒零が徐に立ち上がった。
「世話になった。情報にも感謝する。吾は碧へ行く」
「行ってどうする」
その背中に、鴻耀の問いが突き刺さる。黒零は振り返らずに答えた。
「行ってから決める」
無鉄砲な物言い。
しかしそこに込められた深い憤りと哀惜に、鴻耀は口を噤まざるを得なかった。
黒零は二人に一礼すると、身を翻して去ってゆく。
「お前さんは行かないのかい」
ややあって、庵覚が鴻耀に声をかけた。
先程蕃旋が飛び立った時、それを見送った鴻耀は己に翼の無いのを恨むような目をしていた。鴻耀が見た目以上に鴻宵を気に入っていたことを、庵覚は承知している。その相手を殺されたのだ。内心いてもたってもいられまいと、彼なりに旧友の胸の内を慮っての言葉だった。
「動く前に、考えることがある」
鴻耀がゆっくりと口を開く。
「誰が、宵を陥れたのか」
すっと庵覚の目が細まる。これまでに得た情報を、彼は瞬時に頭の中で整理した。
「昏が糸を引いてたなら、絡嬰じゃないのかい」
「ああ。奴が一枚かんでるのは間違いねえ」
何しろ絡嬰は最も鴻宵を目障りに思い、しかも過去に二度、鴻宵の排除に失敗している。三度目の正直を狙って鴻宵に罠を仕掛けてきたことは間違いない。
だが、それだけではない。
「肝心の、涯氏邸を燃やしたのが誰かわかってねえ。宵じゃねえのは間違いねえ。炎狂でもない筈だ。じゃあ、誰だ」
この事件の要は、明らかに方術を使って起こされた火災にある。庵覚は考えるように口元に手を当てた。
「どっかから方士を引っ張って来たんじゃないのかい」
「それしかないだろうな。問題はそれが誰かってことだ」
まず、方士の数そのものが多くない今のこの大陸において、人間業ではないと思わせるほどの炎を扱える人間など、それこそ朱宿か五国方士くらいしかいない。そしてそんな人間がいれば、噂くらいは聞こえてきてもおかしくない筈だ。
鴻宵のように隠している例やかつての璃黒零のように覚醒していない場合もあるので存在しえないとは言わないが、人知れず方士を雇い入れるというのはまずもってかなり困難である。しかも万一事前にその方士の存在を知られでもしたら即計画は破綻する。同じ芸当のできる人間が他にもいては、鴻宵に罪を着せられなくなるからだ。「偶然」そういう方士が手の内に転がり込んできたのでもない限り、そんな困難で不確実な手段を絡嬰がとるとは思えなかった。
「つまり」
鴻耀の思考を辿った庵覚が眉を寄せる。その言葉の後を、鴻耀が引き継いだ。
「つまり、絡嬰とは別に、この事件に関わっている奴がいる可能性が高い。そいつを先に突き止めねえと、碧の都はまるっきり虎の巣穴同然だ」
何しろ相手は少なくとも炎狂依爾焔に匹敵する炎の使い手である上に、犯行後も未だ碧の都に留まっていると考えていい。赤鴉の偵察を拒む理由があるのは、その方士もしくはその方士を使って鴻宵を陥れた者だけだ。碧王を手の上で踊らせるには、誰にも鴻宵以外の方士の存在を気取られてはならないからである。
鴻耀のそうした考えを読み取った庵覚は、一つ頷いた。
「とりあえず、できるだけうちの連中に探らせてみるよ。私兵どもは暇だから、ちょうどいい娯楽ができたって喜ぶだろうさ」
「無理はするな」
敢えて気楽な口調で言う庵覚に、鴻耀は釘を刺した。
「赤鴉が気取られるくらいだ。危険なヤマだ」
「わかってるさ」
庵覚はにっと笑った。鴻宵の件を報せに来てから、初めて見せる普段通りの笑顔である。
「しかし他ならぬお前さんの『家族』のためだからね。無茶の一つくらいは安いもんさ」
唐突な言葉に、鴻耀は怪訝そうな顔をした。庵覚が喉を鳴らして笑う。
「お前さん、鴻宵のこと殆ど本当の弟みたいに思ってんじゃないのかい。なんだかんだで世話焼いてやってるしね。いいねえ」
「おい」
からかい交じりの庵覚の言葉に半眼になりかけた鴻耀の前で、庵覚がすっと笑いを収める。
「守ってやんなよ、今度こそ」
鴻耀は目を見開いた。それから、ゆっくりと目を伏せる。
本当の妹は、守れなかった。だから今度こそ、と庵覚は言っているのだ。今度こそ守ってやれ、そのために必要な力なら、貸してやるから、と。
まったく、ややこしい悪友を持ったものである。
鴻耀は微かに笑んで、照れ隠しのようにその辺の土精霊を庵覚に投げつけた。