夏紫氷雨(なつしひう)~土佐国
禍々しくも妖しい紫煙が、地平の果てからふつふつとわだかまっていた。黒潮の荒波に嬲られて、銛一本で大型の回遊魚など仕留める地の漁師も、この不気味な紫煙には堪りかねて、早々に舟を引き上げる。
真夏のぬるい海風に、刺すような冷気が入り混じるのである。寒暖の気が混沌として対流するこの天候は稀ながら、土地のものには魔物のように畏れられている。
それはこの、人の世とも思えぬ瘴気を孕んだ艶めかしくも妖しい紫色の雲が恐ろしいからではなく、時知らずの寒さを連れて来た自然の災厄を畏れてのことだ。
この雲は、霰を撒き散らすのである。小氷河期と言われた全世界的な天候の不順は終わりを告げつつあったとしても、時ならぬ雪や旱魃など、常識外れの天候の混乱は、度々人を襲った。夏に雪が降ったなどと言う、極端な時知らずも、それほど稀ではなかったのだ。
このときも俄かに、数珠玉を床にぶちまけたような音とともに盛大に氷塊が降った。最大で赤ん坊の頭ほどもある、透き通った氷の珠だ。天から投下されるそれは、砲弾の雨に近い。猟師村の粗末な板葺き屋根など、難なく打ち破る勢いである。
苛烈な天災の中を、白装束の若巫女が逃げている。地の女のような黒い肌でもなく、渡りの流れ巫女と見えた。無人の浜を、ばたばた手足を振っていかにも行くあてもなく、転げるようだった。振り乱した髪も気にかけず、着物も肌も濡れた浜砂にまみれていた。
こうしている間にも氷塊が、肌けた女の肉体を打ち据えていた。桜色の打ち身は、女が撃たれに撃たれた証拠である。内出血の打撲傷は女の腕と言わず、腿と言わず、にじんでいた。額からは、はっきりとそれと分かる黒い血の雫が、滴り散っていた。
這うように逃げる女は、時折、背後を振り返る。まるで逐われた野良犬のようだった。いずれ氷塊を逃れる術はない。だが不思議なほどに、逃げて、振り向くほどに女の怯えは極に達し、足は面白いほどにもつれた。
狼狽しきってつまずき、顔を砂まみれにしてもなお、女は逃げようとする。そのたびに呼気の乱れた唇がふるふると戦慄き、悲鳴を飲みこみかけた胸が異常な動悸に震えた。
つまり女はこの、魔性の天災に恐懼しているのではなかった。鬼霰が地を打ちひしぐその前から、女は全身を腫らし、何者かに打ち据えられていたのだ。
走り抜けようとしたその顔に、大蛇のような巨大な何かが飛び出し、若巫女を撥ね飛ばした。なす術もなく顔に、無惨な腫れ跡をつけられた女は、思わず恐怖に目を見開いた。
そこに大鷲と見紛う、獣の翅を振り乱して、大柄な女が立ちはだかっていたからだ。女は弓のように恐ろしく湾曲した、ひどく長い長刀を腰だめにしていた。
女は野蛮そうに紅を塗りたくった唇を歪めると、無腰の若巫女に向かって言った。
「逃げられやしないよ、初震姫」
(これで何かあったって、別におれのせいじゃない)
火盗蛾の五鶯太は、懸命に自らに言い訳していた。まあ、別に誰が聞いているわけではないが、たまには言いたいことを吐き出しておかないと、やっていけないのだ。
(だって横暴すぎるよ、初震さんは)
きっかけは、ほんの些細な喧嘩だった。あてどない道中だ。ふとした心無い一言が、心の導火線に火を点け、やらなくてもいい争いで気まずくなることだってないことはない。ほとぼりが冷めれば、なんであんなことでとお互い馬鹿らしくなることばかりなのだ。しかしこの、今回ばかりは、売り言葉に買い言葉になってしまった。
大抵は折れる五鶯太だって、依怙地になることはある。
でも、別に、あんなに怒らなくたっていいじゃないか。
「今、太った、と言いましたねッ五鶯太ッ!?」
初震姫がいきなり、斬人の殺気を放ったせいもある。いつもいつも、大人気ないのはそっちの方なのだ。
「誰が太震姫ですかあっ!?」
「太ったから、太った、と言ったんですよ。自分でも分かってるでしょう?温暖な土佐に来て、美味しい物ばっか食べて、さんざお酒飲んで、朝寝昼寝して。そんなんでいいと思ってるんですか!?今のあなたは、初震姫じゃない。肥震姫だッ!」
言った。ついに、言ってしまった。でも黙っていられなかった。だってここ数日の初震姫があんまりにも、度を越してひどいから。
「夏には水死人が多く出ます。南の海にて不遇な御魂を鎮めましょう、五鶯太」
とか珍しく神妙なことを言うから、五鶯太も渡海に賛成し、未開の地と言われる四国に渡ったのだ。
上古、鬼界ヶ島とまで言われるかの地を踏むのに、五鶯太もそれなりに緊張していたのだ。しかし行ってみれば、四国は初震姫のお母さんはじめ星震大社の巫女が開発したまさに御用達の天地で、上を下にも置かぬ歓待をところどころで受けた。
どの村でも村を挙げての大騒ぎで、連日大宴会だった。最初は最高の土地だと五鶯太も浮かれていたのだが、日に日に初震姫の暴飲暴食が目に余るようになり、神事の星震舞も、ろくにやらないようになったから。
「土佐に行きましょう」
堪えかねて、五鶯太は提案した。土佐には長曾我部と言う強者が登場し、過酷な戦乱の土地柄になっている。酒良し人良し土地良しの土地に馴染みすぎて、ダメ巫女になりつつある初震姫に喝を入れようと思ったのだ。
「南ですか。あまり良い縁がないのではないでしょうか…」
ぶつぶつ文句を言いつつ、初震姫は従ったが思えばこれが暗雲を孕んでいた。
五鶯太の意に反して、土佐に行ったら行ったでまた、星震大社の巫女は大歓迎もいいところだったのである。
有史以来の、と言うほどの霊験あらたかな古社に行ったら、木の板に描かれた初震姫にそっくりの巫女の画が、御神体として祀られていたのだ。
それからは怒涛の御馳走攻めだった。噂が噂を呼んで、連日村を挙げての大歓待、酒も食べ物ももう、見たくもないと言うほどに出てきた。
「最高ですね、五鶯太」
その頃にはもう、手遅れだった。初震姫は、見るも無残なダメ巫女になっていた。
「…もっと南に行きましょう」
「ええっ、めんどっ(小声)…いやもう良いでしょう、五鶯太」
「めんどっ…って言いましたね今」
ついに五鶯太は、本気になった。
(もっとすんごい危険地帯に行こう)
この太震姫に、一発、喝を入れてやらなくては。
もうとにかく危険な悪党しかいない。その危険な悪党に脅かされて、不遇をかこっている人たちが血の出るような助けを求めている。と言うか、普通に自分たちも身すら危ない。さすがにそうなれば初震姫も、本気にならざるを得ないだろう。
「梟女谷?」
「ええ、室戸の浜沿いにあるんです。何でも、脂の乗った旬の鰹が食べ放題とか」
「行きましょう」
あんだけ食べ倒したのに、鰹を餌にしたら、ばっちり初震姫は乗ってきた。食欲と言うのは恐ろしい。しっかし、なんて不吉な名前だろう、梟女谷。
「いんや、あすこにゃあ行かん方がええぜよ」
何しろ赤銅色に日焼けした屈強な漁師たちが、口を揃えて言うのだ。
「そうじゃあ悪いことは言わんき。あすこは黒縄丸ち暴君がおるがぜ。若かあ女は見つかるだけで、みいんな殺されちまうぜよ」
梟女谷には通称・黒縄丸、と言われる暴君が、砦を構えて立て籠もっていると言う。ひどい異名である。元々、黒縄丸の家は、大陸からの渡来人である秦氏の末裔を称すると言われる。
秦氏を祖先に戴く、長曾我部と出自を同じくする名族と言うわけだった。領土は小さい癖に、黒縄丸は長曾我部の傘下に入っておきながらも、公然とうそぶいた。
「我が家が元は、格上だぜよ」
黒縄丸の家は、波蛇を称する。和語では秦であるが、『はだ』とは韓国に於ける、元の読み方なのだそうだ。聞けば他愛のない名家誇りだが、誰もそれを揶揄するものはいない。
黒縄丸が率いる軍勢は出色の兵力と無類の強さを誇り、一領具足と言われる長曾我部家の兵力の中でも、特異な位置を占めていたからである。
この天正七年において、長曾我部元親は土佐守護、一条氏を四万十川の戦いで逐って全土統一を成し遂げ、阿波讃岐を併呑し、京都中央政界にも勢力を広げるあの三好氏を脅かそうとしていた。
何と言っても元親の強みは、常備兵である一領具足と言う軍団を抱えていることであった。詰まるところ一領具足とは農兵のことだが、元親は自前の軍備が出来る兵士に限って特権を許し、農夫としての義務を免除した。そのために農閑期以外の大量の兵力動員を可能にしたのである。
例えば先の四万十川の戦いにおいても旧主・一条兼定を相手に、元親は七千五百と言う一領具足を動員していた。田植えの時季をとっくに過ぎていたこの頃には、これだけの動員兵力を確保するのは、常識的に不可能だったのだ。
ちなみにこのいくさに、黒縄丸も出兵している。彼の場合は、一領具足ではなかった。兵力はこれ皆、黒縄丸が選りすぐりの日々殺戮のみを生業とした、命知らずの男たちである。剽悍で鳴る悍馬、土佐駒を乗りこなし、揃いの黒糸縅、不気味な熊毛を植えた兵員は普段から、農夫などではなかった。
黒縄丸は絶えず人さらいを行い、領内に奴隷を飼い、彼らを野盗のごとく養っていたのである。そのため農期など関係なく、どんな戦場にも出た。
出る必要があった。彼らは戦場で奴隷を調達していたのである。
言うまでもないがその戦場の振る舞いは、酸鼻を極めた。
他領土の民家に押し入り、足手まといな老人や子供を殺害すると、彼らは今労働力になる男や、若い女をさらった。その際、逃げられないように耳を切り取られたり、鼻を丸ごと削がれたものもいた。彼らは馬で引きずられ梟女谷の農場に放り込まれると、死ぬまで過酷な労働を強いられたのだ。
また悪いことに黒縄丸には加虐の癖があった。農婦でも他家の姫でも気に入った女がいると、昼と夜と言わずこれを呼びつけ或いは強引にさらい、息絶えるまで犯した。その際、漆と灰で固めた黒い縄で女の首を絞めるので、この暴君は、黒縄丸の異名を以て知られるのだと言う。
殺した女を、黒縄丸は見せしめに領内の入口と言う入口に晒した。女の首つり死体だらけのこの土地を、梟女谷と呼ぶようになったのは、この黒縄丸の乱暴狼藉あってのことであった。
「そんな暴君が今ものさばっていると?」
「いや」
勢い込んで訊いた五鶯太に対して、漁師たちは歯切れの悪い返答をした。なんとのその黒縄丸だが、一、二年ほど前についに斬られた、と言う。
「斬ったは流しの巫女じゃち、おいは聞いたが」
「いやあ、黒縄丸様はまだ生きておるがじゃ」
言い張った漁師によれば、梟女谷にはまだ死体が増え続けていると言う。
「ともかく、行かん方が身のためじゃき」
行けば女は縊り殺され、男は奴隷にされる。
(まさか一人で行ったりは、しないよな)
あれだけやる気のなかった初震姫だ。めんど、とか言ってたし、自ら危険地帯に足を踏み入れるような真似は、いくらなんでもするはずがない。そう思いかけて五鶯太は、ある事実に気づいた。
そう言えばその黒縄丸を斬ったのは、流しの巫女だ、と言う証言である。もしそれが万が一、初震姫だったとしたら。
「やっぱり、行きます。誰か案内をして頂けますか?」
五鶯太は勢い込んで漁師たちに頼み込んだが、案内を買って出る男は一人もいなかった。黒縄丸は死んでいない。どころか、亡霊伝説として一層凄みを増しているからだ。ますます、五鶯太は心配になってきた。
実は先月も、立ち寄った旅の巫女がさらわれ、谷の入口で首を括られていた、と言うのだ。
めんど、とか言ってたし、最近の初震姫と来たら、ぐだっぐだだった。
だが、星震巫女の屋台骨を腐らすはずはない。と、信じなくてどうする。
(だってもし、おれが見棄てて初震さんが括られたら、おれはどうなる)
里の掟を棄て、国を棄て、初震姫の旅に賭けた身である。
(仕方がないな)
五鶯太は意を決して単身、梟女谷に乗り込む覚悟をした。
「もし、兄さん」
用意を整え、村を出ようとしたときだ。どこからか一人の漁師が進み出て、決死の五鶯太を呼び止めたのだ。
「梟女谷に行くと言うなら、案内しちゃろか」
男は大柄だが、どう見ても漁師には見えなかった。この辺りの漁師のように赤銅色に灼けた感じがなく、手足ばかりが長く、細身のしなやかな身体をしているのである。多く見積もって三十年配に見えるが、瓜実顔に鋭く切り削いだ目蓋の薄い瞳は、都上臈の気品すら感じさせる。
「おれはここらの網元じゃ。名を、室戸弥三郎ち言うがぜ」
素肌に麻の上着ばかりを羽織った弥三郎は、両刀を見せびらかす。鯱か鮫の歯を首飾りにしているような野卑な身なりに比して、これが抹茶色の綺麗な糸で威した典雅な大名道具なのだ。
「見てん通り、うちの漁師どもも困っちう。梟女谷の連中は女子を人質に、無理難題を吹っかけてきよるがぜよ」
嘆息する弥三郎の話によると、確かに黒縄丸は三年前、旅の巫女によって討たれたのだ、と言う。
「それは確かな話ですか?」
躊躇なく、弥三郎は頷く。斬殺された黒縄丸の遺骸は、塩漬けにされて高知に運ばれ、その遺骸を証拠に領民たちは彼の非道な行いを、長曾我部元親本人に直談判したと言う。結果、波蛇家は滅亡し、無法者たちは、梟女谷を追われたそうな。
「では梟女谷は今、無人のはずじゃないですか」
最も至極な五鶯太の質問に、弥三郎も首を傾げる。
「それがのう、そうはいかんかったがじゃ」
長曾我部元親は波蛇家を仕置きし、領内は無人の野になったはずだった。だが黒縄丸の死後、元親によって赴任した代官が謎の死を遂げ、暗雲にわかに掻き曇った。
なんとある噂では黒縄丸は、死んではいなかった、と言うのだ。正確には、蘇ったのだ、と言う。
「蘇った?」
「まさかち、思うがじゃろう?」
五鶯太は頷いた。そんな荒唐無稽な話はない。黒縄丸の塩漬けにされた遺体は改めて斬首の刑を受け、梟女谷の入口に晒されたのだ。首から胴が離れた人間が生き返る道理がない。
「いんや、それが出来たち話じゃあ」
弥三郎は額に脂汗を浮かべて言うのだ。
「三好星愴ちゅう奇僧の仕業じゃと」
愕くべきことにその奇僧が、遺体をつなぎあわせて元通りに蘇生させてしまったのだと言うのだ。
三好星愴。
三好の名を冠する限り、阿波源氏の名族、三好家に連なる血筋の男である。あの織田信長が憧れ、稀代の名将とまで言われた三好実休の子、と本人は称するが、実態は定かではない。
幼くして讃岐の寺に預けられたが、奇行が多く、十代の頃には倭寇たちの群れに混じって、遠く安南(ベトナム)、呂宋(フィリピンの一島)を巡ったと言う。日本への帰途、難破し、一人閉じ込められた無人島で啓示を受けた。
「我、朱キ星ヲ脳天二享タリ」
ある晩、浜に出た星愴の頭に、隕石が直撃したのだと言う。即死ものの致命傷だが、星愴自身はそれを天からの啓示と心得た。まあ隕石の直撃を頭に受けて生きている人間など、それが真実だとするなら、はなから尋常な生命力ではない。
だが嘘ではない証拠として事後、星愴の右眼は、まるでそこに紅玉が嵌ったような異様な輝きを宿したと言う。その目の色は、どんな高僧をもってしても、説明しようのない奇景となった。
一転、京都に出た星愴が、六条の河原で説法を始め、大衆の耳目を惹くこととなったのはそれから間もなくのことだった。折から阿波から来た覇者、三好長慶が没し、京都の治安が再び大乱れに乱れてきた過渡期であった。足利将軍が三好三人衆やら松永弾正やらの暗殺の脅威に逃げ回る頃であり、三好家の末裔を称する星愴の声は、京都政界に聴こえた。
「星愴殿こそ、まさに救世主である」
と触れ回ったのは、足利の同朋衆であった。この男もまた、御所に出入りし、僧門に逼塞していた足利義昭を擁立、覇王、織田信長を京都へ導いた陰の立役者であった。
「名を、九品とか申す売僧ぜよ」
多くの信者とともに集まった星愴は黒縄丸の首と胴をつなぎ合わせると、その信奉する夜空の凶星を崇めつつ、こう叫んだ、と言う。
「諸君、泰西(ヨーロッパのこと)の天主、イエス・キリスト殿が、磔の惨刑に処されたるのち、その肉体を天啓にて復活せしめたのを知れるか。この浮世に、生ける我こそは救世主である!などて死せる有為の人品を、生かさしめんッ!」
星愴の凄まじい祈りは、三日三晩続いた。雷鳴にも似た星愴の叫びが人声の渦をなし、やがては本物の雷名を呼び、紫雲立ち込めた。そして苦行勤行の末についに、氷の雨が降ったそうな。真夏に、こぶし大の雹であったと言う。
「こうして黒縄丸は再び世に、生を享けたがじゃ」
先導する弥三郎が突然立ち止まり、あごをしゃくる。五鶯太は息を呑んだ。
立ちがれた欅の古木に、女が吊るされているのである。それが巫女姿の女で、年恰好も初震姫と同じものだったので五鶯太は心臓が停まるところだった。
「縊られて間もなきようだぜよ」
弥三郎は顔色一つ変えずに、遺体を検める。なるほど黒い灰で固めた太い縄で首を吊られている。ぎしぎしと吊られた裸足の指の先からは、糞尿が雫となって滴っていた。苦悶と絶叫の形跡が伝わってくる凄惨な遺骸だ。
ちなみに首吊りによる死には、二つの場合がある。
前者は高所に吊られた途端、頸骨が外れ即死状態になるものだが、後者は純然たる窒息死だ。女の苦悶の表情と咽喉肉を掻き毟った跡をみればそれが後者だと言うことは容易に知れる。意識を喪うまでは二十秒前後と言われるが、その間の苦しみは言語に絶する。酸素を遮断された顔は鬱血し、赤葡萄の実のように、不気味な暗赤色を呈していた。
「こいは面妖な」
と、弥三郎が声を上げたのは、そのときである。
「この女、鞭打たれておるがぜ。黒縄丸の仕業かのう」
変だ、と言われても、五鶯太は返答の仕様がない。だが弥三郎は何か思いついたらしく、しきりに首をひねっていた。
肥馬のいななく声と、びしりと鋭い打突音が響き渡ったのはそのときだ。
弥三郎は油断なく身を低くすると、柄に手を充てた。ここは梟女谷の入口だが、今の声はこの先の集落の広場から聞こえたようだ。二人は頷き合い、自然と散会した。それぞれが隠れつつ、いざと言うときの様子をうかがう考えだ。
(まさか初震さんが)
五鶯太は炸裂弾を用意しながら、村の北の手を迂回した。そこは板葺き屋根どころか、上古の時代さながらの、掘立小屋が並ぶ粗末な集落だった。村のものが駆り出されて来たのか、ぼろをまとった人だかりが出来て、異様などよめきが立っている。五鶯太は危険を冒し、高台に上ってみて悲鳴を呑み込んだ。なんとその騒ぎの中央に、目当ての初震姫がいたからだ。
「やあっと会えたよう、初震姫えッ!」
大酔しているかのような、大きな胴間声が、初震姫に降りかかった。粗末な木組の牢から出された彼女は、見るからに異様な風体の女の前にひざまずいていた。
「忘れでおくれてないかえ、あたしのことをッ」
女は金切声を浴びせる。女は、ばさばさになった水分のない髪に鳥毛を植え、おおたぶさにまとめている。薄汚れた白鷲の毛皮をまとい、蛇柄の腰巻。その腰の後ろには真横一文字に一刀、大刀を挿しこんである。
女は酔っていた。それも尋常な飲み方ではない。片手には荒縄で縛り上げた甕のようなものを持って、それを浴びるほどに干していたのだ。その反対の手に持っている、薄黄色の鞭が、うなりを上げて初震姫を襲っていた。
「星愴さまの言う通りだよッ!あんたはやっぱりここへ来たッ!こいつは、凶星のお告げだッ!あんたの血と肉を、あたしの大事な黒縄丸様の捧げものにしろって言う、天の御託宣に違いないッ」
女がおらびたてる、その祭壇には不気味な甲冑武者がいすわっている。五鶯太はその顔をみて驚いた。なんと、ミイラ化した遺体である。やはり黒縄丸は、死んでいたのだ。ただ、この狂った女が、その代わりを務めていた。ただ、それだけのことだったのだ。
「死ねえッ、初震姫ッ!」
五鶯太は寸でで、炸裂弾を投げた。初震姫の顔に鞭が襲い掛かろうと言う瞬間、強烈な煙と閃光が辺りを満たし、周囲は大混乱となった。
「なあにやってるんですかっ!逃げますよっ!?」
五鶯太は急いで、初震姫の縛を解いた。
「五鶯太!あなた、どうして…?」
「いいから早くっ」
だがその安堵した顔を見て、五鶯太は想った。しょうむないところはあるが、やっぱりこの人は見捨てられない。
「逃がすかッ!初震姫、八つ裂きにしてやるよッ!」
女の合図とともに、黒い熊毛を羽織った甲冑武者たちが出て来る。黒縄丸は死んでも、その軍団は健在だった。
「星震の太刀はどうしたんです?」
五鶯太は彼女を庇いながら、問うた。さすがに、こいつらを相手には出来ない。
「探しものは、これかい?」
すると何と、煙幕の向こうからぽんと星震の太刀が飛んでくる。弥三郎だった。あまりの頃合いの良さに五鶯太は、声を上げた。
「やっ、弥三郎さん!すみません」
「いいさ、私もようやく謎が解けたよ」
五鶯太は、はっとした。弥三郎が俗な地言葉ではなく、綺麗な都の言葉を話したのだ。
「あなた、一体…?」
「元親公…!」
太刀を取った初震姫が驚いた声を上げたので、五鶯太も唖然とした。まさかこの、細身長身の漁師の網元があの、四国の覇者、長曾我部元親だったのだ。
「初震殿、やり残しがあったようだ。だが、貴殿の責じゃない。これは、私の責だ」
元親は初震姫に向かって、あごをしゃくってみせた。野太刀を持った、甲冑武者たちが殺到してきている。
「露払いは頼んだよ?」
「ええ」
ようやく星震の太刀を取り戻した初震姫は手慣れた動きで太刀を振るう。まだ煙幕のたちこめる中、影のように滑り出した初震姫は、瞬く間に彼らの中に躍り込んだ。
「ギャッ」
パシッと言う斬撃音が響くたびに、鎧武者が膝を崩し、積み木のように斃れていく。黒糸威の具足から、紅い血潮を噴き、男たちは一瞬で屍になった。各地で非道を犯した彼らに、星震の剣の粛清は容赦ない。見る間に、男たちは細切れになった。
「どうぞ、元親卿」
初震姫は血泥の道を譲った。
「ありがとう。それじゃあ、幕を引くかな」
残るは元親と女、たった二人の対峙である。
「凶兆、だな」
元親はふと天を見上げた。そこには思わず息を呑むような不吉な紫色の雲が拡がっていた。すると雷鳴がくすぶるかのごとき音とともに、ばらばらと何かが降った。
雹であった。雹は氷雨転じて、となったと言われる。恐ろしく大きな氷の雨だった。赤子の拳ほどの大きさがあった。広場にいた人間たちが泡を食って逃げ惑う中、二人は微動だにせず向かい合っていた。
「黒縄丸の嫁。死せる梟女谷を守っていたのは、お前だったか」
元親は大きくため息を吐くと、狂鷲女へ語り掛けた。
「黒縄丸に嫁いだ三人の女のうち、一人は犬の餌になり、一人は発狂して谷底へ突き落とされたと聞く。だがお前は、黒縄丸とともに狂って生き残った。狂鷲女…元の名を何と言ったか忘れたが、さても変わり果てた人外の化生よ」
「長曾我部元親ッ!あんたもだッ、あたしが犬の糞にしてやろうと思っていたのはなあっ!」
狂鷲女は大きく鞭を振るうと、四国の覇者に向かい合った。
「こいつは黒縄丸が可愛がってた梟女谷の大蛇を殺して、その皮で作ったもんだ。あの人の恨みは、あたしが晴らすッ!無実の罪を着せてあの人を葬り、この梟女谷を我が物にしようとした、あんたはあたしが殺すッ!」
「無実の罪、とはよく言ったものだ。すでに証拠は挙がっている。お前たちは三好、それも星愴に通じていたな?」
「やっ、喧しいっ!」
(なんだ…?)
元親の追及に、狂鷲女は顔色を変えた。三好星愴、先般、元親の話に出てきた怪僧の名だ。
「知っているだろうが我が長曾我部は、阿波三好家と敵対中だ。しかるにあの男は阿波源氏、三好の威勢を取り戻し、長慶公以来の京都の覇権を、織田信長から取り返そうと謀る大姦人さ。見逃すわけにはいかないね」
「ふんッ、調子づきやがってこの田舎大名がッ!利いた風な口は、あたしに勝ってから吹くんだね!」
「いいだろう」
元親は、槍を取った。その槍の異形さをみて五鶯太は愕いた。あれは、まるで銛である。錆止めをなした黒南蛮鉄の穂先のついた槍は恐ろしく長く重たそうだったが、元親は難なくそれを操った。
「初陣が遅くてね。二十一だった。若年、姫若子とよくからかわれたものだ」
悠々と豪槍を振るう元親は、穂先を狂鷲女に向けた。
「でも、槍の突き方だけはよく教えられたよ」
「ほざけッ!」
射程で勝る大蛇の鞭を振るった狂鷲女だったが、勝負は一瞬で着いた。見事と言う他なかった。鯨を仕留めるかと思うほどの大振りの槍は、狙いあやまたず、狂鷲女の顔を突き貫いた。
即死である。
「未ダ、鑓ヲ突クコトヲ知ラズ、教エヨ」
元親の勇猛さを知らず、侮った家臣はこう教えたと言う。
「敵の目と目の間を突け、とね」
浜辺で巨大な鰹がさばかれている。藁で焚いた熾火の上に、たっぷりと脂を孕んだ腹側の大きな身が、香ばしい匂いを立て燻っていた。これに葱とニンニク、紫蘇をまぶして橙の汁と粗塩でしめたのが、名高い土佐の鰹のタタキである。
橙と紫蘇の芳香に包まれて、香ばしく灼けた血合いの肉は、かぶりつくと意外やたっぷりと生の肉汁の旨味を含んでいる。藁の火は、鰹の表皮だけを焼き固めてしっかりと旨味だけを中へ閉じ込めてくれるのだ。舌を刺すほどに辛いニンニクの薄切りをかじりながら、これにかぶりつくと酒も飯も止まらない。
不覚にも土佐に来て良かった、と五鶯太は思ってしまった。
何しろ長曾我部が陣を張る七ツ片喰の幕内だ。大盤振る舞いもいいところだった。初震姫の爆食はやまなかったが、もう五鶯太は何も言わないことにした。
「ふうん、三好の遺児がいるのだね。犬王丸…その子は、君の知り合いの御師と、行動を供にしている、と」
元親の言に、初震姫が頷いた。一緒に九州で赤震尼を倒した出雲御師、小野桐峰が、この少年を保護し、旅を続けているそうな。
「こちらもやっと、調べがついたところだ。三好家を使って星愴は、何事か大それたことをしようとしている。そしてそれは、その桐峰と言う御師が九州で斬った九品と言う男にも、関わりがあるようだ」
氷雨はもう、すっかり止んでいた。
真夏の薄い月を見上げながら、元親は言った。
「その御師と、ぜひ連絡をつけてほしい」