水鏡の波紋・上
夜の街を吹き渡る木枯らしに肩を竦めながら、分厚いコートを着込んだ人々は下を向いて歩いてゆく。それでも、先日過ぎ去ったばかりのクリスマスの名残か、或いは来るべき新たな年に対する期待か、街はどことなく生き生きとしていた。
そんな中を歩いていた青年のポケットが、不意に鳴動を始めた。青年は街に溢れる活気と対照的に憂鬱そうな顔をしたまま、シンプルな着信音を響かせる携帯を取り出す。画面に表示された名前を見て、物憂げに画面に指を滑らせ、電話を耳に当てる。
「もしもし」
「あ、もしもし、お兄ちゃん?」
スピーカーから流れ出る声は、妹のものだ。耳を刺す明るい声に知らず眉を寄せながら、青年は人の流れから外れて手近な街角でビルの壁に寄りかかった。
流れて行く通行人の他には、黒衣の男が占いの看板を掲げて座っているきりだ。うるさくもないし、電話をしていて誰かの邪魔になる場所でもない。
「どうした?」
電話の向こうの妹に問いかける。
「あのね、お兄ちゃん年末帰れそうかって、お母さんが」
「なに、お前今家にいるの」
青年は見るともなしに夜空を見上げた。
実家は、遠くはない。別段、嫌いなわけでもない。
大学生活最初の一年間は実家から通っていたし、一人暮らしを始めたのも、単に毎朝電車で通うのが辛くなって来たからで、大学を出てからは実家から程近い街で就職した。それなのに、彼は休みにも殆ど実家に帰らなかった。なんとなく、気が進まないのだ。
「うん、もう冬休みに入ったから。結城君も遊びに来てるんだ」
お邪魔してます、と妹の声の向こうから低い声が聞こえる。結城というのは、妹の彼氏だ。高校一年生の頃からの付き合いだというから、もう四年近くなる。
「ね、お兄ちゃんもたまには帰って来なよ。彼女連れてきたら?」
彼女、か。青年は淡く苦笑した。
「別れたよ」
「え?」
「別れたんだ、ついさっき」
別れを切り出して来たのは、彼女の方だった。
『兼谷君はさ、私のこと、見てないよね』
それが、彼女の言い分だった。
そうかな、と首を傾げた彼は、そうかも知れない、と思っていた。彼は大学時代から現在に至るまで幾人かの女性と付き合ってきたが、呆れたことに全て同じ理由で別れている。
何故かわからないが、誰にも心を全て傾けることができないのだ。最初は好ましく思っていても、時が経つにつれどういうわけか、何かが違う、というぼんやりとした違和感に苛まれる。
結果、それを敏感に感じ取った女性の方から別れを告げられてしまうのだ。
「また!?」
妹は呆れたように叫んだ。
「お兄ちゃんいつも別れるの早すぎ!半年以上続いた人居ないんじゃない!?」
「確か最長記録が3ヶ月だよ」
彼が言うと、妹は絶句した。
「信じられない、何で?」
「何でって言われてもね」
「誰か忘れられない人でもいるとか」
「そんなもの……」
いない、と言いかけて、言葉を切る。
いない、筈だ。
なのに、どうして今、言葉にするのを躊躇ったのだろう。
――宗也。
知らないはずの声が、何処からか聞こえた気がした。
「お兄ちゃん?」
黙りこんでしまった宗也に、妹が訝しげに声をかける。宗也は何でもない、と答えると、年末は帰らないと伝えて電話を切った。
「のう、そこのお主」
不意に声をかけられて、宗也は振り向いた。黒衣の占い師が、こちらに向かって手招きしている。
「聞くともなしに聞いてしもうたが、おなごと長続きせぬようじゃな。どうじゃ、わしが占ってやろう」
胡散臭い、と宗也は眉をひそめた。
そもそも占いの類を全く信じていないところへもってきて、相手はこちらの電話を故意か偶然か盗み聞きしていたようなのだ。相手にしないに限る、と、宗也は踵を返した。
そこへ、高校生くらいだろう少年が通りかかる。彼は占い師を見るとうろんげな顔をし、足早にこちらへ向かってきた。目が合った宗也に軽く会釈をし、占い師の前に立つ。
「甲玄。また懲りずに怪しい占いなんかしているのか」
「むっ、怪しいとはなんじゃ。おなごは占いが好きなものと相場が決まっておる。わしは可憐なおなごの行く先に指針を与えてやろうとしておるのだ!」
「下心が滲み出てるんだよ、色惚けミドリガメ」
馴れた様子で言いあいを始めた二人を見ながら、宗也は額を押さえた。
頭痛がしたわけでも、彼らの言い合いに呆れたわけでもない。
彼の少年。
彼を、何処かで、見知っている気がする。
思い過ごしかも知れない、と理性が諦めを促す一方で、この機会を逃してはいけないような焦燥感もまた感じていた。
「どうかなさいました?」
気づけば、少年がこちらの顔を覗き込んでいる。
「いや、大丈……」
――大丈夫ですか?何だかふらふらしてらっしゃいましたよ。
不意に、記憶が湧き出してくる。
そうだ、あの、夏の日。
宗也は彼と会っている。
そして彼は、少女を連れていた。
あの子だ。
あの少女。
あの時は何故か何とも思わなかったけれど、自分はあの子を知っている。
何処だ。何処で会った?
違う、何処かで会ったとか、そんな浅い関係ではない。
あの子は……。
「……ひ、よい」
掠れた声が溢れた。少年が、微かに目を見開く。
「そうだ、灯宵だ……」
宗也は目元を掌で覆った。
何が何だか、わからない。堰を切るように溢れた記憶には彼女の存在が確かに刻まれている。それなのに、今の今までそれを全て忘れてしまっていたこともまた、事実だった。
何故、忘れることなどできたのだろう。宗也は、彼女を、あんなにも……。
「驚いた」
少年のそんな言葉を耳にして、宗也は顔を上げた。目の前に佇む少年は、十数歳とは思えないほど老成した笑みを浮かべている。
「面白いものだね。人の想いは、時に世の理すら曲げるのか」
「は……」
世の理。
そういえば、あの時、この少年にそんな事を言われたような気がする。
「何、なんだ、一体。灯宵はどうしたんだ……何か知ってるのか!?」
「そうだね……」
少年は顎に手を当てて一考すると、占い師を顧みた。
「甲玄、彼を俺の家へ」
「よいのか?」
甲玄と呼ばれた占い師は、訝しげに少年を見る。
「いいよ。本来なら、彼を世の理の中へ帰すべきなんだろうけど」
彼は宗也を見て、ちらりと笑った。
「俺というきっかけがあったとはいえ、一度ならず二度までも世の理から外れたその想いの強さは驚嘆に値するし、どうやらこのままでは健常な生活に差し支えるようだからね」
甲玄は一度宗也に目を遣ってからうむ、と頷くと、座っていた椅子から腰を上げた。
「それじゃ、俺は先に行って準備をしておくよ」
そう言って、少年は宗也に会釈してから歩き去る。
呆然としたままその場に残された宗也は、てきぱきと店を畳んでいる甲玄に目を向けた。店と言っても、折り畳みの机と椅子に小さな看板と幾らかの小道具があるきりだ。数分とかけずに荷物を纏めた甲玄は、風呂敷包みを肩に担いで宗也を促した。
「さあ、ゆくぞ」
先の少年の言葉を信じるなら、行き先は彼の家であるに違いない。そこに行けばこの不可思議な出来事に、何らかの答えが与えられるのだろうか。
「おう、そうじゃ」
不意に立ち止まった甲玄が、にやりと笑った。
「案内料に、酒でも買って貰おうかのう」
宗也は何か釈然としない感情を抱きながらも、要求通り途中のディスカウントショップで日本酒の一升瓶を購入し、甲玄に与えた。
「うむ、悪くない」
早速瓶を開けて味見をした甲玄が満足げに頷く。
「酒が切れてしもうてな、どうしようかと思っていた所なのだ」
嬉しそうにいそいそと腰に提げていた瓢箪の栓を抜き、躊躇いもなく一升瓶を傾ける。溢れ出した酒はするすると瓢箪に吸い込まれて行き、宗也が呆然としている間に一升瓶は空になっていた。
腰に提げられる程度の大きさの瓢箪であるにも関わらず、その小さいはずの内部に一升もの酒が納められてしまったのだ。溢したわけでもないのに、不可思議なこともあるものである。
内心首を傾げながら甲玄の後についていった宗也は、やがて山裾にある家にたどり着いた。
今時珍しい日本家屋だ。塀に備え付けられた木戸を潜った甲玄と宗也を、どこからか現れた青年が出迎える。
「いらっしゃい」
そう言って微笑む青年は、時代がかった水干を身に付けていた。益々狐に摘ままれたような心地になりながら、宗也は導かれるまま露地を歩いて行く。
何処かで、鈴の鳴るような音が聞こえた。
通された先は、小ぶりな池のある庭だった。家から庭の方へ張り出した縁側に、先刻の少年が腰掛けている。但し、街にいても違和感の無かったカジュアルな服装から、深い色の和服に着替えている。
「やあ、どうも」
目元に笑みを湛えた少年の挨拶に会釈を返し、宗也は勧められるまま縁側に腰を下ろした。和服姿の女性がお茶を持ってきて、宗也の手元に置く。
「『彼女』のことについてだけれど」
そうしてやや落ち着いたところで、少年は切り出した。
「貴方がどうしたいかという事を聞く前に、まずは大まかな事情を説明しよう。貴方も知りたいだろうからね」
宗也は頷いた。
灯宵の失踪と、記憶の喪失。恐らく、尋常ではない出来事が起こっているのだろうから。
「そうだね、どこから話したものか……」
呟きながら口元に扇子を当てた少年が、宗也に真っ直ぐな視線を寄越す。
「宿命、というものをご存じかな」
「宿命?」
唐突に切り出された話題に戸惑いながら、宗也は思考を巡らせた。
「予め定められた運命、みたいなものかな」
「運命と宿命の違いは?」
宗也が答えると、少年が畳み掛けるように問い掛けてくる。宗也は言葉に詰まった。
「宿命が、生まれる前から決まっていることなんだっけ?」
「うん、間違いではないね」
少年は目を細めた。
「一般には、運命とは何者かによって予め定められた物事を言う。一方宿命は本来仏家の言だ。仏教には、ざっくり言ってしまえば物事全ては因果応報、今生に起こる事柄の遠因を手繰れば、前世での行いに帰着するという考え方がある」
つまり今生に生を受ける前に蒔かれていた種の芽生えを、宿命と言うのだと。
「それで、それと灯宵の事と何の関係が?」
宗也の口にした疑問は、無理からぬものであったろう。少年はゆったりと目を細めると、手にした扇子で庭の池を指した。
「彼女はまさにその宿命に惹かれて、この世界から姿を消したのさ」
この、世界から。
一瞬その意味を反芻した宗也は、さっと青ざめて少年に詰め寄った。
「この世界から……って、まさか灯宵は……!」
「早とちりは良くないね。彼女は生きている。俺が保証するよ」
即座に切り返されて、宗也は寸時混乱する。
この世界を去った、でも生きてはいる。
「……それじゃ、灯宵は今、どこに」
当然の問いに、少年は虚空に視線を投げた。
「此処ではない場所……もうひとつの世界に」
もうひとつの、世界。宗也は頭を抱えたくなった。
話が幻想的になりすぎて、現実のものと実感できない。
「もうひとつの世界って何だ。なんで灯宵はそこに?」
「もうひとつの世界は、もうひとつの世界としか説明のしようがないね」
苦笑混じりに、少年は言った。
「此処ではない場所。こことは違う神が治める、こことは違う歴史を辿る場所だ。それ以上はわからないね。俺も全てを知ってる訳じゃない」
宗也は黙り込んだ。
信じていい話なのか否か、脳が目まぐるしく思考を巡らす。
「何故、と問うなら、それが宿命だからと答えよう。彼女は元々あちらの人間なんだ」
宿命。彼の説明によれば、前世からの因果によって定められたもの。
あちらの人間、ということは。
「つまり灯宵は別世界の人間だって、そう言うのか」
「そうだね」
「馬鹿な!」
涼しげな顔で頷く少年に、宗也がぶつけた言葉は至極当然のものであったろう。
「灯宵は俺の従妹だ!中学の時に叔父と叔母が事故で亡くなって、それから俺達の家で……それが!」
「それが間違いだとは言っていないさ。彼女がこの世界に生まれ育った、それは事実だ」
激昂する宗也を前に、少年は淡々と告げた。
「だけど彼女とこちらの世界の縁は薄かった。故に、彼女は魂に刻まれた縁に惹かれ、彼方へと喚ばれたんだろう」
「縁が薄いって……!」
宗也は頭を抱えた。
確かに、灯宵はどこか、存在の淡いような、不思議な感覚を抱かせるところがあった。しかしだからといって、この世界から去ってしまう程浮世離れしていたわけでもない筈だ。
「彼女を彼方に喚んだのは天帝だ。でも」
未だ彼の言うことを受け入れられないでいる宗也に、少年は事実を突き付ける。
「いかな天帝でも、この世界に想いを残した者を無理に連れ去るような真似はしないよ」
「え……」
宗也は言葉に詰まった。
それは、つまり。
「彼女が彼方へ行ったということは」
少年の声音は、どこまでも静かに。
「その瞬間、この世界への未練が絶ちきれていたということだ」
宗也の胸を容赦なく抉る。
「そんな……」
「心当たりが、あるのではないかな」
少年の言葉に促されて、宗也は当時のことを思い出した。
あの時、灯宵はみきの嫉妬にさらされて、理不尽な敵意をぶつけられていた。それから彼女を守る存在が学校にいたのか否か、宗也は知らない。ただ、家庭内で彼女を庇える立場にいたのは、間違いなく自分の筈で。
そんな状況下で、自分は彼女に何をした?
「こんな、ことになるなんて……」
宗也は項垂れ、額を押さえた。
「俺はただ、家の中に居づらくなった灯宵を連れ出したかっただけだったのに」
なのに、あんな言葉が出てしまった。彼女を不安にさせるような態度を取った。
何故あんな時に、つい彼女をからかってやりたくなんてなったのだろう?
「あまり自責し過ぎる必要は無いよ」
少年が穏やかに言った。
「時が至っていたならば、あなたが彼女を突き放す結果になってしまったこともまた、天の配剤と呼ぶべき意思のもとに起こるべくして起こった事なのかもしれないのだから」
天の配剤。
つまり宗也のあの愚かな言動も、灯宵とこの世界の縁を断ち切る為のものだと、そう言うのだろうか。
「どのみち、悔いても何にもなりはしない。彼女は彼方ですべきことを見つけている筈だからね」
彼方で、すべきこと。
彼女は今、一体何をしているのだろう?
「……教えて、くれないか」
宗也は緩慢に首を持ち上げ、少年に懇願した。
「灯宵が今、どうしているのか。どこで、何をしているのか」
「無理だね」
あっさりと答えた少年は、宗也がさっと顔色を変えたのを見て、弁解するように肩を竦めた。
「別に悪意で言っているわけではないよ。知らないものは教えようがない、というだけのことさ。俺は彼方に干渉できないし、ここにいる誰もその権利を持たない」
「そんな……」
宗也はがっくりと項垂れた。
あれから四年経つ。今更彼女を連れ戻したいなどと、そこまで勝手な事を言うつもりは、宗也にも無かった。しかし今どうして、どのように生きているのか、そのくらいは知りたいと思う。
記憶を失ってなお心の底では忘れ去れなかった大切な人の事を、知りたくない人間がいるだろうか。
「問題はこのままでは貴方の健常な生活に差し支えるということだね」
少年は宗也の心情を理解しない訳ではないらしく、意気消沈した宗也に真剣な表情を見せた。
「どうしても会いたいと言うのなら、ほんの少しだけ会わせてあげることはできるかも知れない」
宗也は勢いよく顔を上げた。あちらに干渉できないから灯宵の現状もわからないと言っておいて、灯宵に会わせてやるとはどういう了見なのだろう。
「但し」
食いつかんばかりの表情で見上げてくる宗也の目を見返して、少年は告げた。
「夢の中でね」