曜変冬星~山城国・後編
妖星は、黄泉の紫雲をまとって、今や京都の空を分断せんばかりだ。茜空には腐れたような穢い闇が入り混じり、無間地獄の奈落へとこの街を呑み込もうとしているようだ。
(もはや身も世もない)
とすら、五鶯太には思えた。あまりの瘴気のどす黒さに、織田信長も兵を退いた。巷にあふれた亡者たちは口々に懊悩の叫びを上げ、鉄の蟲たちは人肉を喰らいそこら中に死骸を振り棄て、もはや収拾もつかぬ有様であった。
仏法徒の五鶯太は、地獄を信じるたちだが、この阿鼻叫喚はその存在すら認めたくない。ともすれば、初震姫を載せて運ぶ馬の行方すら、見失いそうになった。
「五鶯太、何も恐れることはありません」
馬の足取りで五鶯太の内心の動揺を察したか、初震姫が出し抜けに言った。
「すべては、あの三好の売僧の仕業、と思えばいいのです」
「成る程、理に適う」
馬頭を揃えてから、からからと哄笑を返したのは、長曾我部元親だ。
「ど、どこが理に適うと言うんですか!?」
身分弁えず五鶯太は絶叫したが、この四国の太守は平然として、咎めだてもしない。
「よう考えてみい。この巷じゃ、因果を考えても無駄じゃち言うことじゃき。いっそのこと、誰ぞのせいにしようた方が、ええがぜ」
元親は甲斐武者二人を突き殺した大槍を掲げると、先頭に立つべく馬を励ました。
「ええかっ、おのれら!ここは、末法の世にあらずッ!常ならぬものの因果、これ全て三好星愴にあるぜよッ!」
血濡れた槍を大きく振り上げた元親の背後に、紫の雷名が轟いたのは、そのときだ。
「平素と同じじゃ。同じいくさぜよ、我が一領具足よ。槍玉に挙ぐるは三好星愴、あの妖怪坊主が首、ただ一つッ!」
オウ、と雷鳴に負けぬ武者押しの声が、五鶯太の背を圧するほどに帰って来たのは、そのときだ。
(これが、土佐の精鋭)
南海の覇者、土佐の大蛇、元親を頂く一領具足だ。
「更には仕留めるは、我が土佐の恥、波陀の黒縄丸だぜよッ!長曾我部武者が心意気、初震殿に馳走してやろうがぜッ!一同、我が槍続けッ!」
言うや、悍馬に鞭打って元親は一気に駆けだす。
不気味な雷鳴が轟く中、瘴気をまとった闇はさらに深まり、長大な陰影の元親の騎乗姿もみるみるうちに呑み込んでいく。しかるに大槍を振るう元親は、大海に荒れ狂い、波濤に逆らう、大海蛇のごとくであった。
「りゃありゃありゃありゃああッ!」
剛腕で振りかざす大槍が閃くたびに、地獄の鉄虫が叩き潰されて、蠅のようにひしゃげて墜ちた。悍馬の轟きは、群がりくる亡者たちを脅かし、鳥野辺山への道は一気に拓かれていく。
白無垢の土佐駒が無明の闇に錐の一点、方途をこじ開けていくのは、壮観であった。それに続いていく一領具足たちも突貫、肝が据わっている。大槍を振り回す元親に寄り添い、騎馬鉄砲を撃ちならし、後衛が油断なく守る。
(地獄が、みるみる退いていく)
地獄さながらの戦場を馳駆する元親と一領具足たちの目には、おどろおどろしい亡者たちも化け物どもも、肝をひしがれるほどの存在ではない。なぜならすでからして、彼らは死兵である。修羅を覚悟した以上、眼前たちはだかるものどもは、何であれ、駆逐するべき敵と見なす他はないのだ。
「まだまだじゃきッ、初震殿ッ、わしら土佐ん赤鬼が、この地獄の突破口、貫いてやるきのおッ!」
元親以下、大槍を振りかざす男たちは、亡者や怪物の血肉を浴び、死の世界をも蹂躙するかのごとくである。
上古、土佐は鬼界ヶ島の異名をとるとおり、赤鬼の蟠踞する魔界と畏れられた。男たちは大陸から逃れて、この島に立て籠った鬼たちだったのだ。自ら野焼した鉄器を振るい、鉄を鍛える鞴吹きで火ぶくれし、灼けた身体を上古の人々は人ならざる赤鬼と見たのだ。
しかしこれが味方となるならば、これほどに頼もしい存在はない。
地獄の獄卒より強悍な、土佐の勇士たちだ。初震姫たちは馬に乗っていくだけで、道が拓けていく。
「頭上を見て下さい、五鶯太」
目指す鳥辺山には、いぜん朱い恒星が灯っている。初震姫が指し示すのは、果たして、そのもう少し低いところにある赤い黒雲だった。
「…あれは何か、穴のように見えませんか」
言われて、五鶯太は、はっとした。初震姫が謂う、黒雲のわだかまり、空に腸をぶちまけたような朱い沁みの中腹には、どうやら幽世の穴が開いているようなのだ。
「亡者と化け物は、あそこからやってきます」
五鶯太が穴の存在を告げると、初震姫は確信したように断言した。
「あれを呼び出したのは、三好星愴です。今、桐峰殿たちも準備してくれています。五鶯太、元親殿から離れてはいけませんよ」
大きく、五鶯太は頷いた。いやむしろ、離れてなるものか。万一、馬の足が停まればそこは群がる亡者たちの濁流である。
「各々、動き続けえッ!決して足を停めたらいかんぜよッ!」
陣頭で大槍をふるう元親も必死だ。何しろ亡者や化け物の数が多すぎる。
「手はあります」
あと少しの辛抱です、と初震姫は声を励ます。
「雅常殿に、コトノハで地獄を送り返してもらいます。今、桐峰殿が準備をしています。わたしたちも、遅れをとってはいけません」
星震の太刀をふるい、初震姫も馬上、鉄虫を両断した。
「わたしが星愴を仕留めたら、間髪入れずこの異界をあるべき場所へ戻すのです」
謂う、初震姫の表情はこれまでにないほどに緊張していた。
間もなく、鳥辺山である。
「なんじゃあッ、ありゃあ」
はたとそこで、一領具足たちの足が停まった。妖星が灼熱を発しておぼめく夜空を塞ぐように、大きな影が土佐駒を駆る男たちの前に立ちはだかったのだ。あのとき、鳥辺山を目指していた両面宿儺の軍勢だ。二度目だが、五鶯太は度肝を抜かれた。改めて対峙すると、恐ろしいばかりの迫力である。血の気を感じない灰色の肌の怪物は、いきなり咆哮した。野獣の咆哮ではない。それは死に瀕して追い詰められたものが上げる断末魔の叫喚に似ていた。
節くれだった太く長い指で、巨人は矢を番えた。まるで生木を削り出してきてそのまま矢にしたような巨大な矢だった。槍、と言い替えてもいい。巨人はこれを軽々と番えて、一領具足たちに放ってきたのだ。第一矢で土佐駒ごと、甲冑武者が串刺しにされ、第二矢で二人の男が兜ごと、頭蓋を破壊された。
「怯えなやッ!立ち止まったらいかんぜよッ」
大槍を振り回しつつ、元親は叱咤する。しかし一矢で二人の人間を破壊する両面宿儺の攻撃に、一領具足の進撃の足は辛くも鈍った。
「はははははッ、ざまアないきッ!長曾我部の小せがれッ!」
一颯、黒駒が元親の白馬を挿す。少年の姿に若返った黒縄丸だ。死んだ女の髪で結いあげた鞭を振るい、黒縄丸は元親の大槍の穂先をそれに捕えた。
「黒縄丸ッ」
大槍は撥ね上げられて、馬上の元親は大きく態勢を崩す。
「ははッ逃さんぜよッ!ぬしゃッ、わしの獲物じゃき!」
黒縄丸は大蛇のように牙を剥き、槍を絡めながら遠慮なしに馬体ごとぶつかる。尋常な膂力ではない。少年の黒縄丸はまるで荒馬の肝をひしぐかのごとく、片腕で捕えた槍の穂先ごと元親の身体を振り回し、左手の手綱で荒ぶる黒駒を猛らせ、馬体ごと元親を押し倒そうと言うのだ。
「まずいっ」
炸裂弾を手にした五鶯太の手を、初震姫は抑えた。
「何するんだよ!?」
「馬の足を停めてはなりませぬ」
断固とした口調で、初震姫は言った。五鶯太は、思わず呼吸を停めた。
「わたしたちが狙うは、ただ一人です」
と、その声に応ずるがごとく、雷鳴のごとき声が降る。
「ぐわっははははアッ!星震大社より来たりし、凶兆!星の繁栄を妨げる、地に這う者どもよッ!あれに見える凶星こそが、我が大義の証ッ!地を這う虫どもッ、その罪深き身に相応しき獄にぞつながるるべしッ!」
(あれが)
三好星愴か。
五鶯太は声にすらならない。男はまさに、地獄に樹ってまばゆいばかりの威容を放っていた。まさか比叡や東大寺の高僧にも、こんな男はいまい。群がり集う亡者たちを微塵も近づけず、地獄に二つの足をそびえて立ち、咆哮する姿に元は同じ法徒である五鶯太ですら、『格』で気圧された。法力などと言う方便を、五鶯太も信じるたちではないが、この阿鼻叫喚の中に堂々と、大音声を放ち、そびえたつ星愴の姿には、言うに言われぬ人間としての迫力があった。
「観念するがいいッ、狂信凶賊の徒よッ、我が威に震えるがいいッ」
その瞬間、初震姫は、跳んだ。五鶯太も、あっ、と声を上げる間もないさなかである。地獄の鉄虫を斬り捨てた星震の太刀は、情け容赦もなく、星愴に向かって斬り下ろされた。あれほどに大言壮語していた星愴だが、初震姫の一撃に、夢から醒めたがごとく顔色を蒼くして、息を呑んだのだ。
「ふふっ、さすがの星愴殿も凶賊が刃は、お口に合いませぬか」
「不埒者ッ…!」
「誰が不埒者ですか」
初震姫に俗人の位階は、通用しない。あの織田信長ですら、恐れぬ巫女である。
「初震どのっ、間に合った。この怪物どもは任せてもらおう」
大太刀を担ぎ、小野桐峰が現われた。秘伝の短冊にコトノハを孕んだ音ノ瀬雅常を、その背に守っている。
「この両面宿儺ども、任せてもらおう。私は、あの女に話がある」
雅常があごをしゃくる先、両面宿儺の大柄な身体に守られて、音ノ瀬多香子が、たわわに花がついた椿の枝を弄んでいる。
「小癪なるコトノハこそ、あさましや。問答無用にて叩き潰してくりょう」
沈んだ紅色の花枝を、多香子は振りかざした。
「おのしにはまだ、尽きせぬ想いのコトノハがある。桐峰殿、ここは、合力してくれぬか」
「あいわかった」
決死した雅常の声に、桐峰はなぜか竜笛を携える。
「初震殿、ここはお任せ下されい」
(さすがは)
初震姫が思わず息を呑んだのが、五鶯太にも分かった。戦場で斬り峰、とまで言われた武士である。あの耳川の激戦の中で、五鶯太はその真髄を篤と見た。甲冑を割り砕き、血と腸を浴びて生き残った桐峰の気迫は、並み居る両面宿儺を前にして微塵も衰えていない。
「後は頼みましたよッ!」
戦友なればこそ、初震姫も約したと思う。その目はぎらりと、星愴を捕えて離さなかった。
「年貢の納め時です、三好星愴」
「うぬらァッ…!」
星愴は、呻くように怒気を発した。初震姫のつけた刀痕が、雄虎を思わせる顔面に刻み込まれている。
「悪鬼に相応しき醜面になりましたね」
稀代の悪党の血汐で濡らした刀を構え、初震姫は、ゆっくりと呼気を溜める。
「凶星の禍々しき残滓、ここで塵となしませ」
「この吾輩を、塵滓扱いか…罰当たりが、この星に巣食う蛆虫めらッ」
星愴は血を吐くように呻くと、大袈裟な身振りで呪印を結ぼうとした。
「遅いッ」
しかし大喝して星愴が何事か発する暇もなく、初震姫が斬り払った一撃が、星愴の胴を捉えた。
「ぬぐぐぐぐ…この期に及んで往生際の悪い真似をッ」
「往生際の悪いのは星愴、あなたです。この星震の太刀に妖しの術は、通用しません」
「ふんッ…ふふん!やるなれば、おのが手を汚せとほざくかッ!よかろう、吾輩自ら、凶星再誕の露払いをばせんッ!」
星愴は傍らの、長柄物を後ろ手で取り上げた。それは大ぶりの刃に、半月形の鎌のついた戟であった。よほど大柄な武者でも持て余すほどの大道具を、星愴は、片手で軽々と振り回した。
「なるほど。…口先ばかり、と言うわけではなさそうですね」
「侮るなッ!この星愴とて、三好の猛将の血を授かる身よッ!刀槍の沙汰なぞ、所詮は匹夫の技ッ!されど致し方なし、おのればかりはこの上は、吾輩の手で素ッ首ねじ切るが命運と思いきわめたわッ!」
「この期に及んで、口説は無用」
大身槍に少しも怯むことなく、初震姫は星震の太刀を構える。
「参りませ。ここに集った多くの戦友たちのためにも、疾く疾く決着をつけねばなりません」
「踏みにじれ両面宿儺」
多香子が花枝を、はらりと振る。
すると地響きを上げて化け物たちは、山のごとく動く。今やその蹴り足は馬ごと一領具足たちを吹っ飛ばし、大木のような大弓で射ぬかれた犠牲者は、殻ごと押し潰された蟹のように、生き血に染んで折り重なった。
「元親卿、助太刀いたすッ!」
そこへ初震姫の意を含んで、桐峰と明榛が割って入る。元親は、黒縄丸と馬上、もつれ合って戦闘中である。
「これは忝い。ご助勢痛み入るッ」
「ふふふふっ、かような頼りなき太刀持ちに足弱が一人、この両面宿儺を前に何が出来ようか」
多香子が嗤うのも、無理はない。桐峰たちは長身とは言え、両面宿儺の大兵大力には当然、及ぶべくもない。まして犬王丸は子供である。紙のようにへし潰されて死ぬのが関の山、と見て当然である。
「大丈夫か、二人とも」
コトノハを使うとは言え、雅常は、斬り合いでは物の数に入れない。
「控えて。雅常殿、あなたにはあなたのすべきことがある」
と、明榛は、両面宿儺を嵩に着る多香子を睨みつける。
「コトノハを使うまでもありません。ここで三人、露払いを進ぜよう」
桐峰は丹生を、明榛は澄行を構えて微動だにしない。
「ふんッ、かような太刀が二本ばかりで何が出来るかえ」
それを見て毒々しく、多香子が嗤い囃す。
「両面宿儺、地を這う虫めらをその足でにじりや」
大地が張り裂けるような声を上げて、両面宿儺が猛った。
「…明榛殿、お気づきか。相手は大物なれど、大足の腰高にござる」
だが、戦場慣れした桐峰は、凍るように冷たい声音である。
「なるほど」
明榛も、すぐにそれと気づいたようである。桐峰は微笑むと、
「お先に仕る」
重装に見える桐峰が、大太刀を担いでつけいる。
「オオオオオオオオオオッ!」
右足を振り上げて、桐峰の顔めがけて叩きつけようとした化け物が、その刹那、地響きを上げて仆れた。
大足の腰高とはつまり、バランスが悪いと言うことだ。なるほどこの大足の化け物は、大力を誇る身体の中でもっともその毛脛が長く、蹴り足の強さは他に類を見ない。だが発達し過ぎたその足のせいで、極端にバランスが悪く、例えば関節を斬り割られれば、普通の甲冑武者よりも遥かにもろく、その行動力を失うのである。
戦場の武器術には、足もとを狙うものがさんざんある。足払いの型がある薙刀をはじめ、やがらもがらに足がらみなど、相手を引っ繰り返すためだけの長物があるのも、バランスを崩すことがいかに戦場で致命的かを、教えてくれる。
どれほど筋肉は鍛えられても、関節の可動部ばかりは鍛えられないのである。
「なるほど」
明榛も瞬く間に、一体斃した。足さえ斬り折れば、後は真っ向、唐竹に顔面を斬り下げるだけである。こうなれば桐峰の丹生は、化け物の頭蓋を一撃でへし斬る。
「皆の者、今の桐峰殿に倣えっ!馬を降りて足を狙うがじゃッ!長柄のものは、足を払うぜよッ!」
元親がすかさず、号令を出す。そこで騎馬武者たちは続々と馬を降りた。
「弓に気をつけよッ!」
叫んだ桐峰を、両面宿儺の大弓が狙う。こればかりは防ぎようがない。
「アッ」
弦を離そうとした化け物の顔面に、血のように赤い粉が散りかかる。犬王丸が小さな袋のついた矢を、半弓につがえて目つぶしに射たのだ。中には朝鮮由来の、赤唐辛子の粉が入っていたのだ。
(明那)
恐らく、彼女が、いざと言うときのために鍋で炒ったものを持たせてくれたのだ。まさかそれが、桐峰の命を拾う役に立とうとは。
(ありがとう)
今の隙に奔りこみ、桐峰は弓兵の両膝を斬り払った。こんなとき、余計に残してきた妻が愛しくもその身が案じられ、桐峰は太刀を離した片手で祈りを捧げた。
かくして形勢は瞬く間に逆転した。桐峰に倣い、足がらみの戦法を取り出した一領具足たちが、両面宿儺を圧倒しだしたのだ。
「浅まし」
これに血の出るほどに歯噛みしたのは、両面宿儺を束ねる多香子である。
「浅ましっ、浅ましっ、浅ましっ!化け物どもっ、あの雅常に目にも見せぬで、どうするのかえっ!」
もはや多香子が頼るのは、元親をその怪力で圧倒する黒縄丸である。
「ふンッ!所詮は化け物は化け物ッ、性根は浅ましき畜生と同じじゃあッ」
体躯はともかく、最も運動能力に優れた少年に戻った黒縄丸の動きこそ、野の猿をしのぐ。バランスを崩す両面宿儺の間を縫っては馬で付け入り、隙のない反撃をしてくる。
「そりゃそりゃそりゃそりゃあッ!長曾我部の端武者どもッ!我が槍の血錆びにしてやるきッ!」
「馬から降りいッ!突き落とされるがぜよッ!」
元親の声もむなしく、黒縄丸の鞭が一領具足たちを次々なぎ倒していく。やむなく元親は、大槍を執り自分の馬を挿した。
「小賢しいッ」
しかし遠心力をまとった、黒縄丸の大鞭の威力は凄まじい。これに頸を刈られ、まるでワイヤーロープに引っかけられたようにして脱落する一領具足たちが続出したのだ。
(こいつは、いかんぜよ)
空を切る鋭い音を立てた鞭の一撃は、もはや斬撃だ。
「くたばりゃあッ元親ッ!」
凄まじい衝撃だった。少年の黒縄丸相手に馬体ごと、元親の身体は吹っ飛ばされた。
「むうッ」
「砕け散れッ!」
黒縄丸の繰り出す鞭が、熾火で荒れ狂う大蛇のごとく、猛って元親を襲う。槍を楯に元親は両腕で顔を庇いこれに耐えたが、大鎧の直垂は喰いちぎられ、兜の前立ては吹き飛ばされる。無惨な有様になった。それでも元親は大きく足を踏ん張り、腰を落としてこの猛攻に耐えた。が、この状況下では反撃一つ、出来ようはずもない。
「はははッ、南海の龍と言われたおんしが、無様じゃのう!手も足も出んがかッ!」
黒縄丸が挑発を繰り返すが、元親は応じない。
「やはりじゃあッ!土佐はおのれの長曾我部になくッ、こん黒縄丸が波陀が家こそ覇者と名乗るに相応しいがぜッ!」
元親は前傾し、黙々と堪えている。いざとなれば馬ごと、騎馬武者をはねとばす自慢の大鞭だ。長身ではあるが細身の元親がそれを何発も受けて、仆れずにいるのを見て、攻めている黒縄丸こそが、歯噛みをした。
「りゃあああッ!めっそ(いい加減に)せえッ!」
次の刹那、大きく利き腕を震わせて、黒縄丸は大鞭を縦に一振りした。南海の大波を思わせる痛撃を真っ向から受け、元親はついに跳ね飛ばされた。大わらわで、怪我をした一領具足たちが、集まる。
「お屋形さまアッ!」
「ほたえなやアッ(騒ぐな)!」
吼えた。その瞬間、あの怜悧な元親が鼻の頭にしわを寄せて、怒号したのである。
「ええかッ、おまんら!今やりゆうは、我が長曾我部と波陀、土佐一国を賭けた大一番だぜよッ!せっかく無理をゆうておまんらとここまで来たがやき、ここでわしが退いたら、何にもならんがじゃ。のう、黒縄丸ッ!」
「阿呆が」
吐き棄てると黒縄丸は、鼻の頭に飛び散った黒い返り血を指で掻き棄てた。
「御託はええがじゃッ!来い!すぐに止めを刺しちゃるわッ!」
「弓を」
元親は槍を拾い上げると、一領具足に命じた。この命の意味が、彼らにも分かっている。二人がかりで持ちだされたのは、恐ろしく剛毅な造りの鉄弓である。かつて古今無双の弓勢とたたえられた鎮西八郎、源為朝の弓は、八人分の力でなければ引けない剛弓とされたが、この弓はそれに勝るとも劣らない。
元親は、なんとそれに片身の大銛の形をした槍の穂を大矢に付け替えるとそのまま、番えた。柄を付け替えたとは言え、この大矢の穂も、普通人の小槍ほどもある長さだ。常人では射撃の姿勢すら取れない。
だがあのヤマタノオロチのごとくうねる黒縄丸の鞭の強さと射程に対抗するには、この怪物のような大弓しかないと元親は踏んだのだろう。
「こけおどしをッ!」
黒縄丸の間合いを、元親はしずしずと侵す。まるで毒蛇の寝息をうかがうかのようだった。何度も大鞭に身体をかじり取られたが、元親は平然と矢を番えた。黒縄丸が右腕を振り上げて、大鞭を縦にしならせたそのときだ。
「うるうううアアッ、死ねええやッ!」
ブウン、と不穏な羽音とともに、元親は大矢を射た。その矢は大鞭の間をすり抜けて飛び、一撃で黒縄丸の心臓を貫いた。
「ぐううううッ!」
銛を撃たれた巨鯨のごとく、黒縄丸の身体は大きくのけ反った。その手の鞭は大きく手を放たれて、水揚げされたばかりの海獣の凶暴さで撥ね狂う。
「まッ…まだじゃあッ!わッ、わしゃあッ敗けてはおらぬッ!この長曾我部の若造ごときに!斃されてはおらんがじゃあああッ!」
内臓の黒い血を吐いて、黒縄丸は吠えた。だが出血は、停まるはずがない。死力を振り絞って、黒縄丸はわななく膝を支えているが初々しい少年の瞳は、すでに白んで、まがまがしい死の気配を放っている。
「…もうええぜよ、波陀黒縄丸」
弓を納めた元親は、むしろ優しい口調で言った。歩み寄って、介錯をするつもりだ。
「凶星の宴は、これで終わりじゃ。佳き花の香に包まれて、眠るがええきに」
言われて黒縄丸は、ぶるぶる震えるおとがいを上げ、空を仰いだ。
「あれは…」
なんと、花が咲いていた。
いつの間に出来たか、上空を覆わんばかりの椿の老大木。そこからふさり、ふさりと、紅い花が落ちて来ていた。禍々しい天を、優しく包むように。花の匂いのする、色濃い霧が辺りを包み込んでいく。いつの間にか、そこかしこに膝をついた両面宿儺たちが動きを停めている。椿の花雨が降りしきる中、両面宿儺たちは蟻塚のごとく砂の山になって、音もなく朽ちていくのだった。
誰かがずっと、龍笛を吹いていた。その音もやがて、雲の彼方に絶えた。
「あの花は、多香子さんでしょう。散る花のコトノハにて前非を悔いましたか」
花風を浴びながら、初震姫が下界を見下ろしている。両面宿儺の朽ちた場所は、椿の落ち葉と花で埋まった森になっている。そこで黒縄丸がちょうど元親に、首を打たれているところだった。
「後は星愴、あなた独りです。来るべき時が来たようですね」
「喧しいッ!くたばれッ!」
大きく、三好星愴は戟を振り下ろした。しかし初震姫の動きは、そんなもので捕えられるものではない。はらりと木綿のように舞うその体躯は、みるみる星愴の眼前に落ちた。
「おのれッ」
狼狽える星愴のあごを、初震姫は天頂に向かって蹴り上げる。思わずのけ反ったその脳天めがけて、星震の太刀が空を斬る鋭さで振り下ろされた。辛くも受けようとした戟の柄ごと、星愴は太刀風を浴びた。
「ぐわああッ!」
朱柄のそれは一撃で、斬り折れた。顔面におのれの血を浴びた星愴は、うめき声をあげてひざまずく。
「初震さんッ、やりましたねッ!」
五鶯太が、声を励まして駆け寄ろうとする。少年は戦いを遂えた桐峰たちを連れていた。
「まだです」
初震姫は全員に近づくことを禁じた。星愴は虫の息に見えるがまだ、戦意を喪っていない。
「多香子殿は、果てましたか…?」
初震姫は雅常の声色だけを、うかがった。
「ええ、自ら。…椿の木になるコトノハを読み、果てました。あの娘にも、どこかに自らを悔いる心が残っていたのでしょう」
「桐峰殿が、龍笛を?」
「ああ、お気に召したのなら後で、奏し申し上げてもようござるぞ」
と桐峰が言うと、初震姫はことのほか喜んだ。
「お願いします。美味しいものでも食べながら。…そろそろ、お腹が空きました」
「おのれッ、憎き星愴!」
手負いの星愴に刀を抜きかけた犬王丸を、明榛がやんわりと制す。
「おやめを。ここは、初震姫殿にお任せなされませ」
初震姫は、犬王丸に一礼した。そして犬王丸が抜きかけた脇差をその手に、受け取った。
「皆、よく戦ってくれました」
山の下では、元親と一領具足たちが手を振っている。京都の地獄も、間もなく終息するだろう。星愴の野望の芽は、根から尽きたのである。
「星愴殿、あなたの望みは潰えました。三好の名を背負い、都を地獄で穢したあなたが最期に出来るのは、せめて武人として果てること」
犬王丸の脇差を初震姫は、血みどろの星愴に托した。
「自ら決しなされい。止めはせめて、この星震の太刀にて」
「星よ。…今そこに手に取るように瞬いていながら、なぜ吾輩を勝たせなんだか…」
脇差をとる以外になかった星愴は、空を仰いだ。そこに暗紫色の妖星は、いまだ燦然と瞬いている。
「…小癪なる虫けらども」
すらり、と短刀の鞘を払うと、星愴は初震姫たち全員を睨みつけた。
「この吾輩に、虫けらめの理が通用すると思うか。吾輩は三好星愴、虫けらの命に生まれ、星に殉ずるが運命なり!」
止める間もなかった。星愴は柄を両手で握ると、満身の力を込めてそれを紅い隕石のはまった眼窩の方へ突き入れたのである。その瞬間だ。
怖ろしい光芒が、星愴の全身から放たれた。その虎のような巨躯は、赤光に溶けるように包まれ、やがて光は天を掃いた。
「これはまずい」
この異常な現象に、血相を変えたのは星愴にとどめをさそうとしていた当の初震姫だった。
「逃げるのですッ!みんな早くッ!」
初震姫が言うが早いか、天からその赤い光に向かって凶星がうなりをあげて突っ込んできた。
地を穿った隕石の衝撃波は、凄まじかった。そこにいた全員が、山を転げ落ちるようにして跳ね飛ばされた。
「皆、無事かっ!?」
真っ先に声を上げたのは、桐峰である。この男は巨躯を縦に明榛とともに、逃げ遅れた少年たちを守っていた。
「大事ありません」
雅常はコトノハの結界で、衝撃波を受け流している。初震姫の姿ばかりがなかった。
「皆さんッ!初震さんはっ!?」
叫び声を上げた五鶯太だったが、次の瞬間絶句した。眼前にそびえるあまりにも巨大な何かに、一瞬にして絶望を悟ったのだ。
黒雲のような、マグマのような。真っ黒な泥流で出来た見上げるような巨人が、こちらを睥睨していたのである。その威容は、両面宿儺の比ではない。鳥辺山よりも大きく見える。泥坊主は片目だった。五鶯太は悲鳴を飲み込んだ。その片目はさっき、ここにいた星愴と同じように紅く光る隕星である。それがまがまがしく光をみなぎらせ瞬いていたからだ。
(まさかあれが、三好星愴…!?)
一瞬、五鶯太の思考が停まった。人智が及ぶわけがない。さっきの両面宿儺のときですら、五鶯太の常識の埒外なのだ。それが今度は見上げるような溶岩の化け物と来て、完全に気が遠くなってしまった。
(うそだ…)
こんな黒山の化け物に勝てるはずがない。凶星の瘴気をまとった星愴は、もはや五鶯太たちを覆い尽くすばかりの巨きさなのだ。
「…五鶯太ッ聞きなさい!」
頬を張り飛ばされて初めて、五鶯太は初震姫が叫びかけてきたのを知った。
「勝機はありますよ。もう一息、ここで逃げずに戦うのです」
言われて五鶯太は、ぶるぶるとかぶりを振った。だってこれは、人間が相手をする範囲を超えている。
「無理ですよ!…だって、あれが、分らないんですかッ!?」
五鶯太は初震姫が視えないことを知りつつも、悲鳴を上げた。こんな状況になっては、逆に視えてしまうことの方が、よほど無惨だ。あなたはよくこの状況が分からないから、そんな無謀なことが言えるんだ。そう言おうとすると、
「五鶯太どの、戦おう。おれは見えるぞ」
と、桐峰が言った。
「巨きさで利を得ようと言う考えは、さっきまでと同じではないか。おれたちが力を合わせればいい。それだけの話だ」
「やりましょう。私のコトノハも、存分に使ってもらう」
雅常もかなりの疲労が見えながらも、果敢に訴えた。
「長曾我部侍も、忘れてもろうては困るぜよ」
元親が参集した一領具足たちとともに、意気を上げた。
「…やりましょう、五鶯太」
五鶯太は躊躇したが、勇気を出して初震姫の手をとった。
「最後の戦いです。ここでやり遂げねば、誰よりも殉じたものたちが救われません」
「まずは足を狙います」
初震姫は言った。両面宿儺のときと同じく、こちらの小回りの良さを利用して敵の動きを封じるのが得策だと言う。
巨大な化け物は実体があるように見えて、無いようにも見える。足元は地鳴りを上げて渦巻く黒煙と煤の嵐で、肝心のその足がどこかに見えるかなど、想像もつかない。
「あの中へ飛び込んだら、そのまま窒息死しますよ!?」
初震姫は、軽く小首を傾げただけだった。
「足をやるしかないので」
剣を駆る初震姫は、返事など求めていない。誰よりも先に、放胆に飛び出す。
「やるしかないな」
ほぼ同時に、桐峰が突出する。やると決めたら躊躇がない。さすが、二人はいざとなると物怖じしない。
「行くぜよ、我らも。五鶯太殿ッ!」
一領具足を率いる元親も大槍を、振りかざす。
「私もコトノハで、援護致します」
音ノ瀬雅常も果敢に申し出た。ここへ来て退けるわけにはいかない。
(私も、出るしかない)
思えば奇妙な宿縁で、富士御師の身分を脱し。
星震の巫女の従者として、ずっと諸国悪縁を祓ってきたのだ。
こうなれば、地の果てだろうとどこまでも。
「ついていきますよ、初震さん!」
五鶯太は、ついに覚悟を決めた。
星愴だった化け物の大きさは、小山ほどはあろうか。
初震姫を追って近づくとそこは、前後左右も定かならぬ砂嵐だ。気を抜くと爆風に巻き込まれて、身体ごと持って行かれそうだ。星愴であった化け物が屹立するあらゆる大地が、吹き飛ばされて断末魔を上げているかのようだ。
「颯」
雅常が、風のコトノハで足元から立ち上がる圧力を抑えてくれなかったら、真っ直ぐ歩くことすらままならない。
「乗れ、五鶯太殿」
しかし元親の乗る土佐駒は、頑健だ。雅常のコトノハを味方につけ、五鶯太を引き上げて爆風を切り裂くように突き進んでいく。行く手は、暗雲しか見えない。この砂嵐でもひと際どす黒い、ガス状の気体だ。
先駆けた、初震姫の姿も、桐峰の姿も見えない。
(どうすればいいんだ?)
突っ込んだところでこの毒煙の餌食だ。しかし長曾我部元親は馬足を緩めない。
「考えている暇があるがか、五鶯太殿?」
元親は豪傑らしく、からからと笑った。
「行くしか道はないぜよ」
長身の元親は馬を攻めながら鐙を踏みしめ、あの特大の大身槍を振りかざす。その後続には馬上、抱え大筒を構えた、一領具足たちが付き従った。
「どいつもこいつもついて来やッ!」
研ぎ澄まされた大槍の刃風は鋭くガスを斬り裂き、五鶯太たちをより奥へ奥へと導く。ガスの中へ入ると黒い煙は悲鳴を上げ、大きくどよめきだした。
(なんだこれは…?)
見るとそれは、眉を削ぎ、鉄漿をした女の顔をした蝙蝠であった。人面蝙蝠は黒い乱杭歯から濁った金切声を上げ、五鶯太たちの往く手を阻もうとしてくる。
「くそおおッ!」
こうなったらもう、やるしかない。五鶯太はありったけの爆薬に火を点けて、元親が跳ね回る馬上、撒きに撒き散らした。
「熱や」「ひいっひいっひいいいいいっ…」「恨めしや、なんじゃあやつ」「火薬を持っておる。あやつじゃ噛み殺してくりょうううう」
羽根を焼かれた蝙蝠女は、黒い歯をむき出すと女々しい悲鳴を上げながら襲い掛かってくる。元親の大槍と馬上筒でそれを次々と撃ち落としていくのだが、これがきりがない。
「わっ」
五鶯太は跳んできた女の首に思わず、腕をかじり獲られそうになった。
「加勢いたしますぞ!」
明榛と犬王丸がすかさず、武器を振りかざし乱入するが、きりがない。
「私は大丈夫です!!二人ともッ!初震さんと桐峰殿を捜してくださいッ!」
火の粉を振りまきながら、五鶯太は必死で消えた二人の姿を捜す。
「どこ行ったッ!無事でいてください二人ともッ!」
その頃。
蝙蝠の群れを斬り裂きながら、初震姫と桐峰は、化け物の足元に到達した。
怪物の足は、それだけで小さな丘ほどの大きさがあり、見上げる彼方はまるで山の頂を地上から見上げているようであった。そしてその足も腹も、もやもやと暗雲に覆われており、けたけたと奇妙な笑い声に似た鳴き声を上げながら、女面蝙蝠がとめどなく、飛来してくるのだ。
「これは、いつまで経ってもきりがありませんね、桐峰殿」
二人は陰になり日向になり、背中合わせで斬りまくったが、中々に怪物の足までたどり着けぬ。
「…他の人たちは、どうしているのだろう」
と、桐峰が言った時だった。どう掻い潜ったか、音ノ瀬雅常が一騎、馬を駆って来る。
「ご無事かっ、二人ともッ!?」
「音ノ瀬様、貴殿は大切な御身、ご無理をなさらぬよう」
初震姫が気を遣ったが、雅常の気は衰えない。
「なんの、名を惜しんで身を養うて誰が音ノ瀬の当主たれましょうや。私もコトノハで貴殿らの、少しでも助けになりたいのだ」
雅常はたわわに実った椿の花枝を突きさすと、二人の周りに結界を張った。
「陽」
それは光り輝く太陽の結界であった。闇を厭う蝙蝠たちの群れは、麗らかな日向の光を身に浴びると、悲鳴を上げて三々五々していった。
「さあ、二人とも怪物の足を払いなされ!」
光をまとった二人はどちらが合図するともなく、怪物の足を斬りまくった。そのたびに怪物の足から、蝙蝠たちが闇を吐いて千切れ飛び、墨色の爆煙が盛大な音を立てて空に消えた。
己ッ、蚤ドモッ!
地鳴りのようなうめき声が響き渡ったはそのときだった。刹那、鯨ほどもある真っ黒な大腕が、二人を掴みとろうと空の彼方から大地を拭い去った。
「危ないッ」
二人は寸でで身をかわしたが、怪物の巨腕が大地をえぐった瞬間に発した衝撃波は、爆発物級である。砂礫まじりの爆風に煽られ、二人は一気に十間(約二十メートル)以上も吹っ飛ばされてしまった。
初震姫も桐峰もどうにか受身はとったが、斬り結ぶべき敵は遥か頭上だ。いくら足を攻めようと蚤のようなもので、いかに途方もない相手と戦っているのかを、一瞬にして思い知らされてしまった。
「このままではいけませぬ!」
すると音ノ瀬雅常は、椿の花枝を振ると長いコトノハを唱え出した。
「何をされるのです、雅常殿」
「奴の顔を、私たちの眼前まで引きずり下ろしまする。そのうちに、必殺の一撃を!」
音ノ瀬雅常が唱えるのは、さしづめコトノハの秘法である。しかし、長く時間が掛かるらしく、椿の花枝を振るその姿は、あまりに無防備だ。
「桐峰殿、わたしが雅常殿を護ります」
初震姫が意を決して言った。
「丹生の大太刀ならば、星愴めの顔を貫き通せましょう。あやつの顔に輝く紅い凶星の目は、確かそのままのはずです」
「そこが急所なのだな?」
初震姫は頷いた。
「コトノハの秘法を遣おうと、勝機は一瞬です。雅常殿はわたしに任せて、桐峰殿は決して奴から目を離さぬよう」
「この術は、私だけの力では足りませぬ」
雅常はコトノハを口に含むと花枝をかざして、軽く舞踊を踏んだ。
「この椿の大樹となった多香子の力を借りて、お二人の助けになります」
椿の花弁が、風に舞って散る。陽のコトノハの結界にそれは煌めいて、闇を溶かしてそこは春の日向のように明るい。
「頼みましたよッ、雅常殿、桐峰殿ッ!」
初震姫はその結界の内外を、飛燕のごとく飛びすさって、大腕の注意を引きつける。大地に大穴を開ける黒煙の拳を、かわしては斬りつけ、女面蝙蝠を斬り払い、二人の準備が調うのを、待った。
(堪えてくれ、初震殿)
桐峰は大足を踏ん張り大太刀を胸の前で構えると、諸手突きの姿勢だ。いくさ場では鉄の胴丸を貫いて、鎧武者二人を難なく串刺しにする桐峰必殺の刺突である。
桐峰はこの技で、三間槍の槍衾すら打ち破ったことがある。裂帛の怒号とともに繰り出される突きは、普段は大人しい桐峰に似ぬ、戦場の脅威であった。
「もう少しですッ!」
雅常が叫ぶ。悠々と踊っているように見えても、その額からは尋常でない量の脂汗が、雫となって滴っていた。
「もうそろそろ限界ですッ!」
人間離れした身のこなしの出来る初震姫だが、盲目ゆえ、集中力の限界と言うものがある。
「堪えて下さいッ」
雅常が悲鳴のような言葉を発した時だった。
「ああッ!」
初震姫の苦悶の声がほとばしる。彼方からの大腕は、初震姫の身体をついに捉え、その両手で細い身体を握り締めてしまったからだ。
「初震殿ッ!」
「桐峰殿、わたしに構わず集中をッ!」
星震の太刀が、初震姫の手から離れた。悲鳴を堪えていたが、その唇からは血が滴っている。
(だめだッ…このままでは初震殿が)
さすがに桐峰は丹生を翻そうとした。このままでは初震姫の胴体が、千切られてしまう。しかし、そのときだった。
「初震殿ッ、待たせてすまんきッ!」
地を蹴って飛び上がった元親の馬が、天を奔った。
その豪壮な大身槍が一刀両断、怪物の大腕を切って落としたのだ。物凄い悲鳴が地鳴りとともに響き渡る。墜ちた初震姫を、五鶯太はすんでで受け止めた。
「信じていましたよ、五鶯太ッ!」
(分かってましたよ)
五鶯太は苦笑した。思えばこの人は最初から、しつこいほどに言ってくれた。自分の旅には、使命には、五鶯太が必要なのだと。何があっても、信じて待っていてくれる。五鶯太は地に落ちた星震の太刀を拾い、彼女の手に渡してやった。
「さあ、初震さん!最後のひと踏ん張りですよッ!」
「震」
雅常が放ったコトノハは、緩やかな波動を大地に伝えた。途端に椿の花枝が地から湧き出し、蒸れた花の匂いが陽の光とともに辺りにこぼれだした。桃源郷のごとき柔い光は闇を押しのけ、甘い花の匂いを含んだ風と真っ白な湯気が、無数の蝙蝠たちを消し飛ばした。
白煙のごとき湯気は、温泉であった。花枝が飛び出した大地のそこかしこから、匂やかな温泉が、水龍天に登る勢いで噴き出したのだ。
グアアアアアアアアアアアアアア…
香しい無数の花の湯が、まがまがしい毒煙を蕩かす。水をかけられた燃え残りの炭のように、化け物は情けない音を立ててしゅくしゅくと溶けだしたのだ。あれほどに大きくなった化け物が膝を折って、今にも消えて行きそうだ。
大きな紅玉の片目を備えた、化け物の顔がうめき声とともに姿を現したのはそのときだ。
「目出度き餞です、星愴」
星震の太刀を取った初震姫は最後の力を振り絞って飛び上がった。
「我が星震の斬人舞踏で見送ってあげましょう」
椿の花枝を伝って、大きく飛び上がった初震姫は、黒耀色の太刀を振り存分に舞った。巨大な化け物の顔から、禍々しい蝙蝠の残党が逃げては散る。
「今ですッ、桐峰殿」
巨大な悪星の紅玉が、こちらへ向かって落ちてくる。
(安らかに眠れ)
桐峰は丹生を再び、構え直した。
(願わくば、世を言祝ぐ祈りを込めて)
葬りは、祝り。
(星愴殿。あなたも生まれ直すのだ)
祈りは、
刹那。
大きく立ちはだかる赤い暗雲を、桐峰は貫いた。