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春界雷(はるかいらい)~大和国

界雷(かいらい)】寒冷前線付近の強い上昇運動に伴って発生する激しい(かみなり)。3~5月、春に発生するそれを特に、春雷(しゅんらい)と呼ぶ。



人脂(じんし)をふすべたごとく、漆黒の暗雲が天を塞いでいる。

天正七年(一五七九年)、大和(やまと)(奈良県)の春である。山桜も花を散らし、再び季節の変わるこの頃、天はまた暴君のように荒れ狂う。火葬の黒煙に似た暗雲が晩春の青空を隈なく塞いでしまえば、そこはまるで人外魔境である。

若芽が色づきだした信貴山(しぎさん)系にも、薄青い電光がほとばしっていた。岩が剥き出しの山肌を照らし、巨木をなぎ倒す雷鳴の光は、はるか麓の暗がりすらも(さら)し上げる。けだし、地獄絵図である。大和は土地柄、信心深い徒が多い。口々に雷避けの呪いを唱えては、薄暗い土間で必死に息を潜めている。

やがて雷声が(とき)を作ったように、篠突く豪雨がどっと降りこんだ。大地をしばたたく雨はいつまでもやむ気配がなかった。すでに目の前も、定かではないような凄まじい雷雨である。


「南無、雷公様、日曜の御眷属(ごけんぞく)

峠の旅人を宿らせる無人の六角堂である。

低い声で雷除けを唱える二刀の武士は、珍しく真言の徒であるようだった。

天候の激しい山を巡る修験者たちには、この種の宗旨が多い。二刀携えるとは謂え、この男も都ぶりの武士とは違った。

脂ぎって艶めいた(こわ)い毛質の熊皮の羽織に、足回りの確かな藁沓(わらぐつ)をしっかりと履きこなしている。腰にぶちこんだ二刀はどちらも長めの打ち刀のようだが、いかにも野鍛冶の粗い造りの分厚い身幅である。柄にはきつく荒縄が巻かれ、獣の首を断ち割ってもびくともしなさそうな豪剣だった。

だが、驚くべきは杣人(そまびと)じみた侍の、意外な風貌の涼やかさだ。

日焼けをした肌に切り傷の痕などあるものの、卵型の美しいあごに切り立った鼻、庇の深い瞳は、気品を感じさせた。(ひな)にも稀な、清げな若武者である。これほどの容貌であれば、俗界に出れば小姓にと迎える武家は、引きても切らなそうだ。

大和の山野は古来、中央政界の裏納戸(うらなんど)である。

落胤(らくいん)の伝説や噂などは、どれほどの田舎に潜っても埋もれることはない。

この男にもどこか、貴種の落とし胤を思わせる風格があった。

いずれ、この大地を揺るがすほどの雷鳴の中、身じろぎもせずに、低く真言を唱えただけで、あとは数刻も木彫のように黙り続けている肚の太さは、まず常の人間とは見え難い。

西岡(さいおか)殿」

ふと、女の声が立った。この雷鳴の最中、なぜかその声が浮き立って耳朶を打ったのが、不思議に思えるほどの(かす)かな声だった。

こちらは渡りの歩き巫女であろうか。また、異形の装束をした若巫女(わかみこ)である。

すなわち袴を用いず、白い脚絆姿(きゃはんすがた)、腰には雪つぶてを佩いたように見事な鹿皮の腰巻、旅荷物を背負う他は祈祷(きとう)の道具もなく、自然木を模した戒状杖(かいじょうづえ)が一本きりのありさま。

弱視ゆえか、睫毛(まつげ)の長い大きな縁取りの瞳を半眼にすがめて話しかけてくるのだが、その面差しはひどく美しい。生え際の若い、艶めかしい光沢に濡れた垂髪は腰まで流れて、近くに立つだけで藤の花のそれに似た、清かな芳香が匂い立った。

「これは初震姫(はつふりひめ)殿」

西岡と呼ばれた若武者は、巫女の名を知っていた。

「もう御山を下られた、とは存じ上げず。と、なるとご本意、遂げられましたのか?」

「ええ、為すべきことはすべて。これにてお暇致しまする」

「されば例の怨霊は?」

ぴしゃりと雷光が、二人の間を割って入るように奔った。

「退じましてござりまする。これより後は、この大和もつつがなく、安んぜられましょう」

「織田第六天魔王の手のひらの内にてか?」

「そうなりましょう」

初震姫は、弱視の面差しを幽かに揺らがせた。

「大和の悪弾正、松永久四郎久秀まつながきゅうしろうひさひで殿の怨霊、もはや、この地におられませぬ」

(たま)ぎる音とともに雷光が、信貴山に突き刺さった。今はもうそこに、絢爛豪華(けんらんごうか)を極めた天守の面影はない。


かつてこの鄙びた山里には悪鬼羅刹(あっきらせつ)(たと)えうる、魔王が君臨していた。それは不意に轟く雷鳴のごとくに荒れ狂い、大和の民を脅かし続けていたのである。

梟雄(きょうゆう)の名を以て戦国の世に生まれ出でた、この男の出自はたどるべくもない。

生まれは洛外の寒村の地人とも、泉州のさる寺の寺領の下人の子とも言われる。人の子としてもまともに扱われぬような、卑賤(ひせん)の出であった。この男が、阿波源氏、三好長慶(みよしながよし)の出頭人として世に出るに及んで瞬く間に中央政界を制圧した。その威勢は長慶滅んでのち、王都を領した織田信長についても及び、一時は京堺の一切の政治は、久秀を介さずして、一歩も進まぬ、と言わしめた。

乱世にして梟雄(きょうゆう)と称される何よりの由縁である。


「だが、その悪の灯火もやはり絶えた」

今から二年前、天正五年のことである。この梟雄はついに、織田信長に見切りをつけた。久秀にとっては実は、二度目の叛旗(はんき)であった。しかし抵抗もむなしく、その年の秋に信貴山城を爆破、稀代の梟雄は粉みじんに砕けて果てた。

「城下の恨みを、大分買うたようですね、久秀と言う御仁は」


東大寺大仏を焼き払った、と言う松永弾正久秀の軍法は苛烈を極めた。畿内の覇王、織田信長の手兵を迎えるにかかる、莫大な戦費の調達が重税負担へと圧し掛かり、とりわけ領民への租税の徴発は常軌を逸していた。そのため十分な矢銭(やせん)(戦費のこと)を負担できないものは、見せしめに殺された。

中でも、

蓑踊(みのおど)り」

の酷烈さは、諸国でも噂の口に上った。梟雄は年貢を払わない領民を広場に引き立てては、見せしめに公開処刑を実施していたのである。蓑踊(みのおど)りはその、最たる惨刑(ざんけい)であった。

命を懸けて抵抗する領民を、久秀はぐるぐるの簀巻(すま)きにする。それに油をぶっかけて、そのまま火を放ったのだ。

火刑のほとんどは、通常、窒息死(ちっそくし)であると言う。火事の死亡と同じく、一酸化炭素が死にゆく人間の意識と生命を一思いに奪い去っていく。そのため見た目ほどの苦痛はないのだ、と言う。

しかるに蓑踊りによっては、その死は全く異なった。自らの身体を焼かれる苦痛を意識を保ったまま、最後まで味あわされるのである。ガソリンを被っての焼身自殺に近い。

純粋な焼死とは、急激に表皮を喪うことによって起こる脱水症状が原因の衰弱死だ。それは数ある人間の処刑法においても、最も苦痛を伴う処刑法だったと言える。蓑踊りにされた者たちは苦痛の限りの絶叫をぶちまき、死までの瞬間、この世に生きとし生けるものへの血の出るような悪罵(あくば)を放って死に果てる。


「多くの命火を燃やし果てさせた久秀殿の死はさぞ、壮絶でありましたでしょう」


巷間、久秀の死は鉄釜に詰めた爆薬を掻い抱いての爆死、と言われる。火薬を詰めたのは、信長が所望し、久秀が奪おうとした平蜘蛛(ひらぐも)と言う名器であった。

梟雄の肉体は大和の空に四散し、跡形も残らなかった。だがその死の直後から、この草深山中に往還の旅人の命を脅かす悪鬼が(あらわ)れるようになったのである。犠牲者たちの遺体は、獣が食い散らかしたかがごとく、夜道に放置されるのが常であった。

犠牲者の頻度は、三日と置かず。

死因のほとんどはなんと、焼死であった。


昏い森に放置された遺骸の山はまるで、人魂のごとく燃えていたのだ。

その(はらわた)は黒煙を発して()け、人脂(じんし)をとろかした熾火はとろとろと天を舐めつつ遺骸の四肢を焦がしていた。それはさながら蓑踊りの惨刑に処されたものたちの苦痛に満ちた死に様であったのだ。


「悪鬼は死んでなど、いなかったのだ」

どこか苦い笑い混じりに言う若武者の独白に、初震姫は音もなく(うべな)った。

「さながらでありましょう。されど、そは死したる悪鬼の仕業にあらず」

雷光が、二人に再び怒号を叩きつけた。

「悪鬼は死んだ、と?」

初震姫は応えなかった。代わりに、通り雨を髪先に浴びた雨滴(うてき)を物憂げに払った。

「かの者、死せしか否かは」

やがて巫女が口にしたその言葉は、若武者に密かに息を呑ませた。

「西岡殿、あなたがようご存知でしょう」

「これは、語るに落ちたようぞ」

唇を噛むと、西岡は懐から、焼けただれた辻ヶ花染めの小袖を投げ出した。涼しげな山藤の花房を染め抜いた柄の、焦げた布きれに血の跡がついている。

「おのれ、殺したな。我が愛すべき()となるべき女を」

西岡が合図した、そのときだ。

四方八方から沸き起こった種子島の銃火の嵐と、耳を(ろう)する爆音の中。

初震姫の細い体躯が、影のように駆け抜けた。獣の骨を断つほどの野太刀を抜刀しかけた、西岡の身柄を巻き込むように。

「くっ」

柄に手をかけた西岡の身体を、初震姫のしなやかな蹴足(けそく)が跳ね飛ばした。

硝煙の中を影が飛ぶように駆けすぎる。

西岡と同じ熊毛を羽織った鉄砲頭(てっぽうがしら)が、息を吐く間もなく斬り(たお)される。当時、戦場の鉄砲撃ちは物頭の合図なしには、発砲の支度すら出来なかった。暗殺兵器はたちまち沈黙した。

初震姫の戒状杖は、漆黒の刀身が仕込んであった。若武者は知っていた。

星震(ほしふり)の太刀。

それが、武家に蔓延(はびこ)る悪縁を鎮める、鎮魂の太刀である、と言うことを。

「久秀殿はすでに浄土を踏んでおります。そこに遺れるは、かの梟雄を忍道殺戮(にんどうさつりく)の道へと導いた凶星の落胤(おとしだね)にて」

初震姫の声は、この期に及んで穏やかだった。


姫謂う。

梟雄、久秀にはかつて名を明かされぬ想い人がいた。その不吉な女が、孕んだ娘こそが、梟雄の死後、顕れた悪霊の正体であった、と。


藤乃(ふじの)様は、最期まであなたの身を案じておりました」


峠の旅人を焼き喰らった化け物は、うら若い女であった。初震姫の剣を受け、女の姿に戻った化生は、泣く泣く、峠の亡霊になった経緯を話した。

「わたしの久四郎(きゅうしろう)殿」

西岡と言われた若武者の、下の名を呼んだ女は、断末魔にさんざめく。

「峠に亡父の怨霊が顕れたと聞いたとき、わたしはあの人に内緒でその霊を退治(たいじ)ました。されど虚空にさまよう亡霊は当然、あの暴君のみではなく」

久秀の怨霊に引き寄せられたのは、無惨な焼死を遂げた無数のものたちの苦悶を孕んだ、灼熱の人魂であった。悪鬼の血を分けた不吉な女はその人魂の群れに、寄って集られ、新たなる峠の化生となり、人を喰らっていたのであった。

「あの人には、話さないでください」

今わの際に理性を取り戻した女は、初震姫に懇願した。

「藤乃を捜しに、里の外へ出ないでください、とくれぐれもお伝えください。愛すべき人、同じ野心を孕んだまま、野に放ったれば、必ずや亡き父、松永悪弾正久秀と同じ、業深き(てつ)をば踏みましょう」


「藤乃が弄するか!かような埒も無き妄言をッ!」

西岡久四郎は野太刀を抜き放ち、初震姫に向かってついに構えた。かの姫の足元には、すでに落ちている。あわてて鉄砲を放とうとし、斬り棄てられた西岡久四郎の手勢の遺骸が。血と腸の中に佇みながら、若巫女は怖じる様子もない。それはうら若きその娘が、無言のうちに歩んできた修羅道の賜物であった。

「藤乃殿は気づいておられたのです。あなたもまた、かの悪弾正の落胤であることを」

息を呑んで、久四郎は打ち掛かった。しかし、初震姫の剣は、その太刀をからげ、難なくその凄まじい撃ち込みを受け流す。

「かつて赤震尼(せきしんに)と言う女がいました。野心のある男たちを誑かし、多くの騒乱をおこし、不要の殺人を各地で起こしました」

初震姫は、息苦しそうに言う。

「正しく…その女が、乱世に名高き悪弾正に血の野心を与えた、張本人でした。赤震尼は、藤乃殿の母です。あなたと藤乃殿は母親の違う弾正の落胤、いわば異母兄妹なのです」


「お願い。…この里を出ないとお誓いください」

藤乃は、久四郎に懇願(こんがん)した。初震、と謂う歩き巫女が、山家の久四郎の隠宅を訪ねてきた晩だった。普段は控えめな藤乃がなぜか激しく求めて来て、荒い息のもと、きれぎれに訴えたのだ。

「…あなたは、関わらないで。あの初震と言う巫女に関わったらだめ…この藤乃を不憫と思し召すなら、あの若巫女にはくれぐれもお付き合い遊ばさぬようお願いいたします」

お願い。

「亡霊退治の案内(あない)はこの、藤乃が引き受けますゆえ。どうか、どうか…」

いつにない必死の藤乃の訴えを、久四郎は惑いながら聞き届けた。

翌日、峠の案内を自ら買って出た藤乃は、永遠に帰ってこなかった。松永久秀の亡霊を封じたい、と言う、この初震姫と言う、流しの巫女の求めに応じたせいだ。


光芒のごとくほとばしる初震姫の逆手の太刀が、久四郎の荒縄の柄を真っ向叩き斬った。

切り立った金属音とともに、二つに分かれた柄と刀身の隙間から、初震姫の蹴り足が、久四郎のあごを刺し貫く。

「もうおやめなさい」

「ふざけるなッ」

真っ二つになった剣を棄て、久四郎は言った。

「俺に野心などあるかッ。そんなものは、この(いみな)があの父のものと知った日より、とうに棄てて生きてきたッ」

「そうでしょうか」

「喧しいっ」

なおも語ろうとする初震姫の鶴首を、久四郎は替え太刀を抜いて薙ごうとした。

「せあッ」

踏み込んだ藁沓が泥を()ね上げ、果たして豪剣は空を斬った。すでにそこに初震姫の身はない。

「記憶にありましょう、西岡殿」

すると、初震姫の声が突然、その背後で響いた。

「かの梟雄弾正が、なにゆえ信貴山城とともに果てねばならなかったのかを」


梟雄悪弾正が敗北したきっかけは、意外にも裏切りであった。かねてより、目をかけていた家臣を使い番に出したところ、その男に裏切られたのだ。

名を森伝介好久(もりでんすけよしひさ)、寄せ手の敵方である筒井順慶(つついじゅんけい)を裏切り、久秀についた人物であった。森は城外にひしめく織田の大軍に恐れおののき、西国の毛利、石山本願寺に救援を頼む密使を務めず、旧知の松倉右近を頼り、順慶へ寝返りを行ったと言われる。


「あなたは山中、森殿に出逢うたはず」


「森殿、お初にお目にかかる。拙者は貴殿の主君、あの信貴山の悪弾正のせがれにて」

「おお!おお!」

森は一にも二も無く、ふいに現われた久四郎の言葉を信じた。なぜならばその典雅な顔立ちは、老いたる梟雄の若い頃と生き写しであったからだ。

「森殿、寝返りなされい。もはや織田の軍勢に勝てる見込みこれなく。父はせめて貴殿のみは筒井家に帰参なされよ、と言い含めひそかに拙者を密使に立て申した」

久四郎は森を前に、よどみなく嘘を吐いた。

「ついてはお願いがござります。不肖西岡、山家の小さな食い扶持を与えられて今日、生きて参りました。信貴山城落ちてのちの父の心配は、我が山里の生活にて」


「あなたはそのとき父、弾正を売りましたね。自分の所領さえ守ればいいと、密使をそそのかして織田方に寝返らせ、筒井方に所領の安堵を」

「そっ、それの何が悪い!たかがっ、たかだかッ、そんなことの何がッ!」

雷鳴の炸裂音がまた、地を揺るがした。切り立った雷光に照らされた久四郎の瞳は、その輪郭すらも分かるほどに潤っていた。

久秀(ちち)は何もおれにくれなかった。野合(やごう)(行きずりのこと)の女を孕ませたのを幸い、知らぬふりをしておれに会おうともしなかったのだ。おれがようやく藤乃と得た、暮らしのことなどッ、あの男は歯牙にもかけずあの山にいたッ」

「藤乃殿はあなたがしてのけたことを知っておりました。その上で、わたしに言ったのです。あなたは、あの信貴山落城以来、人変わりをなされた、と」


「ちょろいものだ。あの悪鬼めとまで言われた男が、たった一言、わしの流言であっけのう滅びおった」

しれしれと、久四郎が笑ったのを、藤乃は閨で聞いていた。普段はどちらかと言えばもの優しいこの男が、父・松永弾正の敗亡を語るときは、いかさま自分の謀略がそれをなしたことを誇るように、顔つきが醜悪になることを、藤乃は畏れていたのだ。

「初震殿、どうにか止めて下さりませ。久四郎殿は亡父、悪鬼弾正に憑かれております。わたしとの暮らしを守ることを口実に、謀略や流言によって人を貶める詐欺悪漢の妙味をしめてしまったのです。しかし今のわたしにそれを諌める資格はありませぬ。我が忌まわしい母、赤震尼の血を目覚めさせ、化生となったこの身なれば」


「ううううッ!うるさいッ!うるさああああいッ!」

血走った男の目にはもはや、その身に巣食った悪鬼の宿業しか残ってはいなかった。


「もしあなたが、わたしを不憫と思し召さるなら」

絶え絶えの息の下、藤乃は末期の言葉を遺した。

「ひと思いに(はふ)って下さりませ。忌まわしき化生のこの藤乃と、悪鬼の申し子、久四郎殿。黄泉平坂(よもつひらさか)を手に手をとって、来世こそ、仲睦まじく。比翼の鳥となれるを、ただ願いたく」


「聞き届けました、藤乃殿」

襲い掛かる久四郎を前に、初震姫はひとりごちた。

「再び来世にて、結縁(けちえん)なされませ」


挿絵(By みてみん)


純白の雷浴が地を満たした。

再び怒号が鳴り響いた後、若巫女の影はそこになかった。


「この時季の雷を、特に界雷(かいらい)、と申すそうですね。田が潤う、梅雨の雨を呼ぶ春界雷(はるかいらい)

初震姫の声に、男はいまだ曇天の空を見上げた。ぱらぱらとどこかでまた、雷が轟いている。(ふき)の煮物を箸にとり、男は、詰まらなそうに眺めてから口に入れた。

「何が言いたい?」

鷹の目のような鋭い視線が、初震姫を見つめている。初震姫は与えられた杯には口をつけず、小さく息をついて見えぬ目で男を睨み返した。

「また、時代(とき)が変わります。逃れ得ぬ宿縁、かようなときのこそ、芽を吹き乱れ咲くものにて」

初震姫は懐から、何かを取り出した。それは彼女が斬り伏せた西岡久四郎が持ち出してきた、藤乃姫の焼け焦げた小袖のきれだった。

「藤乃殿は、弾正殿の娘ではありません。弾正久秀に仕えていたあなたが、かって主人に内証で作りし落とし子ですね。本多弥八郎(ほんだやはちろう)殿」

視えぬはずの初震姫が不意に、つるりとおのれの鼻筋を撫ぜてみせた。すると男はぴくりと神経質そうな眉をひくつかせ、初震姫を睨みすえた。これも久秀と似て非なる風貌であった。だがなるほど、猛禽類を思わせる弾正のあの鉤鼻に、男の鼻は酷似していた。

「依頼は果たしました。ご旧主、弾正久秀の亡霊、すでにおりませぬ」

男が何か言い訳をする前に、初震姫は言った。

「されどご注意なさいませ。また、いつでも天は荒れますゆえ。梟雄の申し子殿」


本多弥八郎。

この男、のちの本多佐渡守正信ほんださどのかみまさのぶ

のちの天下人、徳川家康(とくがわいえやす)に仕え、唯一無二の謀略家となる。老家康の分身として江戸幕府の政務一切を牛耳ることになるのは、更なる後年の話である。


「文は、つけてくれましたか、五鶯太(ごおうた)

まだ、ぐずついた軒先に出た初震姫に影のように少年が沿う。忍び働きの身のこなしを匂わせる彼は、初震姫の唯一の連れであった。

「ああ、夫婦鹿屋(めおとじかや)の女将さん、心配してたよ。あの松永弾正がいなくなってからこっち、信貴山中は山賊の巣だから、ってさ」

「そうですか」

甲斐甲斐しい女将の声が、初震姫の脳裏に思い浮かぶ。この山中行を世話してくれた夫婦鹿屋の女主人は、かつて初震姫とともに赤震尼を打ち滅ぼす旅をしてくれた小野桐峰(おののきりみね)に所縁の大和の商家だった。

「帰りに女将が寄れって。ご馳走沢山用意してあるから」


「どうせ、桐峰殿とおんなし、ようけ食べはるのやろう」

鬼瓦のように顔つきこそいかめしいが、親しみ深い女将は苦笑していたと言う。


「宇治丸やら鯉やら、用意して待っててくれているみたいですよ。初震姫さん、山菜はもう沢山だって文句言ってたから」

「そうですか」

初震姫は口元を綻ばせながら、遠い九州への旅を想った。どこか別の空に、桐峰もいることだろう。

「お腹が、空きましたね」

「て言うかいつも、そればっかりですよね?」

ぐうう…とぐずついた音を立てて、初震姫のお腹が鳴ったのはそのときだった。


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九藤朋さんが描くアナザーストーリーはこちら→ 小野桐峰 閃刃祈闘
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