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曜変冬星~山城国・前編

曜変冬星(ようへんとうせい)】古来より、妖しい光を帯びて飛来するハレーすい星は不吉の象徴として畏れられてきた。この戦国時代には多くの目撃証言が記録として残っている。


妖星墜(ようせいお)ツ。

平安の名を戴き、この時代にして七百年の命脈を保ってきたこの京洛は、魔都の(かお)を併せ持つ。地上に棲まう魑魅魍魎(ちみもうりょう)たちが蠢く不吉な前兆として(そら)に現われた不吉の印も当然、この世の地獄の到来を予見するものとされ、人々に畏れられた。

魔王・織田信長が京都を領する御代(みよ)にも当然、その凶兆はたびたび現れている。『信長記』には天正五年旧暦九月二九日の午後八時頃、京都の西の空に巨大なハレー彗星(すいせい)が現われたことが、確認されている。これは同じ頃、デンマークの天文学者、ティコ・ブラーエも確認していたもので、巨大な彗星であった。

巨大な星が炎を噴き出して棚引き、末端は尾長い白煙になっていたと言う。

当然、京洛のものは恐れ戦いたが、あの男は畏れなかった。

元々、奇禍を悦ぶ男だ。

「これで得心致しただわ。松永弾正の(じい)めが末路、これに見えたり」

それから程なく、信長は筒井順慶を率いて信貴山城を攻め、瞬く間に進退窮まりし松永弾正久秀は、城ごと爆死した。


だが天正七年冬の、この異様な彗星の存在はどこにも記録されていない。

それは京洛の空を覆いつくさんばかりの大きさで、昏い血の色をしていた。戦場に()れたものには、(はらわた)の色である、と言ってもいい。血がにじんだ色をした光球は静脈のごとき青い雷に包まれており、夜空に蒼褪(あおざ)めた電光の亀裂を刻み込んだ。まるでこの都を急襲せんかの悪謀を、おらびあげているようでもあった。


挿絵(By みてみん)


ここは現代の|上京区油小路通元誓願寺下《かみぎょうくあぶらこうじどおりもとせいがんじくだ》ル、だいうす町と言われていた場所である。当時この古い呪都には、キリシタンたちが続々と信長の許しを得て、礼拝堂運営に乗り出していた。


その夜、かの奇僧の現れた場所も、商家の離れを借りて始められた、いわゆる南蛮寺である。三好星愴(せいそう)は重い木戸を開け放つと、がらんどうの礼拝堂から、その凶星を望んでいた。

足元に、ポルトガル人宣教師の遺体が棒のように伸びている。首には黒い縄が巻きついており、喰いしばった唇から(かに)のように白い泡がこぼれたままになっている。星愴は虎のように魁偉な風貌を歪めると、その見開いたままの死人の目に問うた。

「ふふふ、どうじゃ。死出の貴殿の目には、余計麗しかろう。(とく)とご覧じ(そうら)え。あれぞ万民恐怖、死の星ぞッ」

庭の柿木には、女房が吊るされている。濁った眼にその妖星が映っていた。まだ若いキリシタンで、博多から売られてきたと言う。この宣教師はこの都で転売するつもりか、または体のいい奴隷としてこの娘を買ったものか。

「ふンッ、吾輩とこやつら、いずれが売僧(まいす)か、あの織田の上憎慢(じょうぞうまん)にも疾く、とっくり教えてやらねばならん(のう)

そのとき、少年の黒縄丸が姿を現した。ぬらりと血に染んだ白刃を携え、詰まらなそうに自分が殺した若女房に唾を吐きかけた。

「つまらんき、この寺、人がおらん。こいでは、殺し足らん」

星愴の秘法により若返り蘇生した黒縄丸は、憎たらしげに眉をひそめた。

「黒縄丸殿、これ以上、余り血なまぐさい真似は控えなされ。大事の前の小事ぞ」

「そげいなことち、分かっちょる。ほいじゃがこいではおいの血が収まらんがじゃッ」

若々しい暴力が身体中に再び満ち溢れた黒縄丸の衝動は、何者にも止められないようだった。星愴は少年に戻ったこの男が、夜な夜な辻君(つじぎみ)(街頭娼婦)を捕まえては、陰惨な方法で殺害しているのを黙認していた。

「ええから早う、探し物を見つけてくれぬか。吾輩は時が惜しいのだ」

星愴が苦々しい顔で釘を刺していると、雪水で濡れた椿の花を弄びながら、金刺繍の打掛をまとった多香子がしゃなりと現れた。

「ありましたよ、例のもの」

艶冶な笑みを湛えながら、魔性のコトノハを操る女は謂う。

「おおうッ、然様か然様かッ!して、我が覇道の先兵は、いつ動けるかッ!?」

「今、すぐにでも。お望みならばこの街を、大挙して行軍させてご覧に入れましょうか?」

「趣向じゃッ!ぜひそうして頂きたいッ!ふははははッ信長めっ、吾輩の両面宿禰(りょうめんすくな)にて、(おのれ)が肝をひしいでくりょうッ!」


鋭く削いだ竹棒に、生首が突き刺さっている。本来は首を粘土で固めて転がらないよう(さら)すのだが、怒気を発した信長の一声のもと、この首は両頬からぶちこまれた五寸釘を噛まされながら、六条河原に据え置かれるようだ。

今、殺されたばかりの首である。血走って淀んだ目がまだ涙に濡れていた。三好星愴が阿波の三好笑厳(しょうがん)に送った密使であったと言う。

「三好の糞どもめらは、この日ノ本から根絶やしだでやッ!」

備前光忠についた血と脂を小姓に拭かせながら、信長は叫んだ。人の首をいくら断とうと、この魔王の怒りは収まりそうにない。

全く、えらいところへ呼ばれてしまった。

(勘弁してくれ…)

五鶯太は思わず目を背けた。隣では、初震姫と桐峰が平然と、出された料理を食べている。


あの巨椋池の一件から、ほどなく。初震姫たちは、京都に潜伏していた。音ノ瀬雅常(おとのせまさつね)が庇いだてをしてくれたお蔭である。実はあの夜以後、信長の怒りは収まらず、京洛には血の嵐が吹き荒れた。

三好星愴を仕留められなかったことで信長は、責任者たちや小姓の首を残らず斬って晒したり、星愴の間者と疑われたものが町辻で串刺しや火あぶりに処されたり、まさに地獄絵図だったのだ。


「わたしたちに、八つ当たりされても困ります。待ちましょう、あの御仁のお(つむり)が冷めるまで」

信長が何を言って来るか分からないので、初震姫は姿を消すことを提案した。そこで、京都の雅常に隠れ家を構えてもらい、しばらくは桐峰の住む吉野と行ったり来たりして時間を過ごしたのだった。

吉野には、明那(めいな)が待っていた。話には聞いたと思ったがさすがに、桐峰が出雲を捨て、明那を(めと)ったと言うことは、直にこの目にしなければ、中々、想像しがたいことだった。

「すっかり奥方になったなあ。おれと同い年なのに」

「へへ、おおきになあ」

五鶯太が遅れた祝いの進物を渡すと、明那は嬉しそうに頷いた。

「に、してもよう生きてたなあ今回も」

「うん、どうにか助かったよ、桐峰さんたちのお蔭で」


信長を囮にしてどうにか星愴の軍船はかわしたとは言え、脱出は命がけだった。黒縄丸の張った臭水(くそうず)の結界に遭った時は、さすがに死を覚悟したものだったが、音ノ瀬雅常のコトノハの力でどうにか逃げられたのだ。

(コトノハの力と言うのは、凄まじいな)

五鶯太も、あれには目を見張った。さすがは呪都、京都だ。しかし問題は、同じコトノハの力を持つ多香子と言う女が、星愴の方にもいる、と言うことで。

それにしてもだ。初震姫といるとやっぱり、よく生きてるなあ、と思うような事態にばっかり遭う。


「俺もそろそろ、明那みたいにどこか静かな場所で落ち着きたいよ」

「そう。楽しそうでええと思うけどな」

ちっとも、いいと言うことはない。赤震尼が死んで安心だと思っていたら今年は四季折々、各地で死にかけた。

「ところで五鶯太、あんたはどうやの?初震さんといずれ、所帯持つつもりやないの?」

「いや…(ため息)…それはどうかなあー」

ないだろうと思う。正直、想像もつかない。初震姫は旅の間も、祈祷(きとう)と非常時(斬り合いである)以外は何もしないので、五鶯太はほとんどお付きの小間使いのような位置なのである。

「五鶯太、お代わりです!桐峰殿ぐらい盛って下さい!!」

「自分でやれ!て言うか食べ過ぎですよ初震さん!?」

平穏な桐峰の家庭と較べると、五鶯太の前途は、多難と言わざるを得ない。


初震姫が体よく人を遣うのが上手いのは、もうこれは一つの才能である。

「そろそろいいでしょう。この文を持って行ってください」

信長の怒りが収まることを見て、初震姫が会談を申し入れたのは、秋を過ぎ、すっかり冬になってからのことだ。文を渡す使いにはなんと、桐峰に頼んだ。信長のいる二城御所である。桐峰は嫌な顔こそしなかったが、さすがに言いよどんでいた。

「いや、あの信長公とは知り合いなのだし、初震さんが行けば…」

「お願いします」

有無を言わせなかった。止むにやまれぬ事情があるのだろうと、人の好い桐峰は合点してくれたが何のことはない、寒い中、わざわざ出掛けていくのが嫌なのである。


「うつけめッ、聞いておるのかや初震ッ!おのれが不甲斐なきばかりに、この仕儀ではないかッ!」

予想に反して、まだ信長はぎんぎんに怒っていた。今もちょうど、人が殺されたばかりである。しかし初震姫は涼しい顔だった。

「まずはお平らに。…これ以上、笑巌殿との中を疑うとそこを、星愴に付け入られますよ?」

「むぐ…」

痛いところを突かれて、信長が黙っていた。どうもこの人も、初震姫に手玉に取られているような気がしてならない。

「問題は再び三好の衆を、結託させてしまうことです」

腐っても、かつての京都覇者である。長曾我部元親に阿波の本拠をもおびやかされている今、信長に帰服しているはずの三好家ですら、星愴にそそのかされて起死回生、叛旗を翻される可能性だってある。

強気に出ているように見えるが、信長は信長で、これ以上、謀反(むほん)が起きると困るのである。先年、この男は確かにあの三好家と所縁の深い松永弾正の反逆をどうにか阻止したが、続いて三好家が離反するとなれば、京都政界の信長に対する信頼は地に落ちるだろう。面従腹背(めんじゅうふくはい)と言っていい京公家たちは、信長がいつか高転びにすっ転ぶことを、心待ちにしているのである。

「…かようなことは、おのれに言われぬでも分かっておるでや」

初震姫に自分の痛いところを全て言い当てられて、信長は逆に冷静になったようだ。

「では、どうしたら良いのかはわたしに言われずとも分かりますね?」

「分からいでか。我が織田家の総力挙げて、星愴を(しい)せん」

「さすがは信長公です。されど」

初震姫は思わせぶりに、言葉を濁した。

「苦しゅうない」

申せ、と信長は尖ったあごをしゃくった。

「この王都でみだりに大軍を動かしたとなれば、御家の名折れになりましょう。そもそも大軍を動かす、とは言え今、この京都には織田さまの馬廻り衆の他、僅かな手兵しかおらず」

「むぐっ」

信長は苦しい顔をした。苦しゅうないと言ったのに。だが初震姫が言うようにこの天正七年は、織田家のあらゆる方面軍が働きに働いている年であった。

加賀に侵攻した柴田勝家はじめ、丹波平定中の明智光秀、中国攻略中の羽柴秀吉には丹羽長秀の増援を送ってしまっているし、さらには荒木村重の反乱が伊丹で続いている。

「後は伊勢の信孝さま、信雄さまを頼るしかありませんが、軍備に時間がかかりすぎましょう」

「…ちょっと待て、お前、なぜそこまで知っておる?」

やたらと織田家の内情に詳しい初震姫に、信長もさすがに不審顔だ。

「この初震がどうにか致しましょう。矢銭のご用意は、ございますね?」

「銭なれば、腐るほどある」

信長は胸を張った。確かにこの男がその気になれば、この広間いっぱいにたちまち黄金を積み上げてしまうことすら、夢物語ではない。

「では武器弾薬調達の一切は、このわたしめにお任せ下さいまし」

「初震、おのれはいつから武器商となりしや」

さすがに信長も怪訝そうだ。

「御戯れを。この初震にてはございませぬ。されど、最も速く武器弾薬に、その扱いになれた鉄砲巧者どもを集める武器商にあてがあるのです」

「おのれにか」

信長は、訳が分からないと言うように、難しい顔で首をひねった。


「それでわたしか!?そんな急に…ふざけるなッ!」

それから、すぐに堺である。夷空が金切声を上げていた。

「良かったではないですか。最近、大口の仕事がなくて困っていたのでしょう?」

「それはそうだが、いきなり織田家と言うのは」

夷空は渋ったが、目の前にはすでに織田家から直送の黄金が山と積まれていた。まさかこれで、動かないと言うわけにはいくまい。

「このお金で人も雇ってください。銃や爆薬の扱いに慣れている倭寇の用心棒たちも、残らず」

「人もか!?…まあ、こうなったら何でもやるが、一体これから何があるんだ?」

「あなたもくれば分かります。このお金は、あなた自身の雇い金も含んでいますからね」

「ったくどうせ、人の金だと思って」

夷空は呆れ顔だったが、このときすでに初震姫は時を急いでいたのだった。


晦日近くになって、京都の音ノ瀬雅常からの急報がいくさ支度に急ぐ、信長と初震姫たちに衝撃を与えたのだ。今度はなんと、凶星どころの騒ぎではない。ここ数日で京都の気候が激変したのだ。

夷空を伴って初震姫と五鶯太が戻ったのは昼過ぎだが、すでに急変は誰の目にも明らかだった。

「暑いですね…」

初震姫は重たい息をついた。師走の京都が、真夏のように暑いのである。空には紫色の雲が垂れ込め、太陽はその影に隠れて怪しい光を放っていたが、風もなく空気がどろりとして、息を吐くのも苦しいと言う有様だった。

「昨日もこうであったのだ。こうしていると、やがて大雨が降ってくる」

果たして雅常の言う通り、半刻もしないうちに色濃い暗雲がどこからともなく立ち込めて来て、大水のような雨が降った。稲光は暗天を焦がし、大地を揺るがして脅かすのを愉しんでいるかのように、いつ果てるともなく縦横に(ほとばし)り続けたのだ。

「何が起きておるでや」

さすがの信長も、こうなると薄気味が悪くなってきたらしい。そこで何か軽口を言ってごまかすのかと、五鶯太は初震姫を見ていたが、彼女もまたこの異様な天を見上げて、呻くように一言、つぶやいたのである。

「こうなると、すでに遅かったやも知れません」

いつもの思わせぶりな含み笑いは、ない。五鶯太は思わず背筋に、冷たいものを感ぜざるを得なかった。

大雨が去ると、暑気に刺すような冷気が入り混じり、何とも気色の悪い気候になった。人の(はらわた)の中にいるかのような血濡れた夕闇が現われ、時刻が逢魔が時に差し掛かった頃だ。

京大路を横切る、ひと際大きな軍勢が横切ったのは。身の丈七尺(約二・一メートル)を超えた男たちの肌は死人のように灰色にくすんで、肌は干し大根のようにへしゃげていた。そして更なる異様は、一人で二人分の顔と手足を持っていたことだ。

両面宿儺(りょうめんすくな)だ」

桐峰が、呻くようにつぶやいたのはそのときだ。

両面宿儺は『日本書紀』の記述に登場する、飛騨地方に跋扈(ばっこ)した怪物である。丈七尺の巨体に四本の手足を持ち、項のない顔が頭頂部で合していたとされる。ときの仁徳天皇の命で討伐されたが、実体はどこかに封じ込められていたのだ。

「それが封じたのは、コトノハの一族らしいのだ」

桐峰は音ノ瀬雅常から聞いた話を謂った。

「もはや本家の古老も知る者の少ない、(ふる)い言い伝えらしいのだ。仁徳六十五年、武振熊(たけのふるくま)率いる討伐隊の中に、卜占師として私たち、音ノ瀬の遠祖が参加していた、と」

そのとき両面宿儺を封じたとされるコトノハは、どこかへ秘蔵された。何しろ怪物を封じた異形のコトノハゆえ、後代の音ノ瀬当主がこれを忌んだためである。

「両面宿儺を連れた多香子に、私は()った。だが、まさか軍勢にするほどに、あの化け物がいたとは」

大きな化け物の群れは、二百は居た。大身の大剣二本に、豪弓を携えたこの化け物は、一体で四人分の働きはするところだろう。

(まさかあれと戦うのか)

五鶯太などは、思わず足腰が震えた。

異形の軍勢は鳥辺山へ向かった。その山のはるか上に例の、凶星が今にも墜ちんばかりに光っている。

「まさか、あそこに星愴が…」

妖光を浴びつつ、殺気を孕んだ信長は唇を噛んだ。

「こうしてはおれぬ。あの化け物もろとも、鳥辺山を焼き討ちだでや。馬廻りの者どもを集めいッ!初震、己も出ぬとは言わさぬぞッ!」

信長は鞭打って馬を駆ると、自ら先頭に立った。

化け物の軍勢に恐怖を覚える前に、先手必勝、総攻撃を仕掛ける気だろう。歴戦のいくさ巧者の勘がそう告げているのだ。

「我々はどうする?」

桐峰の問いに、初震姫は即答した。

「無論、出ます。されど、公とは別でなければなりません。織田の軍勢には、夷空殿の傭兵部隊が添います。我らは搦め手から、鳥辺山の三好星愴たちの首を一気に狙うのです」

いざとなるとこの人も、信長並みに過激だ。だがそこにいるのは、いつもの自堕落な太震姫(ふとふりひめ)ではない。先の耳川合戦の記憶が鮮やかに蘇った。さすがの五鶯太も、ここで怖じている場合ではない。


「桐峰殿は、一旦音ノ瀬の屋敷に」

初震姫は手分けを指示した。

「雅常殿が、(さかのぼ)って古記録を調べています。多香子さんが用いたのは『両面宿儺を目覚めさせるコトノハ』、これは誰の目にも触れ得ぬ場所へ死蔵されていたはずですが、本家には必ず『封じる』方のコトノハが遺されているはずです。累代の当主が異形のコトノハを忌んだとしても、こうしたときのために必ず封じのコトノハは保管されているはずです」

「分かった。雅常殿と、それを持って行けばいいのだな?」

桐峰の言葉に初震姫は、頷いた。

「ここが鍔際です」


信長の軍勢が出た。兵五百、さらに二百名の夷空率いる倭寇鉄砲隊を率いている。同時に初震姫も五鶯太に馬を操らせ、その背に乗ったが、京都市街ではさらに恐ろしい状況が出現していた。

「なっ、あれは死人ではにゃあか!?」

どこから現れたか、土気色の肌をした死人の群れが、おめきながら市街に充満しだしたのである。半裸の死人たちは顔のとろけているもの、目玉の流れているもの、半分骸骨と化しているものなど、目も当てられない者たちだった。彼らは口々に悲鳴を口にしながら、人家の戸を(ほた)れた手足で叩き始めたのだ。

「開けてくりょお、助けてくりょお」

人々は戸板を抑えて、必死に群がる亡者を追い払った。中には武器を持って出て来て、なぜか助けを求める死人たちを実力行使で叩き伏せる者たちも現れた。襲っているのは死者たちではない。

「彼らは何を恐れているのでしょう?」

「あれでしょう」

初震姫があごをしゃくった。常人より敏感な耳が何かを捉えたようだった。それは、ばたばたばらばらと言う、不穏な金属音である。薄い鉄板が擦れ合っていると言うか、それが激しくしきりにぶつかりあっているような感じであり、聞いていて落ち着かない何とも薄気味の悪い音だった。

正体は虫の羽音である。五鶯太は馬上、肝を潰した。人の頭ほどの本体に、鉄色の(はね)をばたつかせた怪物のような紅い目の虫が、逃げ惑う亡者たちに群がったのである。仏道に深い五鶯太は、特に恐怖した。これではまるで、地獄である。

亡者たちの腐った頭から汚れた血肉を吸い上げているのは、叫喚地獄(きょうかんじごく)にいると言われる火末虫(かまつちゅう)そのままなのだ。かつて五鶯太は、『地獄草紙』の絵巻を見せてもらったことがある。そこに出てきた火末虫そのものなのだ。

「撃てッ!撃ち落とせ!」

信長の下知で、鉄砲隊の掃射が始まったが、鉄の虫たちは弾丸を喰らっても硬い金属音を立てて地に叩き伏せられるばかりで、何事もなかったかのように起き上ってきた。まるで甲冑武者である。

「ばっ、化け物っ」

鉄砲手は逆に怖じた。しかし、もっと恐ろしいのは信長の掃射の巻き添えを喰って撃ち殺された亡者たちの方だ。地獄の亡者たちは弾丸を喰らって崩れ折れたが、急所に弾丸を喰らってもずるずると這いずり、血まみれの顔で助けを求めて来たからだ。

「いたい、いたい」「助け…ったすけてくりょ」

「黙りゃあッ!」

力任せに信長は、その首を刎ねた。だが首になってもまだ、亡者たちは恨み言を訴え続ける。

「亡者とて恐れるな!ええかっ、どいつも細切れにせえッ!身動きできねば、襲っては来にゃあで」

それでも信長は馬上、長巻を取り、亡者の手足をばらばらにして回ったが、五条大橋に差し掛かった時、思わず息を呑んだ。

(なんだでや、あれは)

血汐を振りまき、はたまた白煙を上げ、亡者の群れが大挙して押し寄せてきたのである。土にまみれた髪を振り乱し、小袖や帯から真新しい血と臓物を滴らせた女たちの群れが、恨みのうめきと念仏を上げながらこちらへ向かって来るのである。

「地獄は苦しや、浄土はいずこや」「信長めえ、信長めえ」

「上様ッ、あれは有岡城の…」

悲鳴を呑み込んだ小姓の声に、さすがの信長も絶句した。あれはつい先日、信長自身が処刑を断行した荒木村重の女房百二十二人、下女若党、五百十二人の亡者の群れである。

離反した荒木村重が置いていった有岡城の住人たちを信長は容赦なく殺戮(さつりく)したのだ。『信長公記』によると師走十六日辰の刻(午前八時)、処刑場は京都六条河原。村重が情けをかけた女たちは、幼い子供を抱いて磔にかかり、槍でもろとも貫かれ殺された。そして残る下女若党たちを信長は小屋に押しこめ、四方から火をくべて()き殺したのだ。

その亡者の群れがそっくり、信長の元へ戻ってきた。しかも先頭にいる袈裟に胴を斬られた血みどろの女に、信長は見覚えがある。何度か、声をかけた覚えすらある。かねてから絶世の美人と評判であった荒木村重の妻、だしの方ではないか。

「くっ」

これには、さすがの信長も身震いした。全員が信長の下知で、恨みを持ったまま殺された人々だ。

「退けっ!退けえいっ!立て直すでやッ!はようせえッ!」


(ここは間違いなく、地獄だ)

凄まじいにもほどがある。五鶯太は、戦慄を禁じ得なかった。

「自業自得でしょう」

しかし初震姫は、意に介しない。この人もさんんざ人を斬り殺しているだろうに、思うことはないのだろうか。

「待ちな、初震」

その聞き覚えのある女の声が立ったのは、次の瞬間だ。女は小路から、突然、光る刃を問答無用で浴びせてきた。どうにか五鶯太はその刃をかわしたのだ。

「お前は…!」

五鶯太は絶句し、声を詰まらせた。あの能面を忘れるものか。弱法師(よろぼうし)である。赤震尼の追手で、五鶯太の御頭を殺した異形の剣士。その正体は女だった。

「久しいねえ、初震。あんたに因果を応報しに舞い戻ったよ」

「あなたに借りなど、作った覚えはありません」

するりと初震姫は、五鶯太の背を降りた。

「よく、その口で言えたものだね。殺しているんだろう。巫女の癖に。このわたし以外にも、沢山、沢山さあ。あんたにはその業が憑いているんだ」

「かも知れません。しかし、それもすべて星震の巫女として生まれた星の定めによるものです」

「格好いいねえ。でもここは地獄だ。素直になんなよ」

弱法師は肩をすくめると、その穴の開いた剣をくるくると回し始めた。そう、あれは不可思議な音を出す。いわゆる催眠術型の幻術なのだ。

(まずい)

五鶯太は解呪の卦を、口の中で唱えた。

「どう理屈をつけようと、あんたは人を殺したんだ。この京都で、わたしをっ」

次の瞬間だ。初震姫は一気に間合いを詰め、渾身の居合を放った。弱法師の(ほた)れた胴が飛び、どたんと塀に当たって落ちた。

「な…初震…お前」

亡者は衝撃で口も利けない。

「生きていたときより、腕が落ちましたね、弱法師殿」

こともなげに言うと、初震姫は漆黒の太刀を血ぶるいした。

「あなたの言う通りです。わたしは沢山殺しましたし、あなたたちにも奪われました。しかしわたしのすべての業は、星震大社の御前にこそ、報いられ(あがな)われるべきもの。あなたに罪を問われる覚えはありませんし、第一ここは地獄ではありません」

きっぱりと初震姫は断言した。

「この京都は、ここは地獄、と言う最も(ふる)い呪いをかけられただけです。ほどなく、わたしの仲間がその呪いを解くでしょう。あなたも三好星愴が創り出した、憐れな化け物に過ぎません」

「ふ…揺るがない女だ、お前も」

「そもそも、あなたも、あなたの理由があって赤震尼に(したが)ったのでしょう?たといそれで地獄に落とされても構わないと言う、その覚悟で」

「違いない」

欠けた面の下で、くっくっと弱法師は(わら)った。この女もまた、赤震尼に狂わされた憐れな女に過ぎなかった。

「だがここは地獄だよ。…紛れもない、わたしはここにいる。…なんて苦しいんだ。あんたのせいだ。あんたに復讐したい人間は、黄泉路にごまんといるんだよ」

震える指で弱法師は、初震姫の背後を指した。今度こそ、五鶯太は悲鳴を上げた。

あれは、へしゃげた鎧をまとった甲州武者たちだ。忘れもしない赤目源平太、さらには遠い昔、初震姫に斬殺された源平太の兄・兵部尉(ひょうぶのじょう)までいる。これではいくら初震姫でも、多勢に無勢だ。

「初震姫ずらあっ、あの首を挙げねばならねえらっ」

「この恨みはらさでおくべきかあッ」

荒武者の突進は、しかし、割り込んできた一頭の白馬に遮られる。古式に鍬形をうった頭形(ずなり)の筋兜を被った、颯爽とした武者は銛のような長大な鉄槍を携えていたのだ。

(まさかあれは)

五鶯太は我が目を思わず疑った。

馬上、その武者は、あっ、と言うほどもなく、兵部尉と源平太に向かって槍を放った。あの長大な槍を軽々と投げたのだ。あの細身で驚くべき怪力だ。

槍は兵部尉と源平太、二人ながら無慈悲に貫いて、ぐしゃりと板塀に刺し止めた。つぶれた(かに)のように二人の亡者は、もはや身動きが取れない。

「遅うなったがぜ、初震殿」

あれは四国の覇王、長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)だ。まさか遥々と、屈強で鳴る一領具足たちを率い、京都まで馬を駆って現れるとは。

「行きましょう、五鶯太」

初震姫は五鶯太に向かって、言った。

「今こそ三好星愴めを、退治るときです」

うっすら暮れてきた空にひと際大きな妖星が、輝きだしたのはそのときだ。


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九藤朋さんが描くアナザーストーリーはこちら→ 小野桐峰 閃刃祈闘
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