体露金風(たいろこんぷう)~山城国
【体露金風】臨済禅の語、『碧巌録』より。秋風が吹いて落葉する秋を転じて、虚飾剥がれ落ち、無駄なものなき無の境地明らかなるときと喩える。転じて「すべてが明らかになるとき」の意。
密やかに濡れた土の気配がする野に、清かに花々が群れていた。むせ返るほどの甘い匂い。そのえもいわれぬ香気は水気を帯びた秋風に浸り切り、黄金色の爛漫を咲き誇らせていた。
金木犀は大陸渡来の花である。かの地では、桂花と呼ぶ。その典雅な芳香は特に尊ばれ、酒に浸して楽しまれてきたと言う。
まるで金粉をまぶしたかにみえる花々を護って、椿を思わせる堅い葉は油の光沢に月明かりを享け、幽かな音を立て震えていた。
鈴虫の音に混じってどこかで鈍重な牛蛙の、そぞろ啼く声がする。立つ音は、いつまで経ってもそれだけだ。
ここは巨椋池中洲にある織田信長の隠れ家である。今や王都に並ぶものない権勢を誇る戦国の覇王にして、近江安土に首城を築く隠れ無き天下の主だが、居場所を知られぬ塒を、いくつも隠し持っているようだ。
現代には消滅した伏見郊外の巨大な池は、その立地にふさわしく無数の洲や孤島を孕む一大湖水地帯であった。覇王はその一つに、誰にも悟られぬ隠れ家を極秘で設けていた。なんとその所在は、忠義の家来どころか、ごく少数の人間しか知られぬ。そんな場所に、その夜、珍客が迎えられた。
夜陰に紛れて小舟で往く舳には、若巫女一行の影があった。初震姫と五鶯太である。
ちょうど一年前、この二人は京で信長に閲し、はるか九州の奥地、豊後耳川まで将軍足利家の秘宝、名物『鬼室』の茶碗を求めて旅をした。御免状をもらったかに見えた初震姫だが、信長のあえない裏切りを受け、危うく命を狙われそうになったのである。
「あなたがたに再び、安土殿を訪ねてほしいのだ」
そんな信長との再会を二人に依頼したのは、四国の覇者、長曾我部元親であった。現在すでに四国のほとんどを領するこの土佐の太守は、阿波・讃岐、残る東半分を我が物にしようと、軍勢を展開中である。
「本来ならば私も行って直接、安土殿にまみえたいところなのだが」
と元親は、なぜか照れ臭そうに頭を掻いた。
「なるほど、元親殿は行って寝首を掻かれても仕方ありませんものね」
元親のおごりで爆食しておきながら、ずけずけと初震姫は本音を言った。
「ですが本来、三好家より元親殿、あなたの方が信長公とは誼は旧く、相通ずるものも多いはずでは?」
「そうなのだ。織田殿は、今でも私の憧れでもあるのだよ」
元親はどこか、遠くを眺めるような眼差しで言った。
元々、この男と、信長との誼は深い。それはまだ信長が岐阜にいて、四方八方の敵に苦戦しているときからであった。草深い土佐にいて、元親はいち早くこの英雄に目をつけ、まだほとんど利害関係のない時期から親交を望んだのだ。
「出来れば織田家から、嫁を迎えたい」
この申し出は、新し物好きの信長をひどく喜ばせた。
「奇特な男だでや」
結局来た嫁は織田家の人間ではなく、その陪臣の娘ではあったが、政略婚としては上々である。何しろ爾来、織田信長のお墨付きあってこそ、四国を席巻できたと言ってもいいのだ。
しかし元親は、正直なところを言えばやり過ぎた。四国全土を占領下に置けるほどの国力を蓄えた彼は、信長からむしろ疎まれる存在になっていたのである。元親と敵対する三好家がすでに京都情勢に古く、こちらも信長に深く取り入っていたせいもある。信長の元親を見る目は厳しく、長曾我部家はまさに南国の癌になりつつある。
「確かに私も、目立つには目立ちすぎたが、決して織田殿との誼に叛く存念があってのことではないしねえ」
鰹のたたきを摘みながら、元親は独り言つ。その言いざまは同じ実力主義の戦国大名として、当然のことをしたまでだ、と言わんばかりの矜持を含んでいた。つまり若干、説得力が薄い。
「方便はお互い様だ。今や、我が一領具足は、万余の軍勢になってしまったしね。彼らに扶持を与えなくては、私の国は維持できない」
「つまり、三好家の版図を侵すも、やむなし、ってことですか?」
五鶯太は半ば呆れて問い返した。それならばいざ自分の意志が叶わねば、信長と直接対決も辞さない、と言うのと一緒ではないか。一見頼りない優男に見えるが、熾火を宿した元親の瞳には、ただでは飼いならされまい、と言う不屈の意志が盛っていた。
「やってもいいが、それは最終手段さ」
元親はその目のまま、二人に肩をすくめてみせた。
「私はただ、少し落ち着いて織田殿に話を聞いて欲しいだけなんだよ。三好家よりも私の言うことを聞いてくれた方が、織田家のためになる。三好星愴の狙いは、かつて三好家が覇権を唱えた、京都にあるのだ。信長公の懐のうちで彼らは地下活動を行い、着々と叛旗の牙を研いでいる」
元親は、銛のような槍を取り上げると、狂鷲女が持っていた甲冑を着た黒縄丸のミイラ体を一撃した。すると驚くべきことが起きたのだ。槍で刺し貫かれた身体はがらんどうで、まるで蝉の抜け殻のようにくしゃりと潰れただけだった。
「黒縄丸は生きている」
確信を込めて、元親は言う。
「まさか」
にわかに信じがたい話だが、初震姫といてあり得ないことなどさんざん見てきた五鶯太には言下に否定できなかった。首と胴が離れた遺体を蘇らせた三好星愴と言う男が、このとき五鶯太の中では不気味な奇跡を起こす、赤震尼とはまた種類のことなる怪人として、立ち現われてきたかに思えたのである。
「あの男の性格だ。三好家のことがどうと言うよりは、喜んで星愴が走狗となって、下手をすれば王都を焼き尽くすだろう。これは織田殿に親切で申し上げている」
「つまり黒縄丸を放っておいて信長公を悩ますよりは、恩を売りたいわけですね?」
「それもある。だが、三好星愴の企てこそ、この日ノ本のためにならぬからだ」
元親は言うと熾火から、燃え盛る火箸を取り出し、鰹の俎板に突き刺してみせた。
「九州で見てきたはずだ。あの男は再びこの日ノ本に凶星を召喚ばん、としている」
京都に再び、凶星、堕つ。
ともなれば信長によってまとまりかけたこの戦乱の世は、原初の殺戮と貧困の世に立ち戻るだろう、と元親は謂うのだ。
「この預言は、私が生まれたときすでに、貴殿の御母上、妙震の巫女殿が、触れて回っていたことだ」
「初震さんの母上が?」
「思い当たる、節はないではありません」
揺れる舟灯りに照らされた初震姫の顔は、いつもと違い血の気が引きかけていた。
「わたしたち星震の巫女が、九王沢に大社を構えたのは、代々、天から来る凶星が呼ぶ凶運の跋扈を阻むためでありましたから」
思えば、九州耳川にて退治られた赤震尼。あれは元々、上古の昔に京都に飛来した凶星のまさに落胤であったのではなかったか。
「実は凶星飛来の予兆は、幾度もわたしたち巫女によって星震社に報告されているのです。しかし自ら、凶星を呼ばんとする者が現われたのは、これが初めてです…」
凶星を身に享け、戦国大名の間を暗躍する三好星愴。
それはあの赤震尼に次ぐ、凶縁の申し子なのか。
暗闇に乗り出す舟に、五鶯太は思わず前途の不安を想った。
信長最大の秘所、とも言えるその洲は一見、藪に覆われた鬱蒼とした小島だった。空豆に似た楕円形の島は、四半刻もあれば十分にひと回り出来るほどの大きさであろうか。今それは前方で、夜霧に霞んで実体を無いかのものにしている。
島の土地の際まで群生する篠のせいで、船着き場は一つだけだと言う。今夜そこには主の在住を表わすために篝が焚かれ、甲冑に固めた武者たちで厳重に監視されていた。遥か沖から、初震姫たちの舟には鉄砲足軽の目当て(照準のこと)が釘付けにされている。
(ここに確かに、織田信長がいる)
元・武田家の五鶯太は、それだけで胃の腑が縮み上がるようだ。しかもすでに一年前、謀殺されそうにもなっている。会うのにはまさに決死の覚悟が要った。
夜陰、巨椋池は鎮まり返っている。しかし、闇に沈んだ無数の島洲のそちこちに、信長は伏勢を配置していると考えてよく、いざと言う場合、脱出は困難を極めよう。
「案ずることはありません、五鶯太」
その不安を見透かしたように、初震姫が五鶯太に耳打った。
「元親卿も心得ておいでです。ただでは、わたしたちを放りますまい」
確かに。木瓜の甲冑武者たちの間に、見慣れた風体を五鶯太は見つけた。
小野桐峰。
先年の赤震尼大退治のときに、耳川の戦場をともに馳駆した出雲御師の剣士がすでに京都に参着していたとは。
「元親卿は京都に代理人を持っております。その方を通じて、わたしたちの状況もすでに連絡済です」
桐峰は、素襖姿のいかにも身分の高そうな少年を連れていた。それに寄り添う烏帽子に束帯の公家風の姿の男こそが、元親が手配した、桐峰と初震姫を引き合わせるべき、協力者であった。
「京都、音ノ瀬一族について聞いたことは?」
「は、話だけは。でも、あまり詳しくは」
五鶯太は戦慄しつつ、かぶりを振った。
音ノ瀬。それは一族の血を受け継ぐものだけがその『音』を発することによってのみ作用する、特殊な言霊を操る京都の秘家。御師仲間でも実態を知るものは少ない。音ノ瀬とは、上古より神祇官を務め、強力な『コトノハ』を操る、と言われる。
その秘術は朝廷内史の裏表に見え隠れするものの、実際にその一族の人間に知己を得たものは、類いも稀と言われる。呪都京都でも、稀有の血統だ。
現当主は、雅常と言うらしい。元親が懇意にしている京都の商家からの紹介状を示した彼は、初震姫と五鶯太を陸へ招きあげる。
「長曾我部と懇意の宍喰屋より、元親卿の文、受け取りました。初震姫殿、まさか星震の大社のものがすでにあの、三好の売僧とお関わりとは」
「わたしも驚いていたところです。京都にても名だたる名家、音ノ瀬の御一族がすでにあの三好星愴の野望を察知されていらっしゃったとは」
「初震さん、俺だ。久しいな。聞いての通り、どうも、厄介なことになっている」
そもそもは桐峰が、三好の遺児に関わったことが、向こうの発端のようだ。この遺児を犬王丸と言い、もう一人同行の武士、明榛と言う名の武士が守り立ててきたらしい。
「あなたは三好星愴と言う男がなしてきた野望をたどってきたのだろう。その奇僧のこと、もう少し詳しく訊かせてくれぬか。どうもこの、犬王丸が受け継ぎし形見が狙われてるようなのだ」
赤震尼を生んだ赤き凶星の化身、三好星愴の野望は常識では図り難い。初震姫と五鶯太は戦友の桐峰に、赤震尼死後からの三好星愴と言う男の動向を話した。
「なるほど、京に再び赤震尼の凶星を…」
あまりに気宇壮大な怪僧の野望に、桐峰も思わず顔色を喪っていた。
「恐らくは犬王丸殿、あなたの持たされた守り袋の中には、上古に飛来した凶星の欠片が封じ込められているはずです」
初震姫の言われるままに、犬王丸は守り袋からその禍々しい欠片を取り出した。初震姫はそれを手に享けると、なぜかほっと息を吐いた。
「どうやら上手く、封じられたままのようです」
「この凶星の欠片は元々、我が音ノ瀬一族が、封印のコトノハをかけてその瘴気を閉じ込めていたものなのです」
音ノ瀬雅常は言うと、欠片を裏返してみせた。そこに血錆びた釘のようなもので刻みつけた見たこともない不可思議な文字があった。
「これを読み、効力を発揮できるのは音ノ瀬の血統に限ります」
「つまり音ノ瀬一族でなければ、封印を解くことは出来ない、と言うわけですね?」
五鶯太の問いに、雅常は頷いた。それならばまだ、安心できる要素はある。
「とは言え油断は出来ませんよ、五鶯太。これが狙われていた、と言うことは、星愴は音ノ瀬一族がこれを封じていたことも、調査済みと言うこと。必ず何らかの手を打ってきましょう」
「確かにその辺については、私も今ひとつ気がかりが…」
と肝心の雅常も何か、不安が兆しているようだ。
「王都に墜ちる凶星は、万余の軍勢よりも威力を発揮しましょう」
そのとき、星愴は密かに用意していた軍勢を上げ、信長から一気にこの京都を奪い取ってしまう腹積もりであると言う。
「当然、織田殿にも手を貸して頂きます。然様に桐峰殿も心得て、よろしく頼みます」
「いや、こちらこそ、忝い」
耳川合戦以の誼を、初震姫たちは確かめ合ったのだった。
船着き場の竹藪をくぐり抜けると、そこからは一面、金木犀の林だった。信長がわざわざ取り寄せて植えさせたのか、珍しい大陸の外来種をこれほど揃えるのには、どれほどの財力と権力に物を言わせれば足るだろうか。
「このような場所に、信長公はなぜこのような貴重な大陸の花木を…」
その価値を知る雅常などは呆れかえっている。
「本当に欲しいものには財を惜しまず、誰にも一指も触れさせず、独り占めしたい方なのです。昔からそうでした。この花木の庭もこの秋限り、他日はここを見向きもしますまい。自分が好きなものにはなりふり構わぬのがあの御仁です」
その信長に殺されかけた初震姫は、皮肉な微笑を浮かべる。
信長の隠家は、その林のただ中にある。この孤島では仕方がないが、いかにも小ぢんまりした侘びた屋敷だ。下賤の者を扱うがごとく、初震姫たちは庭へ回らされた。濡れ縁は黒々とふてぶてしい威容を持った柿の木が一本、この金木犀の森に打ちこまれた楔のように植え込まれていた。
庭には即席の能舞台が設けられている。篝火だけが煌々と焚かれる中、ひと気のない舞台を眺めながら詰まらなそうに、庭木からむしった柿をかじっている髭の薄い痩身の男がいた。赤と黒の奇抜な着流しを着こなしている。まさにこの男こそが、織田信長である。
「お久しく、安土様」
自分が殺されそうになったことなど、素知らぬ風に初震姫は言うと、信長は目をつむってにたりと笑った。
「九州まで苦労。かの地での顛末、まずは物語せえ。ここは俗界にあらず。余計な辞儀合いは無用だでや」
信長は信長で、あまりに図々しい物言いだ。この二人の間のことは、とても理解出来ない、と五鶯太は思った。そのまま、初震姫は九州への旅のことを語った。あの不吉な茶碗・鬼室の正体と、凶星の申し子、赤震尼の顛末を。信長はそれを一言の疑問も差し挟まず聞いていた。
「かくて、赤震尼は耳川にて絶えました。ですが、その脅威は絶えたわけではありません。今は脅威は三好家にありまする。安土様はかの三好実休義賢殿に遺児ありとて、暗躍せし、奇僧をご存知にてございましょうや?」
「知らいでか。星愴なりしとて、京公家のみならず西の毛利家にも通ずる食わせ者だわ」
信長は初震姫が差し出した長曾我部元親の書を広げ、目を通しながら話した。
「なるほど。元親めが、この信長を相手に小癪なる物言いをしたるものだでや。されど阿波三好めは、ちょうど我に助けを求めてきおるでや。高知の大蛇めの魂胆げに恐ろし、努々油断為されますな、とな」
「三好笑巌殿(康長、長慶の叔父、実休に仕え、織田政権では四国政策を担当した)も、『星愴』の二字を聞けば、黙っておられませぬでしょう」
そして、と初震姫は梟女谷の黒縄丸の話をした。土佐で元親の威勢を駆り暴虐をほしいままにしたその男は、星愴の怪しげな祈祷によって蘇り、すでに星愴とともに潜伏している可能性が高いのだ。
「あの二人の野望は、かつての太守、三好長慶公以来の三好家の復権です。このままでは信長公、あなたの命も間違いなく狙われましょう」
初震姫は微笑を含んで、今度は桐峰を促した。桐峰は進み出て言った。
「俺と初震殿が、その野望を喰い止めよう。信長公、あなたにはその代り、ここにいる犬王丸の一命、救って頂く」
犬王丸の名を聞き、信長はぴくりと眉をひそめた。
小野桐峰が求めたのは、犬王丸の助命嘆願である。この三好義継の遺児が隠し持っていた凶星の欠片こそが、そもそもの話の発端だったのだ。
「星愴めが狙いの本願は、この都に赤震尼を産みしあの凶星を再来させることにござりまする。もしそれが万一、犬王丸殿の手から奪われ、凶星が墜ちるとなれば、王都、悉く灰塵に帰するは、必定でございましょう」
星愴が引き起こそうとしている事態が、もはや人為を越えた天災であることを聞き、さすがの信長も一瞬、言葉を喪った。
「これはいくさになく、天がもたらしたる災厄に他なく。都に凶星降らば、王都の命運は再び尽き、四百年の悪縁を、再び呼び覚ますこととなりましょう」
「で、あるか」
信長の声は珍しく神妙の色を帯びている。
織田信長がもたらした京都の平安は、応仁の乱から数えれば実に、百年ぶりの安泰になりつつある。入京以来、心を砕いてきた王都の再建を灰燼に帰されるとあれば、たとえ信長といえど、顔色を喪うのは無理もない話であった。
「つつがなく、首尾よう、やれるのであろうがや?」
信長の念押しに、初震姫はこともなく頷いた。
「してのけねば、なりませぬ。それが我らの使命でござりますもの。ねえ、桐峰殿」
「ああ、やるしかない」
桐峰も堂々と頷いた。先の耳川合戦で、あの激戦のさなか、凶星の申し子、赤震尼がもたらす災厄を喰い止めた二人の瞳に曇りはない。
「災厄を取り除きましょう。ただし、信長様の織田家がためになく、この日ノ本があまねく民のために」
「ふふん、吹くわ」
初震姫の皮肉はきつすぎたが、信長も同じほどに不敵だった。
「されど道理だでや。人間五十年、まず我が滅べど、この王都は千代に残るであろうがや」
盛る篝の中で、信長は星震舞を所望した。金粉をふりかけたかに見える南陽の花は、秋の夜気に冷えて格別の芳香を放っている。
「桐峰殿、お付き合い下さいますね?」
桐峰は快く頷いた。出雲御師の桐峰には神楽舞に、即興の龍笛の心得ほどはある。
薫り高い金木犀の秋風に、鼓を取った五鶯太は夢うつつのようだった。
今宵はただの星震舞ではない。
(こんな趣向は初めてだ)
初震姫の薄い袖が翻るたびに、篝火から熾った焔が千切れ舞い、金粉をまぶしたかに見えるこの南洋の花林に、妖しいほどに眩い色彩を添えたのだ。爛熟した果実よりも色濃い花の香が、星震舞にたゆたう初震姫に絡み、ほとび、消えてゆく。
冷えた秋風の清きは、真夏のひだるい虚飾を剥ぎ落とし、すべてを露わにすると言うが。
(ここはまるで、幽世のようだ)
五鶯太は思わず息を呑んだ。あらゆる虚飾や誤差を孕みつつも、なお進み続ける現世の時間ですら、ここでは停まる。この世を引き連れて生きる覇王・織田信長が、ほんの束の間、この星震の舞を望んだのも分からないことではなかった。
この星震舞の幻惑は、能狂言が演出する幽玄の世界ともまた似て非なるものだ。五鶯太は何度も初震姫の舞に合いの手を付き合ううち、この舞の不思議さが肌で分かるようになってきた。
ことに、今夜は格別だった。異界の森で、たおやかに闇を漂う初震姫の姿を見ていると、この地面から飛び立ってあの夜空の果てにいるかのように五鶯太は錯覚せられた。
桐峰が奏する、龍笛の響きの巧みさもある。龍笛とはその名を呼んで字のごとく、天翔ける龍のたなびき泳ぐさまを、妙なる笛の旋律に喩えたものだ。
現世の覇者となりつつある信長もまた、同じ心持ちでいるのか。異世界を飛び舞う初震姫を凝視したまま、身じろぎもしなかった。今一たびこの男ですら、浮世の覇道と野望を忘れているのか。
ふと、龍笛の音が止んだ。鼓を打っていた五鶯太はいち早く、桐峰の異変に気づいた。金木犀の林の彼方からのそりと不穏な巨体が姿を現したからだ。
「いやあっはっはっはッ!見事ッ、御見事ッ!」
雷名のように無粋な快哉が、妙なる幽世の霧を打ち払った。
「あなたが三好星愴ですね?」
初震姫がその名を問うまでもなく、ひと目で分かった。その男の目には、誰がみても異様と映る凶星の赤い欠片が、埋め込まれていたからだ。
「いかにも!吾輩が、三好星愴であるッ」
底錆びた声で、星愴は答えた。坊主と言うには、剃りこぼった頭以外には、虎を思わせるしなやかな筋肉に覆われた巨体に形だけの袈裟をまとい、石工が刻み込んだように鋭い切りこまれた皺が歪んでみせるのは、肉食獣が無理やりそうしたかとも思える凄まじい笑みであった。
「堪能致した。さすがは九王沢が吉星の申し子たる巫女、幽世をたゆたうかのごとき死出の舞であったわ。あの世の入口におられる御歴々の死出の餞には、いかにも出来すぎておる」
「ふん、己めが実休が遺児を騙りたる売僧めか」
信長は腰の刃を抜いて突きつけたが、丸腰の星愴は両腕を大仰に拡げて、これみよがしに首を傾げて見せるばかりだ。
「お初にお目にかかりまする、織田信長殿。このたびは室町以来我ら三好一族が差配せし、王都を日頃お預かり下さり、いかにもご苦労にござります」
「三好孫次郎(長慶のこと)めは、もはやおらぬでや」
「はははははッ、今さら言わでものことをッ!叔父御がそれほど怖ろしゅうござったかッ!」
「ほざけッ」
信長の合図とともに、金木犀の森から鉄砲足軽たちが、逃げる隙もなく長筒を構えた。
「季節外れの虫けらめが、すすんで火に迷い込んだだわ。おのれの死出の餞は、我が決めてやるでや。この鉛玉、残らず喰うて逝け」
「の、信長公っ」
初震姫たちがいるのも構わず、信長は腕を振り下ろした。
「撃てえいッ!」
しかし銃火は、起こらなかった。信長の号令が掛かった瞬間、足軽たちは撃発するどころか、両腕をぶらりと下げて銃を降ろしたのだ。中には銃を取り落したのもいた。
「嫋」
妖しく艶めく、女の声が響いた。
するとどうだ。棒立ちだった鉄砲足軽たちは、腰が萎えたように膝が崩れてへたりこんでしまったのだ。
骨抜きになった足軽たちの中から茜色の蜻蛉を染め抜いた、派手な打掛の女がみずみずしい垂髪に花の香をまとわせて歩み寄ってきた。
「お前は、多香子ッ!」
音ノ瀬雅常が、愕然とした声を上げたのはそのときだった。
「お久しく、御本家の雅常さま」
手にした金木犀の花の枝を弄びながら、多香子は鼻を鳴らした。
「音ノ瀬の多香子さまに、コトノハの力を貸して頂いておりまする。多香子さまは吾輩の企みを、愉しみになされている様子」
「星愴殿はわたしによきコトノハをくだされた。凶星、火の雨となって大地に注ぎ込み、王都焼けてそのさま阿鼻叫喚…とは、げにおかしけれ。ここは、この多香子のコトノハを貸すより他あるまい」
多香子は美しい眦を決すると、雅常を睨みつけた。
「わたくしの恋うるコトノハを弄んだ恨み、忘れたとは言わせぬぞ」
痛烈な叱咤と糾弾に、どこか重苦しそうに、雅常は表情をゆがめた。
「待て。それは私の存念ではない。当時、権力を恣にせんとした叔父が私への逆恨みで為したこと!」
「言い逃れのコトノハとは聴き苦しや」
多香子は眉をひそめ、雅常を嘲笑した。端から雅常など言い分を信じてもいないようだった。
「音ノ瀬の一族が、まさか…」
凶星の欠片の封印は、音ノ瀬一族にだけしか、解くことはできない。しかしその音ノ瀬のコトノハを操る一族に、星愴に加担するものが現われたのだ。
「桐峰殿、すぐに犬王丸殿たちを守って早く逃げて下さい」
緊迫した声で、初震姫が言った。
「あの女が音ノ瀬の一族なら、ここで凶星の封印を解かれてしまいます。わたしと五鶯太でここは喰い止めます。とにかく早く!」
「愚物どもめがッ!逃すかあッ!」
星愴の大音声が、炸裂したときだった。
島そのものを揺るがすかの轟音が、立て続けに起こった。耳を聾するかの爆発音は、やがてつんざくような落下音を立てて金木犀の林を焼き尽くした。その頃、軍船が織田の船団を割って、大砲を撃ち込んできていた。
凄まじい炎は、南洋の花々を焼き、梢を焦がし、辺りは一瞬にして地獄絵図となった。
「見よやッ!これが、王都が末路ぞ信長ッ!」
狂ったような星愴の快哉が、爆煙と炎の盛る音の中、張り裂けるように響いてくる。
「切」
「なっ、何をするっ」
そのときコトノハの音が、この轟音を縫っても艶めいて響き、犬王丸は守り袋を奪われた。
「多香子ッ、馬鹿な真似はやめよ」
「ふふふッ、雅常殿、あなたに言えた義理ですかッ!?」
金木犀の花枝に、守り袋を引っかけると、多香子は薄く微笑んだ。
「あなたがわたしから奪ったコトノハで救うたはずの足利家が滅び、今また、わたしのコトノハで都が滅びる。わがコトノハを欺いた報いよ。よい気味じゃ。待てや、凶星もたらす災いのコトノハをッ!ああ胸が好く胸が好く」
「売僧め、この信長が自ら手討ちにしてくりょうッ」
刀を振り上げて信長は咆哮したが、この砲火の中ではどうにもならない。
「応戦せえやッ!狼煙を上げるでやッ、三好が死にぞこないに、目にものみせてやるでやあッ!」
「上様ッ、おやめを!」
小姓が阻む中、信長は爆炎の中の星愴を討ち取ろうと、殺到していこうとする。
「初震ッ、続けや」
「心得ています。されど安土様、ここは、わたしたちに任せて頂きまする」
初震姫が言い終わらぬうち、星愴が島に引き入れた軍兵が暴れ出す。いずれも、素肌に胴丸具足を着け、剽悍に長けた、海賊上がりの三好の残党であった。男たちは室町以来の桁外れに大きな長太刀を携えている。
当世具足の甲冑武者たちよりは、素肌での刃の渡り合いに慣れた男たちだが、初震姫の敵ではなかった。それ以上に身軽な初震姫の巫女衣装が翻ると、軽装の男たちは頸や太腿の大動脈を断たれ、血潮を撒いて果てた。
「疾く、安土様の、御身をご安じ召され」
初震姫は甲斐甲斐しそうに、信長の小姓に説くのだった。
信長は、逃げた。なんと当たり前のように自分だけ。
「俺たちは、どうするんですか!?」
と焦る五鶯太に、初震姫はどこか無惨な笑みを見せる。
「ふふん、大丈夫です。あわてる五鶯太は、もらいが少ない、と言う言葉を知りませんか」
「は?」
やがて五鶯太は、実はそれこそが初震姫の悪知恵だったことに気づいた。
信長が一目散に軍船に囲まれて逃げたので、星愴の軍勢の攻撃がそちらに集中したのである。爆炎で紛れた星愴たちは、恐らく犬王丸は信長とともに逃げたのだと思っただろう。まんまと信長を囮にするなど、初震姫、恐れを知らなすぎる。
「いーんでしょうか…こう言うの。あのう、なんて言うか」
「何か問題でも五鶯太?まーあのくらいで死ぬ御仁ではありますまい」
派手に銃火を上げて星愴の軍兵と戦う織田の船を眺めながら、初震姫は、ちゃらっと忍び笑いして逃げ去るのであった。
「逃げますよ」
「逃げるって…でもどこに!?」
五鶯太が言ったときだ。並み居る星愴の軍兵たちが、ばたばたと斃れ、硝煙の中から異風な銃兵たちが現われたのは。
「また貸しだぞ!」
夷空たちだった。博多から堺の湊で暗躍する倭寇たちの女頭目、夷空は、初震姫とともに耳川で、赤震尼討伐に力を貸した一人だ。
「明王朝に仕えていた、よく当たる風水師さまを紹介しますよ」
「本当なんだろうな!?その話は聞き飽きたぞ」
じろりと夷空は、平気で与太話をする初震姫を睨んだ。
「星愴たちも信長を追ったでしょう。さあ、行きましょう」
軍船同士の衝突と爆炎は、遠ざかっているように見える。確かに脱出なら、今が絶好の機会だ。そう見えた。
(誰だ)
勇み走り出した五鶯太だったが、竹林の中、夜目にも明らかに何者かがたたずんでいるのが見え、立ち止まった。
それが五鶯太と年齢の変わりない少年であった。
「ふくくッ、久しいぜよ」
その少年は甲高い無惨な声で叫喚した。
「初震ッ、わしを見忘れたか!?若返っておのれを縊れるが我が果報じゃき」
「黒縄丸!?」
まさかだ。
あの抜け殻から蘇ったのが、この黒縄丸だったのか。初震姫に斬られたとき、この異常な暴君は、すでに壮年に差し掛かっていた。それが星愴によって体力盛んな青年期の頃に若返ったばかりでなく、その残忍な凶暴さを漲らせていたのだ。
「ようも我が愛しき狂鷲女を殺しちくれたのう、初震よ」
「まさか、あなたが本当に蘇っていたとは…」
にたりと凶悪そのものの笑みを浮かべた黒縄丸は、黙っておのれの頸に指一本で線を引いてみせる。なるほど、見ると確かにそこに胴と頸を縫い合わせた粗雑な縫い跡があった。やはりこの稚い少年が、あの残虐非道の黒縄丸に間違いないのだ。
「さすがは赤き凶星の申し子、三好星愴殿に抜かりはないぜよ。初震、出来星の元親めに冥途で会うたら言うとけ。天は、択ぶべきものを択ぶとのうッ!」
初震姫は斬りかかった。しかしそれを、黒縄丸は割れんばかりの哄笑で迎えた。
「おうっと待てえッ!はははッ、まずは手土産を持ってゆけえッ!」
無惨な笑顔で表情を歪めた少年は、灰で固めた黒縄を、林の中に張り巡らせている。そしてそこから、異様な臭気が、縄から垂れた白い滴とともに立ち込めていた。
「これは臭水!?」
石油のことである。当時は北陸・越後で僅かに取れた燃える水と謂われた。
黒縄丸は、初震姫たちの退路を断つためだけに、ガソリンを染み込ませた黒縄をそちこちに仕掛けていたのだ。
「さあ燃えて果てえいッ、凶星の再来を阻むものどもッ!」