公子の焦燥
公子詠翠は、じっと王宮の門前に立っていた。
この門の先には、王の許可が無ければ入れない。王の私的居住空間である。王の息子である詠翠ですら、十二になってからは許可を求めねば入れなくなった。
そして今、詠翠は拒絶されている。王の暴挙を諌めようとやって来た詠翠を、王は拒んだのである。
それから、既に丸一日が過ぎた今も、詠翠は門前に立ち続けている。食事も睡眠もとってはいない。ただひたすら、立ち続けていた。
「公子、お休みになられては……」
従者の索興が主君の身を案じて声をかけるが、詠翠は聴こうとしない。
そんな風にして時が過ぎて行く間に、東宮から太子と覇姫が消えたと騒ぐ声が聞こえてくる。詠翠は一つ息を吐いた。
「兄上はお逃げになったか……」
よかった、と思う。ここで兄が父に殺されるようなことがあれば、詠翠はきっと父を赦せなくなっただろう。
「父上!」
未だ開かれない門の外から、詠翠は声を張り上げた。
「絽氏と涯氏のこと、犯人は鴻将軍ではあり得ません!そのような人間ではない筈です!」
太子や覇姫に与するならば何より邪魔な人物である筈の詠翠に、彼の者は生きろと言った。
「況してや兄上がそれを命じた証拠などどこにもないではありませんか!父上、どうか冷静に、公正な目でご覧ください!」
詠翠は必死だった。彼は彼なりに、己の狭い世界の中で最も大切な肉親を守ろうとしたのである。但し彼は、己もまた冷静な視点を欠いていることには気付いていない。
真に無実を認めさせたいならば、その証拠をまず探すべきであった。現在司冦が真相を暴くべく丹念な調査を進めているように、である。
やがて詠翠の叫びに応じて、一人の侍臣が宮門を潜った。侍臣は詠翠に一礼すると、徐に懐から一枚の絹布を取り出す。
「王よりのご下命です」
淡々と、侍臣はそこに書かれた文字を読み上げた。
「大司馬公子詠翠、宮門にて騒擾を起こすのをやめ、即時自宮に帰還せよ。敢えて逆らうならば近衛の武力を用いることも辞さず」
「馬鹿な!」
詠翠は叫んだ。信じられなかった。臣下の言葉をよく聞き、穏当に処理してきた嘗ての父王はどこへ行ってしまったのか。
激昂のあまり門へ押し入ろうとした詠翠を、索興が羽交い絞めにして辛くも引き留めた。
「帰りましょう、公子。ここでこれ以上訴えても事態は好転しません。近衛が来ます。一度宮へ帰って方法を考えましょう」
兵士達の足音を聞きつけて、索興は半ば抱えるようにして強引に詠翠をその場から連れ出した。詠翠は一心に宮門を見据え、届かない手を伸ばす。
「父上――」
固く閉ざされた門が、開くことはなかった。
父にまみえることすら叶わなかった詠翠は、索興と二人、とぼとぼと帰途に就いた。そのまま宮に帰る気にはなれないと言った詠翠の希望に従って、鴻氏邸の様子を見に向かう。
王城を出て暫くした頃、その背後から一群の騎兵が駆けてきた。それに気づいた索興が、詠翠に注意を促し、振り向いた詠翠と向かい合う形になった時、それは起こった。
空を切る鋭い音とともに、索興の動きが止まる。目を見開いて顔を見合わせた主従は、次の瞬間それぞれ真逆のものを目にした。
索興は地面を、詠翠は頭上に広がる蒼穹と、そこから降ってくる矢を。
「索興!」
詠翠の喉から、悲鳴に似た声がこぼれる。詠翠に覆いかぶさるように倒れこんだ索興の背には、矢が突き立っていた。二人の周囲の地面に、次々に矢が降り注ぐ。詠翠は索興ごと体を引きずるように物陰に這いこんで矢を避けた。騎馬の足音が迫る。
「索興、しっかりせよ」
詠翠は索興を抱え、頬を叩いた。索興がゆっくりと目を開く。
「お逃げください、公子……あれは……」
索興の言葉が終わるよりも早く、詠翠の背後には騎兵が迫っていた。
「お前たちは何者だ!私を公子と知っての狼藉か!」
動けない索興を庇うように前に出た詠翠は、拳を握りしめながら叫んだ。
そうしていないと、声が震えてしまいそうだった。
精一杯の虚勢を張って、騎兵を睨み付ける。大柄な騎兵達の顔は逆光になって黒い影を落とし、詠翠に強い圧迫感を感じさせた。
「公子詠翠」
先頭の騎兵が、冷ややかに告げる。
「王命により、お命をいただきます」
「馬鹿な!」
詠翠は眩暈を覚えた。父が、自分を、殺そうとしているというのか。
「馬鹿な……兄上を疑い、私を殺せば、この国には跡継ぎがいなくなる。そんなこともわからぬほど、父上は愚昧ではない筈だ!」
零れそうになる涙を必死に堪えて、詠翠は声を張り上げた。ともすれば震えそうになる足を踏ん張って、真っ直ぐに立った。
いくら詠翠が同年代の子どもに比べて武芸達者だといっても、大勢の騎兵を前にしてかなうはずがない。怖いに決まっている。
それでも、弱さを見せてはいけないと思った。たとえここで命を落とすとも、最後まで意地を張り通してこそ、自分は碧の公子なのだと胸を張れる気がした。
「次代の事なら、あなたのご心配なさることではない」
覆面の下で、騎兵はちらりと笑ったようだった。詠翠はその反応に、微かな疑念を覚える。まるで跡継ぎの当てでもあるかのような反応だ。だが、目下のところ蒼凌と詠翠以外に王の子はいないし、後継として適当な血縁者がいるという話も聞いたことがない。
「父上は――」
何をお考えなのか、と喚こうとしたところで、詠翠ははたと気づいた。
よく見ると、兵士たちは皆兜の下に布を巻いて人相を隠している。いっそわかりやすいほどに、暗殺の手勢と見える。この兵士達はこの襲撃を王命だと言うが、王命ならば、彼らには大義があるはず。盗賊のように顔を隠す必要などあるはずもない。
「お前達、さては王命とは偽りか!」
詠翠が叫ぶと、初めて兵士達に動揺が見えた。それで、詠翠は推測を確信へと変える。
「王命の詐称は重罪であろう。大それたことをする。一体誰の手の者だ!」
「何をおっしゃっているのかわかりかねますな」
とぼけるつもりか、騎兵は冷えた目つきのまま詠翠を見下ろした。
「これは王命。王命が出た以上は従うほかありません。失礼」
騎兵が剣を振り上げる。詠翠は咄嗟に索興を庇いながら、目を見開いてその刃を凝視した。
本心を言えば、怖い。それでも、目を閉じてなどやるものか、と思った。
自分は王族なのだ。何者かの薄汚い陰謀によって命を落とすとしても、最後の瞬間まで、この目で見届けてやるのだ。それが、せめてもの矜持であろう。
白刃が迫る。
詠翠は決して目を逸らさず、歯を食いしばった。
「案外度胸があるのだね」
不意に、知らない声が耳に滑り込む。同時に、陽光を受けて白く光っていた刃が、一瞬で赤く染まった。
「な――」
絶句する騎兵達の足元から、突如として炎が巻き起こる。驚いて暴れる馬に振り落とされる者が続出し、その場は刹那の内に大混乱に陥った。
突然のことに目を白黒させていた詠翠は、索興もろともに暴れる馬に蹴られそうになり、慌てて後ずさろうとした。しかしその前に、どこからか現れた少年が馬の轡を掴んで押し留める。
都に常駐する近衛兵ではない。碧では見かけない、赤い鎧を着けていた。
「そなた、一体……」
「詮索する前にその従者を馬に乗せた方がいいね。置いていくつもりなら別だけれど」
背後から話しかけられて、詠翠は肩を跳ねさせる。慌てて振り向いた詠翠は、縦横に燃え盛る炎の中、一人涼しい顔をしている人物を見た。詠翠と目が合うと、その人物はゆるりと目を細めた。
「やあ、詠公子。初めまして」
焦げ茶の瞳が、炎を映す。暗赤色の髪が、炎に煽られて踊る。
「貴殿は……」
「な……炎狂!?」
詠翠が口にしかけた疑問の答えは、騎兵の叫びが教えてくれた。
炎を掌中に遊ばせる炎狂、依爾焔は、兵士を顧みると微笑を浮かべたままゆっくりと手を翻した。それだけで、騎兵達を炎が取り囲む。
事態が呑み込めずにぽかんとしていた詠翠は、不意に担ぎ上げられて危うく悲鳴をあげそうになった。
「悪いけれど、公子は貰っていくよ。死なせるなと頼まれているからね」
見ると、索興は先程の少年の手で馬に乗せられていた。依爾焔が詠翠を抱えたまま、ひらりとその馬に跨る。
「何故炎狂が……狂ったはずでは!?」
動揺しながらも矛を向けてくる騎兵に炎を向けて牽制しながら、依爾焔は含むように笑った。
「なかなかの演技力だったろう?」
飛来した矢を、少年の槍が弾き落とす。依爾焔は悠々と馬首を返した。
「貴殿が炎狂か……しかし、何故私を救う」
やや冷静さを取り戻した詠翠が問うと、依爾焔は肩を竦めて見せた。
「君を死なせるなと、何の関係もない私にわざわざ頼みに来るお人よしなんて、一人しか居ないだろう?」
詠翠は言葉に詰まった。
思い浮かぶのは、ただ一人。
たった一人、詠翠に生きようとしろと伝えてくれた人物である。
その人物はもう居ないのに。
自分は彼を守れなかったのに。
未だ、守られている。
俯いて黙り込んだ詠翠を抱えたまま、依爾焔は炎の壁を開いてその場を離脱してゆく。追いすがる騎兵の矛が届きかけたのに反応して依爾焔が振り返るよりも早く、赤い鎧を身にまとった少年の操る槍が騎兵を馬から叩き落としていた。
「先にお進みください、依氏」
騎兵達の前に立ちふさがり、威嚇するように槍を回しながら、少年は静かに言った。
「この場は私が引き受けます」
互いに背を向けているにも関わらず、その声ははっきりとこちらまで届いていた。依爾焔が幽かに笑う。
「頼んだよ、錫雛」
依爾焔が馬を進める。戦いの喧騒が遠ざかる。
追ってくる騎兵は、ついに一騎もいなかった。